『信じる』に隠されたもう一つの意味
バイトの休憩時間に、漫画アプリで漫画を読むのが好きだ。
今ハマっているうちの一つが『LIAR GAME(ライアーゲーム)』で、僕が高校の頃に実写ドラマ化された人気漫画だ。松田翔太の「お前の負けだ(ドヤァ)」がかっこよくてシビれる。
ストーリーは漠然と記憶しているものの、ゲームの一部始終などはすっかり抜けていたので、初めて読む感覚で楽しめている。
先日のことだった。いつものように読み進めていると、あるシーンにとてつもない衝撃を受けた。衝撃というか、腹落ちに近いかもしれない。
第29話、ライアーゲームの敗者復活戦が終わった後に、主人公・ナオとアキヤマ(松田翔太が演じた役)がファミレスで話しているところ。
アキヤマの台詞が、なんというかものすごく納得のいくものだったのだ。
『信じる』=他人を知る事の放棄=無関心。
このシーンを読んだ瞬間、「あ、こういうことだったのか」と思った。
◇
公務員をしていたときのこと。
翌日に重要な会議を控えていたと思う。ギリギリまで資料が出来上がらなかったのだが、前日の夜遅くになんとか完成させた。
雨の日の公園の落ち葉みたいにくちゃくちゃになった僕は、ボロボロの体を引きずり、完成した資料の確認を求めに上司の席まで這っていった。
すると上司は、
「お前を信じるから、確認はしない」
とだけ言い、そのまま帰路に就いた。
なんそれ!(©ZAZY)
いやいやいやいや、「お前を信じる」じゃなしに!それはあなたの仕事だろがよ!仕事してくれよ!
ギリギリまで時間がかかったのは、確かに僕の不手際である。しかし、内容の確認は二段構えでやらなければいけないじゃないか。
もしも「障がい福祉」を「生涯拭くし」と誤字ってたら、どうするつもりなのだろう。僕は一生雑巾がけをしなければならなくなってしまうのか。
この「お前を信じる」は『信じる』ではなく、考えることの放棄だったのだと、数年の時を経て気づいたのだった。
◇
別に、何かへの信仰を否定しているわけじゃない。
アキヤマの台詞にもあったように、『信じる』とは高尚な行為、大切にしたい考え方ではある。
たとえば、ほとんどの人は道を歩いているとき、「向こうから歩いてくる人に襲われるかもしれない」ということは考えない。
これは、ある意味で『信じる』行為と言える。
仮に、何らかの事情でそう考えてしまうとしたら、それはとても苦しいことだ。自分以外の全員を信用しないのは、想像以上にストレスがかかるのではないだろうか。
また、『信じる』ことは、言い方を変えると『委任』とも取れる。判断を相手に委ねる、ということだ。
たとえば、クイズ番組の最後の問題で、「ここは伊沢さんを信じます!」みたいな状況があると思う。
自分は(解答権がないなどの理由で)力になれないが、正解しようがしまいがクイズ王にすべてを任せる。正解すれば良し、不正解でも受け入れる。
そういう心持ちは、決して悪い方の『信じる』ではないように思う。悪い方向に転んだとしてもそれを気にしない(責めない)ことが、良い意味での『信じる』ことではないだろうか。
信じるも疑うも、何事もほどほどが吉。
この話を、アドレス変更を装った迷惑メールに「これも一つの出会いだ」とマジレスした昔の僕に、懇々と説いてやりたい。