磯貝治良・斎藤環のミソジニー?
なかなかいい文章だ。在日女性文学の解説として申し分ないとも言えよう。
かつて竹田青嗣のミソジニーについて書いた。李良枝イ ヤンジの中編『刻』についての感想、「在日の作品というより女性のそれだと感じる」と述べていたその竹田への批判であった。
それについて、こう書いたのを覚えている。「在日臭より女性臭が強いとでもいいたかったかのようなこの評言は何なのだろう。在日作家というより女性作家の作品のようだ云々。」
そして結論めいた言葉として「在日作家≒男性なのであり、女性作家を密かに排除していることがコノートされているのではないか。在日作家≒男性は、また即座に在日作家≠女性をコノートしないかということだ。」
ここてもう1つ例を挙げておく。
斎藤環「生き延びるためのラカン」の一節。
「人間は、去勢されることで、つまりペニスの代わりにファルスを獲得することによって、この象徴界に参入する。(中略)女性に哲学者がいないっていうのも、どうやらこのあたりに関係がありそうな気がする。
(中略)僕が考えるに、哲学者っていうのは、まずなによりも言葉をいちばん厳密に扱う人のことだ。厳密、と言ったって、なにも語源がどうの、文法がどうの、という話じゃない。言い換えるなら、言葉だけで世界を再構築できるかを厳密に問いかける人のことだ。
https://www.cokes.jp/pf/shobun/h-old/rakan/14.html
うーむ、そうなのかな。この一節はずーっと気になっていた。
「性というのは、ラカンによれば、象徴的にしか決定されない」と述べながら斎藤は「女性」を実体的に語ってはいないか。それに「女性に哲学者がいない」てのも暴言のような気がする。(暴言どころかこれ一発でレッドカードでしょう。優れたラカンの解説者でありながら、自己自身の見解を述べるや馬脚を表し性差別的言辞を臆面もなく吐いてしまう。)
哲学者の定義、哲学者とは、「言葉だけで世界を再構築できるかを厳密に問いかける人のことだ」そうだけど、具体的には誰が当てはまるのだろう。「言葉だけで世界を再構築」かぁ。
しかし今時、「言葉だけで世界を再構築」することを考えている人なんているんだろうか。そんなことを「厳密に問いかける人」なんているんだろうか。
というのも哲学とはそういうものかという疑問もあるけど、何よりもここで斎藤はファルスの獲得で象徴界=言葉の世界に参入するとラカンの考えを敷衍し、言葉の世界がファルス中心主義であるのだから、その世界が「男性」的なものであり、男性中心主義に陥るのは当然なのだから、「女性」に「言葉だけで世界を再構築できるかを厳密に問いかける」のが女性に不向きだというのは、殆ど同語反復トートロジーではないのか。
いや斎藤は言葉の世界が男性中心主義だというラカンの思考(独断?)の一例として、或いはその説の補強として、女性哲学者の不可能性をあげているとも読める。
だから気になっていたのは象徴界のファルス中心主義、言葉の世界のその男根中心主義なんだろうと思われる。フロイトのペニス中心主義にしろ、象徴化したにしろラカンのファルス中心主義という、男性中心主義的な思考にミソジニーを読むのはさほど間違いではないだろう。フロイトにしろラカンにろ精神分析の思考を読むのに注意しなくてはならないのがこの男性中心主義であるのは竹村和子の指摘する通りであるだろう。
さて長くなるけど、金石範は「これでもフェミニスト願望」という小論で次のように述べている。
男性中心の世界を描く自作についての弁明として「まずは男性優位の社会なので、政治、経済、文化その他のイデオロギー、そして人間の行動原理といったものが男のなかに集約的に現れるということがあって、戦争にしてもそうだが、男の存在が歴史を基本的に動かしてきたといえるだろう。つまりここでは女は落ちこぼれ的存在でしかない。女が歴史を動かし人間の営みを支えるのは陰の部分、裏側でということになる」に至ってはどうだろうか。自分が男性中心の物語を書くのは世界が男性中心だからであり、女性は「陰の」世界の住人だと言い放つとき、彼は男性中心主義社会を解体しようという意志の欠如を表明し、さらにはその男性中心主義社会をそのまま描くことでその社会をより強固にする効果を助長することに加担している、そのことに無頓着である以上に、女性を影の世界に追いやっているのは誰かという自省の欠如を示している。彼の考える「フェミニズム願望」とはその程度のものなのだということだ。
さて磯貝の文章も竹田や斎藤や金の評言と同工異曲だと言えば、非難を受けるだろうか。あらかじめ言っておくが、当方は磯貝の作品を全部読み、その謦咳に触れ、在日の文学について随分多くを学ばせて貰ったし、共に酒席で文学を語りあった間柄である。侮辱するつもりは毛頭ない。
ただ在日文学の「中心」が男性であり、「国家、民族、歴史と人間とのかかわりをめぐる『大きな物語』をえがいてきた。」うんおおむね当たってることにしておこう、とりあえずは。
一方女性については、「女性な表現は身体をくぐらせて、民族意識と併走する家族・私・性の物語を描いている」。
まず気になるのはこの「地に舟をこげ」という雑誌が、賞を設けるに「朝鮮半島にルーツのある女性」とありこれにはたまげた。植民地時代のはるか以前から満洲や間島にすみ、今では中国の領土に含まれ中国の朝鮮族と呼ばれる人たちは半島にルーツはなく、むしろ大陸にあるだろう。そもそも「朝鮮半島」との境界はどこに見出すのか? 済州島は含むのか、壱岐は?対馬は? 国民国家が国境を作った。朝鮮半島という地理的地域は韓国と北朝鮮という領土内にを指し、そこをルーツに持つ女性だけが有資格なんですね。
朝鮮半島にルーツはないけど在日問題にコミットしている人間に参加資格はないのか、また男性はあたまから排除されるのか?
こんな排他的な雑誌が長続きするはずがない。まず生物学的男女二元論の肯定を前提にしているのは問題化されなくてはならない。
で磯貝の評言、男は大きな物語、女性は身体や家族の小さな物語を紡ぐのだ、そしてそれが在日文学の枠組みを広げることになるのだ。女性文学は身体を介して家族などの〈小さな物語〉に終始しておれば宜しい、それで在日文学の枠組みを広げる働きをするのだから、在日文学の中心にはなれないけれど周辺に住まいすることはいいことだと。これは金石範が社会の中心は男性であり、だから男性中心に描き、女性は陰に追いやられる、と似たような言説構造だ。女性は決して陽の目を見ること、焦点化されることはない、ということをコノートしているとも読めはしないだろうか。
磯貝が決定的に見誤っているのは、女性文学のありようが周辺を広げるものとばかり見ていて、それが従来の男性中心主義の在日文学の知の枠組みをずらし、在日文学の言説に果たしている男性中心主義の兆候を読み取り、交渉し翻訳し、上手くいけば転倒させようとしているこのなのではないかとするなら、磯貝はどう応答責任responsibilityを果たすだろうか。
磯貝の最新小説「道⭐️連れ」にこんな一節がある(間に挟まれた⭐️は原文である)犯罪者にして語り手の「僕」は「うみもり」というおじさんと知り合い、数日のサイクリングに出かけ、そこでの交流が小説の中心である。「僕」こと「H容疑者は窃盗や強制わいせつ、建造物等以外放火、万引、路上ひったくり、強盗致傷など四十三件の容疑で逮捕され」たが、勾留中に脱走して「うみもり」と出会ったのだった。ここには性犯罪がひとつ紛れ込んでいるのにお気づきだろう。
強制わいせつ罪と強制性交等罪とはかなり近い罪状である、それを窃盗や建造物等以下放火、万引、路上ひったくりのような犯罪と、たとえ刑法上軽犯罪的な罰則のものだとしても(もっとも強盗致傷はかなりの重罪だ)、同列に扱うのはどうなのか。
女性の身体を衣服の上から触ると「痴漢」で「迷惑防止条例違反」になるとか、それに対して「強制わいせつ」は女性の身体に直接触る、接触するのだ。つまり女性の性器に直接手を触れることも強制わいせつ罪なのだ。極端に言えばヴァギナに指を突っ込むと強制わいせつ罪、ペニスを挿入するとレイプ(強制性行等罪)というわけなのだろうか。
いずれにしてもかかる犯罪者の逃亡を助ける「うみもり」とは?
ま、それは作品を読んでもらうしかない。
そうそう、第一回「舟をこげ」賞を貰った康玲子「私には浅田先生がいた」という作品なついてもいつか触れてみたい。
それにしても何と意地の悪い読み、誤読をしていることか。ただね、
① 精神分析学
② ポスト構造主義哲学
③ フェミニズム哲学
この三つ巴を長年読んで来ると、自然とこんな意地悪な誤読がしたくなるんですよ。
誰だって自分がどのような人間か知りたいでしょうに。だったら今からでも遅くない、これらの書を読んでいくなら、少しはいいことがあるかもね。
少なくとも、安倍晋三昭恵は牢獄で苦しむべき人たちであり、国葬なんてとんでもない。