Wuxiao

読書狂かも。でも身につかない市井の平々凡々人。でも自公(維新)政権への怒りだけは💢満身に。

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【閲覧注意 原稿用紙換算400枚の長編です】黄英治『こわい、こわい』と原佑介『禁じられた郷愁』の交差的読解

〈別の仕方で〉読むこと。アルチュセール、ランシエール、マシュレーによる『資本論を読む』(1965ちくま文庫版1996)p028-031によれば、マルクスが例えばスミスとリカードを読む読み方には「根本的に違う二つの読解原理」が働いていると。第一のそれは、マルクスは自分の先行者であるスミスの言説を、自分自身の言説を通して読む。スミスのテクストが、基準としてのマルクスのテクストを通して透けて見えるといった読み方であるが、その結果は、「一致と不一致の目録、スミスが発見したことと彼が失

    • 細かく言うと、香港のRey Chawと韓国のChung Moo Choiは映画でも素晴らしい批評を展開。2人ともフェミの観点から鋭い批評を展開してるけど、映画批評の観点から2人を交差的に論じてる日本の研究者っておられるのかなぁ。おられたなら読んでみたいよ。

      • 要は欧米韓日のフェミニズムの中に曾根崎ばかりか『カルメン』や『春香伝』、香港のRey Chowあたりの批評も視野に入れて東アジアと欧米の作品をフェミの観点から読み解くという実践、こりゃおもしろそうじゃないと、我ながら。

        • 韓欧米日のフェミニズム⑤に向けて 日韓米のフェミニズムで④回書いたけど、曾根崎心中も2回まで書いたけど、曾根崎を論じるなら『罪と罰』ばかりかオペラ「カルメン」の方がより適切かもと考えて、「欧」を入れた。曾根崎とカルメンの比較、ちと面白そうと独りほくそ笑む夜中のベッドの上。

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        【閲覧注意 原稿用紙換算400枚の長編です】黄英治『こわい、こわい』と原佑介『禁じられた郷愁』の交差的読解

        • 細かく言うと、香港のRey Chawと韓国のChung Moo Choiは映画でも素晴らしい批評を展開。2人ともフェミの観点から鋭い批評を展開してるけど、映画批評の観点から2人を交差的に論じてる日本の研究者っておられるのかなぁ。おられたなら読んでみたいよ。

        • 要は欧米韓日のフェミニズムの中に曾根崎ばかりか『カルメン』や『春香伝』、香港のRey Chowあたりの批評も視野に入れて東アジアと欧米の作品をフェミの観点から読み解くという実践、こりゃおもしろそうじゃないと、我ながら。

        • 韓欧米日のフェミニズム⑤に向けて 日韓米のフェミニズムで④回書いたけど、曾根崎心中も2回まで書いたけど、曾根崎を論じるなら『罪と罰』ばかりかオペラ「カルメン」の方がより適切かもと考えて、「欧」を入れた。曾根崎とカルメンの比較、ちと面白そうと独りほくそ笑む夜中のベッドの上。

          ウェ文章とは? 蜘蛛の巣のように周辺も中心もなく、ただ網の目のようにようにひたすら広がって行く言説群。〈中心〉という観念の検討でもある。〈フーコー以後〉なる時代があるとすればそれこそふさわしい試みかも知れないのだ。

          ウェ文章とは? 蜘蛛の巣のように周辺も中心もなく、ただ網の目のようにようにひたすら広がって行く言説群。〈中心〉という観念の検討でもある。〈フーコー以後〉なる時代があるとすればそれこそふさわしい試みかも知れないのだ。

          ウェ文章①

          七〇年代まで、近代文化批判としての論拠は前近代しかなかったのかも知れない。その頃の学生の一人として右手に小林秀雄、左手にサルトルやカミュの実存主義哲学といった具合いであった。 八〇年代になるまでの近代批判として有力だったのは反近代主義者小林秀雄であった。利口なやつはたんと反省すればよい、自分はバカだから反省などしないといった有名なセリフのあと、彼の戦後は『本居宣長』論の執筆に明け暮れた。近代を批判するのに前近代を持って来るというのはノスタルジアも手伝いなかなか説得力も人気も

          ウェ文章①

          フェミニスト哲学

          そのアジェンダは、 性差別(ジェンダー不平等批判に止まらない) 階級差別(経済差別) 民族差別(人種差別)に対する徹底的批判 その方法として 精神分析学 ポスト構造主義思想 フェミニスト哲学の三つ巴 三本柱ではそれぞれ別個の思想や運動のように、あるいは根っこが異なるそれらのように捉えられる恐れがあるからあえて「三つ巴」と呼ぶ。「三つ巴」は三者が複雑に絡み合ってる様を言い表わしているように思えるからだ。

          フェミニスト哲学

          参考文献

          日本語ばかりでなく朝鮮語での作品をも網羅したものとしては、任展慧『日本における朝鮮人文学の歴史―一九四五年まで』1994が先駆的な労作である。 また、朝鮮語作品をも網羅した一九四五年以後の歴史は、『「在日朝鮮人文学史」のために 声なき声のポリフォニー』2014がある。これは一九四五年から一九七〇年までを扱っており、同時にフェミニズムの視点から本書の引いている竹田青嗣『〈在日〉という根拠』批判ばかりか、第二章「源流としての女性文学史――識字・ライティング・文学」がそれぞれ秀逸

          参考文献

          安倍国葬阻止 by駒場東大

          安倍国葬阻止という立て看が出たとか。「反対」でなく「阻止」なのがミソ。遠くから連帯のエールを送りたい。 全国の大学生の呼応することを期待したい。 かつてはペンクラブなどが敏感に反応して阻止に向けて声明を出したりしていたけれども、昨今はペンクラブも死に体ですね。弁護師協会も労組も然り。 Wikiには全国に「哲学カフェ」なるものがあり、アカデミズムの「外」で哲学しよう、思考しようという動きが盛ん。 ただカフェに集まりお茶を飲むだけでは、たとえ哲学しても「高等遊民」の集いの

          安倍国葬阻止 by駒場東大

          梁容子*やん よんじゃ

            次の一節は一九八五年の指紋押捺拒否闘争の頃の梁容子の文章。 旧態依然とする儒教制度にがんじがらめにされ、家事育児はもちろん、祖先を敬う民族よろしく祭事に追いまくられ、夫の親には孝行を、嫁に行かない女は「人間でないかたわ者」と、民族解放を論じる同じ舌で「人間」から排除。結婚すれば男を生むまで子をはらみ続け、そして家内工業の無償の労働力として働かされる。さらに「女は政治や男の話に口をはさむものではない」と、社会性を持ち男と同じ知的水準を持つことを厳しく封じられる。まったく妻

          梁容子*やん よんじゃ

          「国民作家」という装置

          『創造された古典』や『創られた伝統』についてはかつて触れた。 ここではイーグルトンの[文学とは何か』を参照してみる。夏目金之助が英国に滞在していた世紀の変わり目、英国はボーア戦争に苦戦して民心の離反に苦慮していた。 そこで民心統合の装置として持ち出されたのがシェイクスピア。彼を「国民作家」と持ち上げ、国民に自分たちにはあの偉大なシェイクスピアがいるんだと。 「国民作家」などというのは民心統合の装置に過ぎない。 漱石夏目金之助や鴎外森林太郎が近代作家の巨匠であるかのごと

          「国民作家」という装置

          『「戦後」ゼロ年』 by目取真俊

          目取真はいまだ「戦後」は訪れてないと語る。沖縄の現実を見れば、それもさもありなん。 彼は日本のメディアが3つのタブー(天皇、創価学会、自衛たいを作ったことに大きな問題があると。 詳細は忘れたので彼の問題提起に従い日本のメディアのタブーを上げてみよう。 天皇制、自衛隊(軍隊)、警察(検察、裁判官、弁護士)、公明党(創価学会、統一教会)、官僚制(特別会計、学歴主義)など。 これらに対する批判は、メディアが徹底して避けてきたものだ。 ヒロヒトを処刑せず戦犯政治家を返り咲か

          『「戦後」ゼロ年』 by目取真俊

          近松『曾根崎心中』を読む②

          1996年の〈慰安婦〉たちの証言集会で、と哲学者大越愛子は語る。(97年9月号の雑誌『現代思想』、高橋哲哉との対談) 彼女たちは「自分たちは〈慰安婦〉ではない。自分たちは日本軍兵士に性的慰安など絶対にしなかった。、彼らは私たちを強姦したのだ」と怒りをこめて主張しました。 大越は日本の性風土には、女性が自らを犠牲にして男の欲望を受け入れ彼を救済するというようなものがあり、大越はそれを「日本的観音コンプレックス」と名づけている。 〈慰安婦〉という呼称もその典型。男性兵士は勝

          近松『曾根崎心中』を読む②

          美しい仮面よ、私はお前を知っている by Sainte-Beuve

          竹田のこの陽水論は過去にセンター試験だったかに出題されたものだ。いやはや読んでいて気恥ずかしくなる体の文章ではないか。(読みにくいでしょうから、以下の文章で出来るだけ分かるように書いたつもりです。) まず冒頭の陽水歌詞からして月並みだ。「笑顔で隠す男の涙/男は一人で旅するものだ/荒野をめざして旅するものだ」。女性についてもそうだ。「女は清くやさしく生きて/電車に乗れば座席を譲り/悲しい歌が聞こえてきたら/ほろりと涙流してしまう」 性別二元論に基づくmale chauvin

          美しい仮面よ、私はお前を知っている by Sainte-Beuve

          戸籍簿と競争する by Émile Zola

          ゾラは、両親の人となり、家庭環境が分かればその人の一生を描くことが出来ると豪語した。親からの遺伝(当時流行の遺伝学)と社会経済的環境がその人間の一生を決めるというのだ。 まぁ一理あるように思える。運動神経や肉体的特徴など目に見える側面ばかりか、性格や気質も「親譲り」はそれなりに認められるよだからだ。〈近代の遺伝学への異論はまた別の機会にでよ。〉 社会経済的環境も、階級社会でなくたったとは言え、新たな経済階級に影響されたり、東アジア特有の縁故主義なんかにも大きく左右される。

          戸籍簿と競争する by Émile Zola

          nonohometown1818

          これも、興味深いハンドル名というか、「ノマドサバルタン」のメインハンドル名。「ノマドサバルタン」の方がサブだったのだ。 さて。「nonohometown1818」を解釈するなら、「故郷なんて要らないよ、そんなものイヤ(18)だよ」 日系米人ジョン・オカダの『ノーノーボーイ』を連想させるネーミングだけど、翻って現代の私たちに故郷なるものはあるのか? 故郷とは何なのか? 故郷とは「定住」思考/志向の典型的産物だろう。生まれた場所や育った空間にどれほどの意味や価値があるという

          nonohometown1818