nonohometown1818

これも、興味深いハンドル名というか、「ノマドサバルタン」のメインハンドル名。「ノマドサバルタン」の方がサブだったのだ。

さて。「nonohometown1818」を解釈するなら、「故郷なんて要らないよ、そんなものイヤ(18)だよ」

日系米人ジョン・オカダの『ノーノーボーイ』を連想させるネーミングだけど、翻って現代の私たちに故郷なるものはあるのか? 故郷とは何なのか?

故郷とは「定住」思考/志向の典型的産物だろう。生まれた場所や育った空間にどれほどの意味や価値があるというのか。

啄木は、故郷は遠きにありて思うものと看破していた。キリストも故郷では説教を行わなかった。

現実に故郷に戻ると人々は決して懐かしいばかりではないし、馬小屋で生まれた私生児とバカにするからだ。

戦後民主主義をバカにする作品を書いていた阿部昭が戦前の価値観を生きる両親を美化する小説を書くのは当然とも言えようけれども、戦後民主主義のお陰で、相変わらず戦前の皇国史観を内面化し、事大主義的に自民党を支持するような両親/家庭/家族から、早く離れたいという欲望を持った/持てるようになった当時の若者はむしろ幸運だと言えるかも知れない。

近所の人たちも大同小異というか同じ穴の貉てあれば尚更だ。戦前の変わらぬ思考(ではなくむしろ情熱とかエートスでしかないだろう)のそんな所に帰りたくなど金輪際ない。喜んでノマド/遊牧民となろう。

結婚してから6度も転居してれば、既に充分にノマドの資格あるかも(笑

隣近所の人たちだって、自民党や公明党のポスターがそこら中に貼ってあるような人たちだ。いくら隣近所だといってもそんな人たちとは口も利きたくないし、付き合いなど真平御免だよ、町内会もお断り、なんて考える狷介な性格の者は村八分になるしかないんだよね。どうせ仮の住まいだ、永遠にそこで生きるわけでなし、と自分を納得させておこうか。

故郷なつかし、ふるさと恋し。この心情の延長上に「祖国」への愛がある。カントロヴイッチの『祖国のために死ぬこと』では、祖国とはあの世のことだ、あの神の国のことなのだとある。それが近代の国民国家システムに取り込まれ、兵士が国民国家のために死を捧げることへと変換され利用された。

国民国家システムとは1言語、1民族、1国家をスローガンとしての国家建設だった。国境というものを定めたのもこの国民国家だ。

国境を守るとか、国家を守るとか、家族を守るとか、そのために殺人の訓練をするのが軍隊なるものだ。外国人を殺すそのためにはナショナリズムや家族愛や愛国心とかを最大限に喧伝し植え付ける必要がある。

幸い都会に生まれた近代人は生まれた時から「ウサギ追いかの山」や「小鮒釣りしかの川」とは無縁だ、有難いことに。だから守るべき故郷をも国家をも家族をも、持たない覚悟で生きたいと思っている。少なくともそれらに大きな価値を置かないやうな自由なノマドとして生きることこそ我が理想なのかも知れない。