ノンデュアリティから見るツインレイ概念5
無条件でなければならない、はない。
無条件の愛って、美しいものではない。
「無条件」なのだから、良いことも悪いことも、優しさや慈しみ、酷いこと、苦しいこともすべて。
なのに、ツインレイは無条件の愛を体現するものだからこうですよ、こうしましょう というのは確かにそうなのだけど、その時点で条件付けてしまうことになる。
とてもノンデュアリティに似てると感じてる。
概念ではないのに、概念的にみてしまいがちになる。
誰かが何かを考えること、何かすること、ただそのように起きている だけに過ぎないこと
そこに自我が違う価値観を持ち、自分という自我とは違うことを「受け入れる」のか「受け入れられない」のか。
それも自由。
本音を差し置いて受け入れること自体、自然体に逆らっているし、イヤなことはイヤで良いのだ。
どんな方法もないし正しいルートなども存在していない。
ただ、相手との関係を良くしたい自我が、良くなる方法を探し求めてしまうことが起きて、その概念が発生した、それが起きた。
でも3次元的に価値観の違う相手を変えることも、自分を変える必要もない。
と書きつつ、それを書くことで無条件を否定するかのようになってしまうのが、いつものようにパラドックスで∞ループになる。
すでに無条件(終わりやルールや枠がない)だということは明らか。
二元的な3次元の世界では、望むことと望まないことは必ずセットになる。のはどうしようもない。
ツインレイ概念を採用している人で、望むことが起こらないということは、本当は望んでいないとうこと。
(ツインレイ的に言えば、何かに縛られたり自分を他者によって変えられること、形に囚われることを本当は望んでいないのに、自我が望んでいるように思わせている)
無条件の愛を採用しているにも関わらず、無条件から逸れていることを体現することが起こる。
「私」という概念が創り出す苦しみ
自我が創り出す概念や思考が、自分を苦しめていることは明らかなのだけど、それすら起きているから、いつも書くようにどうしようもないこと。
思考は止まらない。明らか。
思考(ツインレイ)にとどまり続けてしまうことは、苦しみを掴み続けることにもなる。
何か(相手や自分)が変われば苦しみが止まると信じることが、その思考が苦しみが続くことの始まりということ。
概念として「終わり」があるなら、「始まり」はセットになる。
ツインレイなどという概念を採用すると、そうでないことは必ずセットになる。
悟りを求めて、探求するのも同じこと。
思考は止められないから、悟れることはない。
そもそも「悟り」という定義みたいなものも、誰かが決めたものだとすると概念的なものでしかない。
何かしよう、何かを得たい。
本当は「何か自らできる私」などいないから。それのみ。
仮に、ツインレイと思わしき誰かとうまくいくことがあるなら、完全な受容しかないと降参した時。
純粋な愛ってなによ?
「私」が存在しているとする3次元エネルギーの中に、それはどこにもない。
なのだけど、すべて完璧に純粋な愛が全員の目の前にある。
ここはどうしたって3次元的エネルギーの中なのだから、前者なのは仕方ない。
その中でも親子の愛は純粋な愛(それ)に近いだろう。
それだって、すべての人に当てはまらないと思うから、それぞれ起きていることしかない。
ただ、それが起きているこの空間はなくなることがないし、ただ単純に「それ」は見えないけれどいつも目の前にある。
自己肯定感が低くたって良いし、誰かを恨むことが起きてもいい。
犯罪が起きてもいいとは自我としてはとても言い難いのだけれど、それもどうすることもできない、起きるときには起きてしまう。
あなたのしていること、考えていること、それ全部そのままでOK。
あなたは全部OKなのだから、他者もそれでOK。
誰かの思考、価値観、概念を変えさせようとせず、自分を必要以上に綺麗に美しい自分であろうとせず、理想の何か、自分を窮屈に変えることもなく、自分を低くも高くもせず。
自分の世界に起きていること、そのままで。
自分は自分の世界で完璧に起きてくることを体感している、他人は他人の世界で起きてくることを完璧に体感している。(3次元的エネルギーの中で)
その中で、完全受容という完全な安心感を誰もが無意識に求めるのは、すべて無条件であることを細胞レベルというか、素粒子レベルの「それ」をすべての人はどこかで含有しているから。
どう考えても「それ」を見つける「私(自我)ゲーム」をしているとしか「私」には思えない。