登校拒否児だった私が、娘の運動会で泣いた
自分が子どもだった頃とは違い、7歳になる娘が通う小学校では秋ではなく春に運動会が開催される。
去年は突然のコロナ禍のせいで、運動会の保護者の観覧は禁止になった。娘の初小学校運動会は、無観客配信オンリー。時流にあっている。
満を持して、今年、初めて小学生の子どもを持つ母として、運動会に参加した。しかし、全学年の保護者が集まることができず、2学年ごとの保護者入れ替え制だった。それでも、生で観られて写真が撮れるだけでもましだ。
いい歳をして、小学校に来ると落ち着かない。娘が通う小学校は自分の母校でもないし、なにも思い入れもない。住んでいる土地だって、たまたま流れ着いた場所だ。
それなのに、小学校に来ると、まるで薄暗いトイレの個室の閉じ込められたような鬱屈した気分になる。目を閉じて、その風景が浮かんでくると、すぐさま校庭を駆け出し、逃げ出したくなる。
そう、あの日のように。
私は登校拒否児だった。今から30年以上前だし、そのような言葉も一般化していなく、ただただ学校にいけないだらしない人間だと自分の事を思っていた。
完全に学校に通えなかったわけではない。なんとなく行きたくないが積もり積もり、「誰にも見つからなかったら今日は帰ろう」と学校の外壁の周りをひっそりと息をひそめて歩いていた。そして、誰かから「おはよう」と声をかけられれば、嫌々ながら校門をくぐり、校内にあるマリア様像にお辞儀をするのだ。
私は、小学校を3回転校した。私立に受験して入り、引っ越しなどの理由で公立に転校し、当時住んでいた名古屋から仙台へ親が転勤した際に、公立の小学校に転校した。
仙台で通っていた公立の小学校は、裸足教育だった。冬でも外の校庭で、裸足で体育の授業を行っていた。なかには家庭の方針で、半ズボンしか穿いてない同級生もいた。母は、その小学校の教育方針を良しとしなかった。ある私立の女子小学校に執着し、毎年、欠員が出て編入できないか狙っていた。
数年待って、私が5年生になるタイミングで欠員が出て、編入試験を受験し、念願の小学校に入学した。
それまで、小学校の帰りには友達の家でファミコンをしたり、公園で遊ぶ生活から一変した。黒いランドセルを背負い、満員のバスに乗って通学しなければならなくなった。髪型は三つ編み、ハンカチは白いガーゼだけ、靴下も白、放課後も、それまで勉強していなかった英語の授業についていけなかったため、編入組と補講を受けた。
付属の幼稚園や入学時から通っていた生徒たちとも、合わなかった。時代がバブル期なのも重なり、サラリーマン家庭から、私立小に入学し、保護者会に外車が並ぶような家庭と経済格差も子どもながらに感じた。
また、色々な行き違いからいじめにも遭って、だんだん学校に行きづらくなった。気づけば、私は週に3,4日と学校を休みがちになった。登校する時も、2,3時限目から母に連れられてやっと通うような始末。一度、一週間丸々休んでしまって、病気の証明書が必要になった。
学校行事にも参加するのが苦痛で、なかでも運動会が嫌いだった。ダンスは、前の人を見て踊ればいいと思っていたから、練習もまともにせず、目立たないように後ろの列になった。当時は、挨拶もろくにできないし、当然、一緒に帰るような友だちもいなかった。
先生の言うことに心の中で反発し、人と違ったことをすることや、ルールを守れないことがかっこいいと勘違いしていた。運動会も、一生懸命はかっこわるいと思って、手を抜くくせに、個人競技はちゃっかり頑張るような子どもだった。
そんな私が、娘の運動会で、赤の他人の子どもたちが踊った『ソーラン節』を観て、涙が出てきた。
先に言おう。『ソーラン節』に、娘は出ていない。『ソーラン節』は上級生の演目で、誰一人として、児童に知り合いもいない。
それなのにも関わらずだ。
自分が一番、大嫌いだった場所で、小学校で、
一番嫌いだった運動会で、泣いた。
一生懸命に曲に合わせ、声を出し、身体全体を使って何かを伝えようとする姿に涙が出てきた。
私は、それを知らない。
誰かと、同時代を過ごし、同じ思いで一つのものを作ったことがない。
自分という個ではなく、みんなで何かを作り上げる喜びや
共感を、経験したことがなかった。
学校から逃げたかったのは、自分が失ったものが大きいことに
気づきたくなかったからだ。
誰もが、自然に経験しているような共感体験を
私は、してこなかった。
最後には、自ら放棄した。
友だちがいて、嫌なことがあっても楽しくて
一生懸命で、記憶に残るような経験をしてこなかった。
「子どもなんて、どこにいってもすぐ馴染んで
昔の事なんて忘れちゃう。すぐ友達もできるわよ」
オトナは私によくそういった。
でも知っている。小学校3回しか転校していないけれど。
子どものコミュニティだって、自分から心を開かなければ
受け入れて貰えない。昔の友達だって忘れないし、
すぐ友達もできない。
今、私は娘に言いたい。
なんだって精いっぱい頑張って欲しい。
目の前の友達との時間を、大事にして欲しい。
オトナになって、私みたいに泣いてほしくない。
これが、私が失敗から学んだことだ。
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