『蠅の王』ウィリアム・ゴールディング 感想
こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。
第二次世界大戦争が1939年のドイツによるポーランド侵攻を発端として勃発しました。枢軸国(ドイツ/イタリア/日本)と連合国(イギリス/フランス/中国/ソビエト連邦/アメリカ)で分かれた世界規模の争いは舞台をヨーロッパに留めず、太平洋海域各地にまで広がり甚大な人的被害を生みました。
代々教師の家庭に生まれたウィリアム・ゴールディング(1911-1993)は、オックスフォード大学在籍中に叙情詩集を出版するなど、人文主義に傾倒した思想を膨らませていきました。先代の例に漏れず英語と哲学の教鞭をとることになります。その後1941年に、激しくなる戦争を憂いながら、海軍へ志願して戦地へ向かいます。
ドイツは戦力差を鑑みてイギリスと真っ向勝負を行うのではなく、海洋補給ラインを断つ奇襲作戦を実行して形勢を有利に運ぼうと試みます。鉄血宰相の名を冠した巨大戦艦ビスマルクが突き進みましたが、この作戦はイギリスに漏れており結果的に撃沈されます。この海洋戦にゴールディングは参戦していました。そこから約三年後、戦争末期に行われた海と空から砲火された決定的作戦「オーバーロード作戦」(ノルマンディー上陸戦)の連合国海軍としても従軍しました。壮絶な攻撃は一年ほど続き、両軍五十万人を超える死者を出しました。
第二次世界大戦争における人的死者は銃撃、砲撃だけではありませんでした。アドルフ・ヒトラーによってドイツ国団結のために行われたユダヤ人排斥の民族主義は、「水晶の夜」(クリスタル・ナハト)に始まり、戦時中のアウシュビッツ収容所に至るまで夥しいホロコーストの被害を生み出します。この戦争による被害総数は数千万人にものぼり、終局後も米ソ冷戦が燻りながら蟠りが残ることとなりました。
多くの実戦から多数の人間の死を見続けたゴールディングは、人文主義的思想から「普遍的な人間性の在り方」を突き詰めていきます。「なぜ人間が人間に向けて悪意を向けることができるのか」という視点からの追究は彼の著作に現れていきました。本作『蠅の王』(蝿の王)や、『後継者たち』はその考えの代表的な作品です。
先の見えない苦境のなかで理性と知恵を保ち続けるラルフとピギー、環境に侵され野蛮人へと変化していくジャックやロジャーが対比的に描かれています。ジャックは「豚を殺す」ことがきっかけとなり、彼の理性が徐々に削られていきます。初めての首を切る機会は焦燥と躊躇いで失敗に終わりました。この躊躇いは文明に生き、理性を保っていたからこそのものです。しかし自尊心を煽られ、使命感に駆られ、彼は豚の生命を奪うに至ります。一度外れた箍は自らの意思では元に戻せません。「生命を奪う側の恐怖」を失ったジャックの心は野生化し、冷静に物事を考える脳を無くします。生命を奪うことは〝理性を無くさなければ出来ないこと〟と言えます。
ジャックやロジャーが狩る「食糧としての豚」は何度もラルフとピギーの理知を奪おうとします。空腹と戦いながらも自分たちは文明人であるという誇りと、恵まれたそれぞれの理知を護り続けます。
ついに衝突する二つの派閥は絶望的な悲劇を次々に生み出します。歯止めの効かない野蛮人たちの部隊は人間の生命と豚の生命の判断さえつかなくなります。後先を考えない行動は、理知を保ち続けようと努力するラルフの心を圧倒し、精神的苦痛を繰り返し与えます。ラルフを支えるものは貫かれた意志のみでした。
「蠅の王」とは聖書における悪霊の頭「ベルゼブル」を指しています。作中では前述の四人以外の重要人物にサイモンという少年が登場します。心根優しく自己主張の苦手な人物です。彼は二つの派閥抗争を常に嘆き、和平の道は無いかと一人で黙々と考えます。一人で山へ向かったときに、誰もいないところで「蠅の王」の声を聞きます。そして悪霊が覆い続けた恐ろしい謎を解消しました。この発見こそ、和平の道に至る鍵となる情報であると心に留めて、皆に伝えようと山を駆け下ります。この行為は新約聖書ベルゼブル論争にある「悪霊が仲間同士で争うはずはない、わたしは聖霊によって悪霊を追い出している」と反論したキリストの言葉に通ずるものです。聖霊は愛によって人々を造り、そして幸せへと招いていく役割があるとされており、サイモンの行為は聖霊と重なっているように思えます。しかしこのサイモンの行為は二つの派閥を幸せには導きません。悪霊は、取り憑かれた人間から聖霊が振り払うことはできますが、悪霊と変わらぬ非人間になってしまった者へは何も伝えることはできないのでした。
『蠅の王』では、遺伝子の中に含まれる原始的悪意、もしくは人間が理知を得たときに生まれてしまった対極の悪意は、文明が作り上げた箍が外れてしまうと年齢に関わらず噴出してしまう恐怖を描いています。文明社会でどのように理性と知恵を授け、悪意を抑えるように教育するのか、という道徳性を人文主義的目線で問いかけているように感じられました。理性を失い悪意が噴出したものへは聖霊の声が届きません。それは「心」が無いから理知の声は聞こえないとも言えます。
物語自体は確かに寓意に満ちています。しかし非常に根源的で普遍的なゴールディングの訴えが込められています。人間の悪意とは、理知とは、文明とは、社会とは、改めて考え直させられる作品です。未読の方はぜひ読んでみてください。
では。
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