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『ジーキル博士とハイド氏』ロバート・L・スティーヴンソン 感想

こんにちは。 RIYOです。
今回はこちらの作品です。

医学、法学の博士号を持つ高潔な紳士ジーキルの家に、いつのころからかハイドと名乗る醜悪な容貌の小男が出入りするようになった。人間の心にひそむ善と悪の闘いを二人の人物に象徴させ、“二重人格”の代名詞として今なお名高い怪奇小説の傑作。
紹介文より

1760年代よりイギリスで続いていた産業革命は、1830年代に起こる鉄道交通革命により工場制機械工業へと移行し、国家へ大きな恵みを与えて資本主義拡大が加速します。哲学、歴史、科学、医学などの発展でイギリス全土の文化的中心地であったスコットランドのエジンバラは、人口を集め続けていましたが、工業地域としての規模は小さかったため、資本主義拡大に反比例する形で徐々に衰退を始めます。資本に恵まれた上流階級と貧困に苦しむスラム街の住人の二極化が進み、犯罪に溢れる都市へと変化していきました。

ロバート・ルイス・スティーヴンソン(1850-1894)は、長老派プロテスタントで建築技師である父と、牧師の娘である母の元に生まれます。生来病弱であり、快活な学生生活とは縁遠いものでした。若年より文学に浸り、自ら執筆することにも試みます。これは父にはあまり快いものではありませんでした。父の意向を汲み、灯台や港湾などの建築設計を継ぐためにエジンバラ大学へ土木工学を学びます。しかし、スティーヴンソンは空想家でロマンティストあるが故に再び文学にのめり込みます。

大学時代、エジンバラの街には二つの地域性が存在することに気付きます。中流階級であるスティーヴンソンたちが住まうニュータウン、そして貧困に苦しむスラム街です。プロテスタントの教育を強く受けていたスティーヴンソンには、スラム街における宗教的規範から遠く離れた社会性に衝撃を受けます。この並存する二つの都市に人間の二面性、或いは人間の二重性を感じ取ります。同じ人間という考えから「ひとりの人間に内在する二面性」に着目します。

本作に登場するジーキル博士にはモデルがいます。1770年ごろにエジンバラ市会議員であり名家具師であるウィリアム・ブロディです。抜きん出た家具製作の技術でギルドの組合長まで務める信望を集めていました。ですが、夜になると押し込み強盗になるという裏の顔がありました。彼の家具師としての解錠技術を発揮して悪業を重ねます。不正に積み重ねた財産は賭博や性欲に浪費され、尽きる間も無く次の犯罪に手を染めます。日中の市会議員としての信頼が本業の家具師を賑わせ、客足が止まりません。しかしついに彼の計画が見破られ、捕縛され、絞首刑にいたります。

スティーヴンソンは「ひとりの人間に内在する二面性」をブロディに見出し、善悪それぞれの別人格を持ちたいという欲望を抱いた人物を作り上げました。そして本作で「人間が普遍的に持っている二面性」を描きだしたのでした。

わたしが人間は完全かつ本源的に二重性格のものであることを悟ったのは、人間の道徳的の面から、とくにわたし個人についての経験を通じてであった。しかも自分が意識の領域において相争っている二つの性質のどちらかであると誤りなく言えるとしても、それはもともとわたしがその二つを兼ね備えているからにすぎないことをわたしは知った。

現代では解離性同一性障害を代名詞的に「ジキルとハイド」と表現する場面が散見されますが、ジーキル博士は二重人格ではありません。この誤解を解く最も良い方法は本作を読むことと言えます。

人間的で現実的な筆致で描かれる本作は他人事と言えないような不安を覚えさせられます。心の善悪に対する観念は、年齢や自身を取り巻く社会性でいくらでも変化します。善は善であろうとすることを強要します。しかしそれは心に負荷を与え、時には苦痛をも与えます。善で受けた負荷を吐き出すために悪が芽生え悪が広がることも大いに有り得ると考えさせられます。

本作ような文学を、アンプレザントネス(不愉快)を描く文学として訳者の田中西二郎さんはこのように語っています。

コモン・センスとか、ジェントルマンシップとかいう言葉の内容が、そこに根ざしている。だが、このように「愉しからざること」を締め出そうとする努力は、それを殺しきることはできない。むしろそれを内に耐えることによって、それは精神によっていっそうunpleasantになる。貧、老、病、死といえば受身であるが、それらはみな貪欲、虚栄、放埒、憎悪、嫉妬、その他、その他の人間の悪につながっている故にこそ、いっそう耐えがたいのである。
犯罪、醜聞、背徳行為等は各人の心のうちに抑圧されている悪心に鋭く反応し、そこに人間のまぬかれえぬ〝愉しからざる〟もろもろの深淵を人々にのぞかせる。恐ろしいが、同時にそれはコモン・センスに生きている普通人にとって、内心の膿を切開し、爛れを癒す快感でもある。

このアンプレザントネスは昨今のイギリス文学に不可欠な要素です。そして「不愉快を描く文学」を確立した作品こそ本作であり、昨今の英文学の礎として今なお影響を与え続けています。

未読の方は読了後に「ジキルとハイド」の言葉からは違った印象を得られるかもしれません。興味があればぜひ読んでみてください。
では。


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