『若草物語』ルイザ・メイ・オルコット 感想
こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
キリスト教プロテスタントにおいて、信者たちに最も読み継がれ、最も影響を与えてきた模範的信者が描かれている寓話『天路歴程』は、新大陸アメリカへと渡ったピューリタンたちによって新天地でも広められ、新たな社会でも強い影響を持っていました。ニューイングランドに移り住んだ貴族もまた、これを愛読し、家庭における思想の形成に役立てました。アメリカ独立戦争を経て、アメリカという国が成り立ち、広大な南部奴隷プランテーションによって利潤を得て発展していくなかでも、このようなピューリタニズムの教義は通底し、やがて奴隷問題へと発展していきます。
本作『若草物語』は、特に若者へ向けた道徳的教義を強く備えた作品として知られ、日本においては児童書やアニメーションなどで愛されています。子供の自己形成に求められる道徳観を説法ではなく物語を辿ることで身に付き、同時に家族の愛を育む重要性を理解することができるとされています。また、読む時期や心の状態によって、引き出す教義もそれぞれ異なり、幾つもの教えを読むごとに得られることができます。
しかしながら、本作の登場人物ジョー(ジョセフィン・マーチ)の頑なな態度、特に「当時の模範的幸福」を求める長女メグ(マグリット・マーチ)に対して反発的な感情を持ち続けるという点に違和感を感じます。少年のように振る舞い、腕白に活動することを好んでいたジョーが、物語のなかで得る多くの経験によって、確かに終盤には襟を正す淑女へと変化を遂げます。教義的に「模範的淑女」として従順になることが幸福に向かうと訴えているようですが、そのジョーの心情には晴れやかさがありません。「こうあらなければならない」ためにこうある、と言わんばかりの空気に満ちています。物語のなかで少年のように叫び、飛び跳ねる姿と明るい表情を見てきた読者は、淑女然としたジョーに引っかかりを覚えます。そこには作者ルイザ・メイ・オルコット(1832-1888)の真意が込められています。
父親のエイモス・メイ・オルコットは「生まれながらの賢者か聖人」と喩えられるほどに、美しく魅力に溢れた存在でした。多くの思想家や作家が集まるマサチューセッツ州のコンコードに暮らす彼は、「アメリカン・ルネサンス」の代表作家ナサニエル・ホーソーン、自然に魅了された作家ヘンリー・デイヴィッド・ソローなどと隣人となって、思想を暖めていきました。そしてその思想をエイモス・メイ・オルコットは、神学者エマヌエル・スウェーデンボルグの霊的神学に影響を受けたラルフ・ウォルド・エマーソンとともに「超絶主義」(超越主義)として世に打ち出し、活動を開始します。これは、人間が持つ主観的な欲望を排除し、人間の精神に内在する善を信じ、自然としての人間的幸福を目指すという思想で、この善と善が人々を支え合い、自ずと自然的幸福に辿り着くことができるというものでした。偽善とは無縁であり、人間同士が生きることに善行による必然をもって幸福を築くという理想的な考え方です。
この「アメリカン・ルネサンス」時代に生まれた運動は徹底されたもので、政治や社会を不要なものとして考え、奴隷制度に対しては完全に廃止を望む思想でした。そして上記の人々は掲げる思想を体現するため、理想的な共同体「フルーツランド」を作り上げます。各々で資産を出し合い、自らで土地を耕し、自らで作物を収穫し、家畜を否定して自ら動き、動物性食品を避け、飲料は水のみとし、冷たい水で入浴し、人工照明に頼らずに太陽の光のみで暮らす、という超絶主義のユートピアを完成させました。
また、超絶主義者の彼は奴隷解放運動にも積極的に働き、率先して活動しました。当時は、アメリカ南部奴隷プランテーションに束縛された黒人奴隷たちを、北部やカナダもしくは諸地域へと逃亡させるというネットワークが存在していました。これを「地下鉄道」と呼びますが、拠点となる場所を「駅」と呼び、逃亡に同行する協力者を「運転士」、逃亡者を「乗客」とそれぞれ呼んでいました。そしてエイモス・メイ・オルコットは「駅長」として、自宅を宿として提供し、衣食住の面倒を見て逃亡の手助けを行っていました。
オルコット一家はこのような同志家族とともに暮らしていましたが、残念ながら理想と実践は異なり、自給自足は困難かつ、奴隷解放運動の経費が重なり、結果的にはわずか7ヶ月でフルーツランドは破綻してしまいました。この挫折はエイモス・メイ・オルコットに、莫大な借金と強烈な神経衰弱を与えました。生活に困窮した一家は妻アッバ(オルコットの母)を筆頭に娘たちもそれぞれが苦労をもって働き、日々の生活を凌ぎました。この苦難のなか、ルイザ・メイ・オルコットは、愛する母や姉妹を自分が経済的に支えなければならないと確信します。
イギリスでの産業革命を受けて資産を蓄えた中産階級が台頭した十九世紀のアメリカでは、家父長制が強く発達していました。男性は職業を手にして外へ、女性は結婚して家庭に入るという、性別による理想像が形成されます。男性が社交や事業で富を築き、女性は富を持つ男性に嫁ぐという「模範的幸福」が明確化された時期でした。ルイザは父親と親しく、家庭内で多くの教育を受けました。また、偉大な隣人からも特異な教育を施されました。エマーソンが持つ多くの蔵書から数多の文学作品を吸収し、ソローからは自然の魅力を散策によって学びました。そして父親からは、当然の如くに超絶主義を説かれます。ルイザ自身は非常に現実主義的な思考であったため、全ての説教を鵜呑みにすることはありませんでしたが、人間としての自立と個人の尊重には大きく賛同しました。これらの根底意識と家族を守りたいという本能的な意思とが交わり、当時では困難とされた「女性作家」を目指して、ルイザは家計を一挙に担おうと決意しました。
その頃、南部プランテーションでの奴隷制度廃止の動きが激しくなり、1861年にアメリカ南北戦争が勃発します。奴隷制度廃止を訴える北部と、プランテーションによって利潤を生み出している南部との衝突によるものでしたが、ルイザは「志願兵として従軍したい」という意志を持っていました。当時では女性は入隊できなかったため、非常に辛い思いを抱きましたが、妥協的に北軍の従軍看護師として戦争に参加しました。不衛生で劣悪な環境下にありながらも苦しむ負傷兵たちを救うべく奮闘したルイザは、その看病だけでなく、患者を楽しませるために朗読や演劇などを行い、献身的に自らの役割以上の活躍を見せました。しかし、彼女自身が腸チフスに罹患したことで従軍を終えることになり、コンコードへと帰っていきます。この六週間の経験を、ルイザは一冊の自伝的なフィクション作品『病院のスケッチ』として出版すると、世間から瞬く間に良い反響を受けて、作家として初めての成功を収めました。
これを契機として、ルイザは本格的に作家として家計を支えていく決意を改めて、より一層に「職業として」執筆を進めていきます。そこで、執筆報酬が高く儲けられていた「児童文学」の作品に取り組もうとしますが、なかなか肌に合わないようでうまく書くことができず断念しました。その頃、父親が超絶主義の哲学書を出版しようとしていましたが、思想の問題でなかなか出版に至りませんでした。ルイザの友人でもある編集者トーマス・ナイルズは、ルイザが「少女の物語を書いてくれるなら」という条件を父親に提示すると、ルイザは今一度という思いで執筆を再び試みました。そして書き上げた作品が『若草物語』です。ナイルズもルイザも完成原稿に満足を得ませんでしたが、近親者の幼い少女たちに試し読みをしてもらうと大きな驚きと感動の感想が返ってきました。そして出版に至り、現代にまで及ぶ名作となりました。
本作では「家庭と職業に絡み合う愛情」という主題が含められています。四人のマーチ姉妹、メグ、ジョー、ベス、エミイのそれぞれが個人の意思を持って、悩み、葛藤し、行動します。家父長制の家庭でありながら、父親である家長の居ない環境は、実に特異な状況と言えます。そして、だからこそ「模範的幸福」に縛られず、自己の意識を尊重し、自由に夢や望みを思い描くジョーが存在できています。模範的淑女を目指すメグ、音楽に夢と愛を込める病弱なベス、天真爛漫で自尊心の高い画家を目指す末っ子のエミイ、それぞれも家長の導きという柵を受けずに伸び伸びと活動しているように描かれています。しかし、それは家父長制を否定しているわけではなく、姉妹全てが家庭を愛し、自分に何ができるか、そして求められているか、ということに問題意識を持って過ごしているからであると言えます。社交の場や、芸術の道が開かれている若い少女たちには、家庭という「絶対的な拠点」が存在しています。この拠点を出るということは、社会の風潮で言えば「嫁ぐ」という選択肢しか見えず、芸術を職業として見ることは「可能性が存在しているのみ」で、実体的には実現不可能なように感じさせられます。そのようななかでありながら、ジョーは作家として生計を立てて行こうとする夢を抱き、そして行動まで起こして実際に成し得ています。この場面のジョーは非常に活き活きと描写され、掲載された誌面が舞うほどに家庭でも喜ばれていました。ここに、冒頭の違和感を照らし合わせると、淑女然として父親を迎えたジョーに「真の幸福」が見えたかと言われれば疑問が残ります。家父長制によって定められた性別ごとの役割を受け入れることは「真の幸福」であるのか、という著者ルイザからの問い掛けが含まれているように感じられます。
本作『若草物語』も、ルイザの自伝的な要素が強く含まれています。そして、ジョーの性格や行動は特にその反映を受け、ルイザ自身の経験した感情が色濃く現れています。作中でジョーが抱いたと考えられる「家庭と職業」の葛藤は、そのまま著者のものとして受け取ることができます。言い換えるならば、「女性が家庭を優先して職業を諦めること」または「女性が職業を優先して家庭に入らないこと」という相反する選択肢はいずれも個人の損失であると考え、それを避けるべく双方を満たそうと奮闘するジョーの姿が映し出されています。本作、そして続編『良き妻たち』では各少女の未来が結果として描写されていますが、その良し悪しをルイザは提示せず、読者に判断を委ねるように問題提起しています。
ルイザは生涯を通して結婚せず、執筆に熱量を存分に注ぎました。両親と姉妹をその筆で守り、愛する家族を支えて生き抜きました。家族を守らなければならないと確信してから、実際に作家として大成し、女性として「家庭と職業」を愛を持って貫きました。その人生における努力と葛藤と願望が、本作には「決意」として現れているように感じます。
現代に至るまで、本作は最もアメリカ女性に愛されている作品として知られています。自立を望む女性に強い勇気と希望を与えてくれ、前を向いて進んでいこうと決意をさせてくれる熱量を含んでいます。本作『若草物語』を未読の方はぜひ、教示的な面だけではなくルイザが抱えた思いを汲み取りながら読んでみてください。
では。