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『尺には尺を』ウィリアム・シェイクスピア 感想

こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

公爵の代理に任命された貴族アンジェロは、世の風紀を正すべく法を厳格に適用し、結婚前に恋人を妊娠させた若者に淫行の罪で死刑を宣告する。しかし兄の助命嘆願に修道院から駆けつけた貞淑なイザベラに心奪われると……。性、倫理、欲望、信仰、偽善。矛盾だらけの脆い人間たちを描き、さまざまな解釈を生んできた、シェイクスピア異色のシリアス・コメディ。


本作『尺には尺を』は一般的に「喜劇」として扱われています。結末を婚姻の成就で締めくくり、道化的なやり取りを据えていることからも、「シェイクスピア喜劇」の枠内に収められる要素は多くあります。しかしながら本作は、作中を通底する「死と欲」が空気を満たして作品全体を陰鬱さで覆っています。この絶頂期に生み出された『尺には尺を』は、『トロイラスとクレシダ』と『終わりよければすべてよし』と共に合わせて、「問題劇」として認識されています。どれも晴々しい結末を迎えるわけではなく、提示された問題を幸福で解決するというものでもなく、劇中で解決せずに劇場を出た観客が提起された問題を考えさせられるといった性質を持っています。シェイクスピアが成長時代に見せた「寓話的幸福な物語」から一線を越え、四大悲劇と同時期に描いた喜劇らしく、現実に直面するであろう倫理的苦悶を、作中に悩ましく組み込んで作られています。その問題劇のなかでも『尺には尺を』は提示する問題が生々しく明確であることから、より一層に舞台を陰鬱な空気が支配して進められていきます。


ウィーンを統べる公爵ヴィンセンショーは不在中、自身の権限を臨時的に冷静で決断力のある貴族アンジェロ卿へ譲渡し、他国との交渉のために出国します。アンジェロは公爵代理としてウィーンでの全権を委ねられ、自身の道徳に従って思うように統治することを任せられました。しかし実際には、公爵はウィーンを出ずに変装して「ロドウィク神父」として修道院へと身を隠します。目的は二つあり、一つは道徳的で忠誠深いアンジェロがどのような統治を行うのかを見るため、そしてもう一つは、散々に風紀が乱れてしまったウィーンの街を浄化させるためでした。アンジェロが真っ先に取り掛かったのは「性の乱れ」を正すことでした。ウィーンには中心部から郊外まで売春宿が溢れかえり、法に反した性行為(姦淫)が自由に行われていました。アンジェロは、キリスト教に則った過去に作られて実質的に眠っていた「姦淫を処断する法」を利用し、未婚の状態で相手を孕ませたクローディオという男を逮捕して処刑しようと試みます。これは見せしめとしての狙いが強く、特別に世間では珍しい違法行為ではありませんでした。その孕んだ相手は、婚姻を約束して持参金の用意ができ次第に結婚する予定であったジュリエットという女性で、当然ながら合意の上での性行為でした。しかしアンジェロは、聖書に記されているように「婚姻外の性行為は全て姦淫(違法な性行為)である」ため、この点を厳格に執行しようとします。

クローディオの妹イザベラは美しく清廉潔白で、見習いとして修道院へ入るところでした。そこに兄の逮捕と処刑の報せが届き、アンジェロのもとへ慈悲を乞いに向かいます。対面した際、断固として処断の意向を曲げる気がなかったアンジェロは、イザベラの持つ内面的な清廉潔白で強い意志と、外面的な容姿と肉体の美しさに惚れ込んでしまいます。そして彼は、権力を盾に「身体を委ねれば兄を救おう」という非道な提案をイザベラに向けました。貞潔なイザベラはこれに憤慨し、提案に対して断固拒否の意向を示して、兄に命を投げ出してもらうために事情を伝えに行きます。ところがクローディオは、彼女に身体を投げ出して自分の命を救ってくれと嘆願し、兄にも失望させられました。このイザベラとクローディオの会話を影から眺めていた公爵ヴィンセンショーは、一つの提案を示します。

ヴィンセンショーはアンジェロが以前、婚約していた女性に対して持参金が用意できないという理由で突き放し、その女性を不幸の底へ陥れたという事実を持ち出します。このマリアナという女性は今もなおアンジェロを想い慕っており、婚姻を変わらず望んでいるのだといいます。ここでアンジェロが示した非道な提案を逆手に取って「寝台でのすり替え」を図り、イザベラの身体を救い、マリアナの想いを遂げさせようと画策します。これに合意したイザベラは、アンジェロへ観念したように見せかけて身体を投げ出す約束を取り付けてマリアナと入れ替わり、マリアナはアンジェロと真っ暗闇での性行為を成し遂げました。

ヴィンセンショーの計画は見事に成功しましたが、アンジェロはイザベラとの約束を反故にして、即座にクローディオの首を落とせと監獄長に命令を通知します。イザベラとの性行為が成ったと思い込んでいるアンジェロは、それを知ったクローディオからの復讐を恐れるあまり、即座に処断しようと考えたのでした。ここでも偶然に助けられながらヴィンセンショーの知恵が回り、別の病死した者の首をすり替えてアンジェロへ信じ込ませることに成功します。一方で、ヴィンセンショーはイザベラに対して首のすり替えを伝えずに、クローディオは処断されたという偽りを伝え、まもなくウィーンに帰還する公爵に被った不幸を打ち明けよと指示します。公然の場で、公爵に対して「アンジェロの不道徳」を訴えよというものでした。

ヴィンセンショーが変装を解いてウィーンに帰還すると、指示通りにイザベラは嘆願しますが、彼は話を信じずにアンジェロの肩を持ちます。そしてマリアナの嘆願にはアンジェロを差し出して、ヴィンセンショーは席を外します。そこに再度変装を施したヴィンセンショーが戻り、ロドウィク神父として二人の女性を援助し、さらに自身がヴィンセンショーであると正体を明かします。これにより登場人物の全員が言い逃れできなくなり、アンジェロはイザベラに対する悪行を認めてマリアナと婚姻を約束し、クローディオは放免されてジュリエットと結ばれ、そしてヴィンセンショーがイザベラへ求婚して物語の幕となります。


公爵代理という権利と誘発された欲望によって本性を表したアンジェロは、厳粛な性質の仮面を剥がした偽善者としての存在へ堕落します。それに対して、ヴィンセンショーは自身の道徳観を曲げることなく、舞台全体を支配して善き者を救う存在として神の如くに立ち回ります。しかしその救済は直接的に行われず、各登場人物の持つ徳によって左右され、真実の心をヴィンセンショーが見極めるように暴き出し、成るべき勧善懲悪の形へと導きます。

「正義はどこにあるのか」という問いは、本作においては「法と罪」によっても問題提起されています。アンジェロが「十九年ものあいだ手も触れずに放っておいた」法を持ち出したことに対して、クローディオは不満を抱き、すぐさま何故だと問い掛けます。この不満は、長い間ヴィンセンショーが執行していなかったことからも、法と罪に見られる道徳観の不一致が世間に認められ、誰もがそれを遵守していなかったことを裏付けています。「姦淫」とは婚外性行為を指しますが、宗教的なパラダイムから見ると、確かに悪行であると言えます。しかし、これを国法に採用して執行するという行いは、国家統治の側面から見て直接的な影響ではなく、キリスト教のための国法という意味合いを強める行為であり、実態的に倫理を超えた強制であるとも考えられます。1604年に英国では「教会法改正」が行われましたが、その先駆けとして1602年の売春宿撤廃の布告を皮切りに、男女の「婚姻」に関する取り決めを厳しくしていきました。婚姻様式の統一を目指した一連の取り締まりは、国民に対して強く締め付ける一方、教会側がその法に対する態度を一貫しなかったことで、国民はより一層に不満を募らせました。このような事実を背景としていることから、読者(観客)にはアンジェロの行動は見せしめとしての意図が見え、ヴィンセンショーが長い間この法を執行しなかったのであるということが理解できます。恐らく、教会側の意図を国法は汲まざるを得ず、しかしヴィンセンショーの道徳観から婚前の性交渉は、悪とは見做さなかったのだと考えられます。


また本作をより複雑に展開させているのがイザベラの存在です。彼女は「修道女見習い」のため、厳格な規則や制限はまだ与えられていません。そのことにより、自分の考えを尊重して自由に発言を繰り返しています。修道女は口数が少ないことを美徳としているにも関わらず、イザベラは誰に対しても饒舌に自分の思いを語り続けます。さらに、姦淫を悪として認識していながらマリアナとの「寝台のすり替え」を躊躇なく承諾して行動します。そして自分を縛る「制限」に対する異常なほどの欲求を見せ、自分をより「清廉潔白な存在」へとなるように望みます。これは自己欲求の明確な表れであり、アンジェロの「謹厳実直な存在」でありたいとする欲求に呼応します。双方ともに自己欲求を満たすため、自身の立場を存分に発揮して主張したことによって衝突し、事態を複雑にさせています。このことから登場人物による自己認識の欠如が見せる愚かしさが、本作で主張するひとつの問題提起であると言えます。


当時の実社会で家の存続と子孫繁栄以外に結婚に男女のパートナーシップを求め、セクシュアリティを肯定する風潮が強まってはいたものの、なお女性のセクシュアリティはアンビヴァレントなものとして危険視された。
身代わりの女性は愛する男性に不当に裏切られ、屈辱を味わうことを知りながらこの道を選ぶ。しかもトリックの発覚後、女性は許婚者を許し、結婚を現実的に見据えてなお男性に従順な姿勢を示さねばならない。

河合祥一郎「結婚」『シェイクスピアハンドブック』


終幕でマリアナがアンジェロを救うために、イザベラへ共に嘆願してくれと願う際、イザベラは初めて清廉潔白な修道女らしい態度を取ります。この場面でようやく、劇中を覆い続けた陰鬱な空気が晴れて喜劇性が見えてきます。しかし、この場面での婚姻は「罰」としての性質が強く表れ、手放しで喜ぶ他のシェイクスピア喜劇とは違った雰囲気で結ばれます。婚外の性行為を、ヴィンセンショーは法的な処断ではなく、「婚姻という罪」を着せることで償わせました。これを鑑みると、最後にヴィンセンショーが唐突にイザベラへ求婚した際、彼女が沈黙という形で拒否を見せたことは理解しやすくなります。


人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。

『新約聖書』「マタイによる福音書第七章」


自身の行いは自身に返ってくるという教えは、自己認識を怠らず、行動原理そのものを正さなければならないという意味が込められています。現状の置かれた立場や権力を用いる行動ではなく、自身の道徳観に則った清廉潔白と謹厳実直を目指すことが、結果的に自身の幸福へと繋がるのだと思います。本作『尺には尺を』、未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。


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