『ピーター・パン』ジェームズ・バリー 感想
こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
ジェームズ・バリー(1860-1937)はスコットランド北東部キリミュアで保守的なカルヴァン派の家庭の元に生まれました。父は織工で成功した中産階級で、彼は十人兄弟の九番目の子供でした。「3つのR」(読み、書き、算術)の教育を幼い頃から受けていた彼は、小説家になることを漠然と思い描いていました。六歳の時に一つ上の兄が事故で亡くなると、彼の心に大きな衝撃を残す出来事が起こります。母は亡くなった息子を溺愛していたことから悲嘆に暮れ、生活も覚束なくなります。なんとか自分の方へ向いてもらおうと、バリーは兄の好きな服装や仕草を真似て過ごします。すると母が夢現の或るとき「あなた(兄)なの?」とバリーに声を掛けました。「彼じゃない、僕だよ。」そう答えた彼は、母が向ける母性は自分だけにではないという失望を体感します。
いつまでも心が晴れないまま成長すると、現実以上に物語の世界に心を躍らせることが多く、学生時代には演劇台本を執筆して公演まで行いました。そして、いよいよ劇作家を目指そうと決意します。しかし、牧師になることを望む両親の強い反対に合い、妥協案としてエジンバラ大学へ進学すると文学を専攻しました。卒業すると姉妹が見つけた求人に流されるように応募して採用され、ジャーナリストとして一年半を過ごしますが、やはり肌に合わずキリミュアへと戻ってきてしまいます。そこで始めた執筆は快調で、ロンドンの新聞『セント・ジェームズ・ガゼット』紙へ寄稿すると編集者の気に入り、一連の物語を書くことが叶いました。
作家として歩み始めた彼は、やはり劇作家への道を進み始めます。なかなか日の目を見ることができませんでしたが、ヘンリック・イプセンの作品をパロディ化した『イプセンの幽霊』を公演すると忽ち観衆の支持を受けて、あっという間に人気作家の仲間入りを果たします。また、同郷のイギリス劇評家ウィリアム・アーチャーが強く支持したことも一つの成功要因でした。その成果も手伝って、当時の若手女優と出会い、結婚しました。その後の作品も高評価を受け続けるなか、彼は小説『小さな白い鳥』を書き上げ、「ピーター・パン」を生み出します。これを単独の作品として作り直したものが本作『ピーター・パン』(原題:Peter Pan in Kensington Gardens)です。
本作を発表する数年前、住まいの近所であったロンドンのケンジントン・ガーデンズ(王族記念碑などがある広大な王立公園)へ飼い犬の散歩へ屢々出向いていました。そこで毎日のように顔を合わせる三人の少年と交流を始めます。ジョージ、ジャック、ピーターを楽しませようと空想の物語を語って聞かせました。そのなかにピーターが空を飛ぶことができるという内容があり、これが一つの要素となって少年ピーター・パンが生まれます。親しくなるに連れその両親とも関わるようになり、非常に懇意にしていました。
ケンジントン・ガーデンズでの散歩は彼の本来抱いていた空想力を増長させました。総面積111ヘクタールという広大さと、多種多様な樹々、花々、噴水、橋、記念碑は、彼に多色的な刺激を与えます。奥の奥には何があってもおかしくない、そして何が居てもおかしくない、そんな思いと空を飛ぶ少年ピーター・パンが融合して本作は生まれました。
本作は、世に広く知られている「ピーター・パン」の原型的な作品であり、ウェンディ、ティンカー・ベル、フック船長といった大変に有名な登場人物たちが織りなす物語のプレリュード(前奏曲)のような作品です。人間はもともと鳥であり、死ぬとツバメとなって島へ帰ってくる、赤ん坊の笑顔が溢れて生まれた妖精たち、樹木が意思を持って会話をする、そんな世界は現実と明確な境界が無いまま存在しています。半分人間、半分妖精の「半端者」として生まれたピーター・パン、彼は離れてしまった母親を思い、妖精との関わりを持っていきます。ネバーランドのような現実との境目があるわけではなく、現実に幻想が存在し、夜になると存在が濃くなるような存在の世界です。この存在や境界が曖昧な世界の象徴的な人物がどの族にも属さない半端者ピーター・パンです。彼は少年のまま心身ともに成長せず、子供のままの心を持ち、妖精に与えられた力で空を飛び回ります。そして念願の母親との再会は悲愴を帯びた儚く苦い結末を迎えます。その後に出会うメイミーと子供の心として好きになり、子供のままで婚姻の契りを結びたいと願います。しかし彼女は母親と離れることを拒み、互いに思い合う心は離れていくことになります。
冒険活劇とは縁遠い、暗く異質な物語には終始「悲愴」の空気が漂います。そして、その起因となる要素が「母性愛」です。鉄格子に阻まれる母性愛との隔絶、母性愛によって引き裂かれる想い人との乖離、これらを繋ぐ空想(幻想)は、半端な境界で隔てられた世界の曖昧という感情で、悲愴感をより濃いものとしていきます。しかし、僅かの希望が見出されます。それは近い未来であり、遠い未来です。仲違いをした子供同士が数分後には笑い合っている、そのような無垢と無邪気で作られた心を持ったピーター・パンは、未来へと飛んでいきます。
バリーは子供の心が持つ「楽しむ精神」を持って、子供特有の魔法さえも信じる目線を持って描いています。目に見えないものを信じる、もっと言えば目に見えないものを信じる力は大人になるにつれて衰えていきます。大人になり社会に出ると、職場と家との往復に慌ただしくして、空想に耽る間もなく次の日がやってきます。努力と責任は心を砂漠のように枯らし、義務に溢れて喜びに飢えた世界へ身を投じることになります。喜びを枯らさぬように必要なことは何か、その答えをバリーは「子供の心を信じ続けること」であると訴えています。舞台劇「ピーター・パン」の名場面の一つに、ティンカー・ベルが毒薬で瀕死に陥るところがあります。そこでピーター・パンは観客へ向かって「子供の心で妖精を信じることができれば救われる」と観客に向かい、拍手で表現するように求めます。この奇跡の表現は彼の思想の訴えであると言え、「子供の心が奇跡を起こす」言い換えるならば「喜びは子供の心を信じる力にある」と描写しています。
バリーが強く欲するものは「幸福を感じる時間」であると受け取ることができます。彼にとってそれが最も強く感じられたものが幼少期の体験から導かれる「母性愛」を受ける時間でした。それが独占的なものではないと知った失望から永遠に逃れられず、どのように再び感じられるのかを模索した結果、「永遠の少年性」が浮かび上がります。心のなかで強く信じ、子供の心を維持することで空想力を逞しくし、幸せを感じる時間を得ることができたのだと思います。
ピーター・パンという人物に先入観を持って臨むと、時折驚かされる意外性が多く含まれている本作『ピーター・パン』。未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。