『アメリカの鱒釣り』リチャード・ブローティガン 感想
こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
ビート・ジェネレーションの代表的な作家として本国でもヒッピーたちに祭り上げられたリチャード・ブローティガン。彼が世に放った話題作、それを革命的な翻訳で原文以上の魅力を日本に伝えたとされる藤本和子訳『アメリカの鱒釣り』です。
1960年代後半のアメリカ。西欧文化の伝統として受け継がれてきた厳格な性の在り方に反発し、自由恋愛や同性愛などを主張する「性の解放」や、第二次世界大戦争を経た事による「反暴力」、新たな精神状態の開拓や創造性構築を目的とした「ドラッグの合法化」などを思想として掲げるビート・カルチャーが巻き起こります。
文学においても同様に「政治的主張」「ロマン主義」「個人主義」などを軸に表現し、ビート・カルチャーと並走するような主張の作家が生まれます。このような文学活動をビート・ジェネレーションと呼び、ブローティガンも代表的な作家として含まれます。
このムーヴメントを担う若者たちをヒッピーと呼び、その溢れるエネルギーでカウンター・カルチャーの文化的影響力さえも強めてしまうこととなります。文学をはじめ、演劇、美術、音楽など、メイン・カルチャーにさえビート・カルチャーの要素が強まり、時代の波そのものをヒッピーが揺れ動かしているかのようでした。特に「音楽」はサイケデリック・ロックというジャンルを明確に確立し、Grateful Deadなど、現在でも文化に影響を与え続けるグループを生み出し、野外フェスなどを根付かせました。またヒッピーたちはコミューンという集団を形成し、活動を活性化させるだけでなく、ドラッグの流通を円滑にし、同志を次々と吸収して実社会における「ユートピア」を目指すこととなります。
そんな中、1967年のマスメディアによる「ヒッピー特集」により、活性地区であったサンフランシスコ「ヘイト・アシュベリー」に膨大な人々が詰め寄せ、パニックとなってしまいました。そこに集まった人々は、各個人が描く「ユートピア」を求めました。「ラブ・アンド・ピース」こそ世に認められましたが、ドラッグの乱用や道徳を欠いた性は受け入れられず、その場での活動は終息していきました。
しかしながら、「性の解放」「ドラッグの自由」「個人主義」を求め、アシュベリー地区から溢れた若者は、ホームレスやドラッグの売人となり鬱屈したエネルギーが溢れはじめます。それに伴い、性犯罪、暴力事件、強盗などが横行して「ヒッピー」が掲げた思想の真逆の行動を取る事になりました。
その結果、ボヘミアニズムの本来的な「個人の意思を尊重し、平和哲学を生活の主体とし、自由奔放である」という意味は薄まり、「定職が無く、性に杜撰なアルコールやドラッグの中毒者」という意味で広まることとなります。
本作『アメリカの鱒釣り』がヒッピーたちに支持された点は、「作風の自由さ」と「個人主義」にあると言えます。自由な創造性が生み出す飛躍しすぎた比喩や、定着性の無い物語は読者をサイケデリックな世界へと導きます。そして自由に綴られる文章は読解を主とするものではなく、芸術性を重視したものであり、また軽やかな速度で読むことができます。細かな断章で構成された本作は、自伝的要素を感じさせながらも比喩が突出され、描かれる世界を掴みきれません。また、夢を描くヒッピーのような社会的弱者が描かれて切なさを感じさせるかと思うと、シニックな笑いで締め括ったりと、変幻自在に読み手の感情を振り回します。
翻訳した藤本和子さんは、この作品に限らず日本にブローティガン文学を浸透させた功労者です。学生時代は演劇の看板女優で、津野海太郎さんと共に六月劇場の前身である独立劇場を立ち上げます。そして劇団黒テントの前身である演劇センター68の創設に携わったデイヴィッド・グッドマン氏と結婚します。このように公私共にアングラ演劇に身を置いた彼女は、晶文社に勤めていた津野さんにビート・ジェネレーションの翻訳を依頼されます。日本でもアングラ演劇を筆頭にカウンター・カルチャーが隆盛していた時期で、世間へインパクトを与える「斬新な翻訳」を狙い、翻訳者として素人同然の藤本さんへ依頼されたのでした。
彼女は翻訳業こそ素人でしたが、エクソフォニー(母語から抜け出した状態)な生活環境にあった為、何度も作家であるブローティガン本人と会話をし、作品を理解していきます。これは、当時の日本における翻訳作業では珍しいことで、生の声を聞きながら作り上げていくことで、原文の持つ文体や含みなどを、リズムやニュアンスをそのままに日本の読者へ伝えることができました。また、翻訳においてもう一つ革新的な事は「口語訳」というものを構築し、元々含まれていた軽妙さを崩すことなく読み進むことができる翻訳の手法を編み出しました。
この「アングラ演劇」「エクソフォニー」という特質がバックグラウンドとなり、アメリカで生まれたビート・ジェネレーション文学が日本でも根付き、本国以上に読まれ続け、後世の作家にまで影響を与えることとなりました。しかし、本国アメリカでは一時のブームを巻き起こした作家という印象を持たれています。
フランスの構造主義の評論家マルク・シェヌティエの評論に感激したブローティガンの様子を含め、藤本さんはあとがきでこのように書いています。
また柴田元幸さんが解説で次のように述べています。
自身がビート・ジェネレーションと呼ばれることを好んでいなかったブローティガン。しかしながら、霧散してしまった「ユートピア」の幻と共に落伍してしまったヒッピーたちへの賛歌として、1967年10月にこの作品を世に出したのではないかと、そう思います。
読解は困難ですが、軽妙な文体は読み進みやすく、当時のカウンター・カルチャー色を感じ取ることができる作品です。未読の方は、ぜひ読んでみてください。
では。