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『檸檬』梶井基次郎 感想

こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

31歳という若さで夭折した著者の残した作品は、昭和文学史上の奇蹟として、声価いよいよ高い。その異常な美しさに魅惑され、買い求めた一顆のレモンを洋書店の書棚に残して立ち去る『檸檬』、人間の苦悩を見つめて凄絶な『冬の日』、生きものの不思議を象徴化する『愛撫』ほか『城のある町にて』『闇の絵巻』など、特異な感覚と内面凝視で青春の不安、焦燥を浄化する作品20編を収録。


明治、大正、昭和を跨ぐ文学界の活動は、数多の思潮が溢れた激しい時代でした。昭和初期に差し掛かると、正宗白鳥や徳田秋声らが勢いを保っていた自然主義は私小説へと移行し、やがて緩やかな流れへと変化していきました。対する反自然主義は夏目漱石らの「余裕派」、森鴎外らの「高踏派」、永井荷風や谷崎潤一郎らの「耽美派」、志賀直哉や武者小路実篤らの「白樺派」などが隆盛し、多彩な視点を持った文学作品が生み出されていきました。また同時期に、小林多喜二や葉山嘉樹らによって社会を訴える強靭な意志を持ったプロレタリア文学が台頭し、マルクス主義を源流とした格差階級に対する訴えを文芸にて行います。これを否定的に捉えて対抗せんとする思潮として、中村武羅夫の『誰だ?花園を荒らすもののは!』をはじめとする、文学の芸術性を主張する芸術派が生まれます。技術の躍進によって様変わりした社会を新しい表現技術で描こうとした川端康成や横光利一らによる「新感覚派」、プロレタリア文学に真っ向から対峙して芸術の自立を追求した井伏鱒二や梶井基次郎らの「新興芸術派」、西欧作品に影響された人間の内面を現実に昇華させた堀辰雄や伊藤整らの「新心理主義」などが生まれました。


梶井基次郎(1901-1932)は当初、理系を志していましたが、絵画や音楽への関心が非常に強かったことで、やがて文士へと転向していきます。このような背景からも、のちに彼が「新興芸術派」の運動へ傾倒していったことは実に自然であると言えます。幾つかの作中で絵画や音楽の描写が頻出していることからも、その点は窺い知ることができます。日露戦争の軍需に肖った父親は、酒癖が悪く、放蕩の限りを尽くしました。重ねて一家の多くは病苦に悩まされ、手術や入退院を繰り返します。基次郎も例に漏れず、十九歳で肋膜炎の診断を受け、その後に肺尖カタルの診断を受けます。この肺から齎される病に、基次郎は生涯悩まされます。彼の作品には名前こそ変わりますが、彼の体験を元にした描写が多く、病に苦しみ、心は荒み、破壊願望さえ感じられる退廃性が表現されています。しかし、端的な退廃ではなく、その背後には力強い清純な活力が潜んでおり、読者へ向かって突きつける生の憧れを感じさせます。


基次郎は景色を吸引するような観察眼を持ち、得た景色を脳内の芸術性で独自の理解を重ね、彼の筆によって全く別の印象を齎す世界を描き出します。この一個の意識が極度に洗練され、選んだ言葉を通して読者の脳内にまで与える印象は、現実を基次郎の芸術性が解釈した「亜現実」となって浮き上がってきます。こういった芸術性が主導となって生み出す創造的な印象は、意識の表層として見出すことができますが、彼の描く表層には退廃が溢れています。病苦だけでなく、自身のありたい理想とする姿から掛け離れた現実の姿に、苛立ち、悩み、投げ出したくなる感情が常に心に滞在していながら、優れた芸術性をもって、楽観し、憧れ、手にしたいと焦がれる逆さまの感情が同居しています。作品において、彼の意識の向かう先は死であるように描かれますが、これは病苦などにより与えられた疲労、倦怠、絶望といった精神の色調であり、根源にある意志は基次郎自身の持つ「生命への価値観」が及ぼす純粋で力強い生命力が奥底に描かれています。


初期の作品である短篇『檸檬』では、基次郎の「生命への価値観」が凝縮されて描かれています。彼の言葉にもある「偉くありたい」という気持ちから生まれる憧れや、虚栄心が満たされぬ自身の境遇、成るべき立派な文士像と自身との乖離、病苦により苛まれる生の美、これらによって及ぼされる蟠りの感情、不快な憂鬱を、ひとつの心に抱き続けていました。社会を眺めて吸引し、芸術性を帯びた空想、想像によって亜現実が構築されます。手にしたカリフォルニア産のレモンは鮮やかな色彩と冷ややかな感触によって、彼の抱える鬱屈した重い心を一瞬にして溶かします。芸術として大成せねばならないという、自身が課した、自身を脅かす、自身の重荷をより助長させる丸善へと向かう気になるほど、レモンは気持ちを軽くさせました。彼が抱えていた重い鬱屈と、手にした小さなレモンは同じ重さがあったことを理解します。彼は芸術書の売り場へ向かい、手にしては積み重ねた画集の山の頂点に重く軽いレモンを乗せました。この快い鮮烈さの塊とも言えるレモンで、彼は亜現実において鬱屈に復讐を試みます。常時悩まされる芸術で作ったこの山を、鮮烈な檸檬が爆発して吹き飛ばすという亜現実を思い描きます。


この作品では、亜現実における梶井の資質の具現化と、その直截的な感情表現が見られます。基次郎は真の文士であろうとする精神を守るため、虚栄心を高めて「こんな筈ではない」「自分は成るべき人間だ」という気を張っていました。意識の表層はこのように出来上がり、退廃的な人物像を亜現実に映し出しますが、その人物像は基次郎以外の何者でもなく、成し得なければならないという抑圧だけが取り残されていきます。それを救うカリフォルニア産のレモンは、激しい鮮烈さを持って抑圧と同等の解放感を与え、くたびれた感情に活気を呼び起こしました。この時に、レモンの持つ熱量を持って抑圧源(芸術)を吹き飛ばしたいという逆襲欲は、亜現実だけでなく、基次郎自身も抱いていた欲望でもあります。亜現実と現実の両方で膨れ上がった逆襲欲は、執筆という作品世界で見事に発散されました。こうまでして発散させようとする抑圧された鬱屈は、彼自身が虚栄で纒う精神の惨めさと、病苦により思い通りにならない生活の苦しさが「えたいの知れない不吉な塊」となって伸し掛かっていたからであると言えます。


何という苦い絶望した風景であろう。私は私の運命そのままの四囲のなかに歩いている。これは私の心のそのままの姿であり、ここにいて私は日なたのなかで感じるような何等の欺瞞をも感じない。私の神経は暗い行手に向って張り切り、今や決然とした意志を感じる。なんというそれは気持のいいことだろう。定罰のような闇、膚を劈く酷寒。そのなかでこそ私の疲労は快く緊張し新しい戦慄を感じることが出来る。歩け。歩け。へたばるまで歩け

梶井基次郎『冬の蝿』


基次郎が捉えて描いた亜現実は、確かに退廃感のある目線で覗かれています。しかし、絶望、疲弊、苦悩に溢れる心情には沸々とした湧き上がる熱量が潜んでいます。この陰鬱な精神の底に流れる力強い熱量は「生命の価値観」が呼び起こすものであり、純粋な生への憧れが溢れています。この憧れが強いからこそ、現実と理想との乖離や、病苦によるもどかしさが、一層怒りを帯びて高まっていきます。生への執着は生き様へと変化を見せ、立派な文士としてあろうと虚栄を張りながら熱心に作品を生み出します。彼にとって、ただ只管に執筆に向かうことは苦悩への戦いであり、苦悩を生み出す元ともなっていました。

梶井基次郎が初期に生み出した本作『檸檬』は、彼の芸術性、退廃性、生命の価値観などが最も凝縮された作品です。未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。


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