『浴室』ジャン=フィリップ・トゥーサン 感想
こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。
1985年、パリにおいてフランス文学界隈を騒がせた、新進気鋭作家ジャン=フィリップ・トゥーサンの『浴室』です。ジョン・ルヴォフによって映画化もされています。
『浴室』を見出し、世に出した出版社エディシオン・ド・ミニュイはサミュエル・ベケット、クロード・シモンという二人のノーベル文学賞受賞作家を輩出したフランス文学の大家です。第二次世界大戦争後に生まれた「ヌーヴォー・ロマン」(新しい小説)は、この二名やロブ・グリエなどを筆頭に、近代における「文学の枠組に逆らって」書き上げられた作品を世に放ち、センセーションを起こします。これは集団的な文芸運動ではなく、大きな風潮として特にヨーロッパで盛んになり、ひとつの表現として認識されるに至ります。「ヌーヴォー・ロマン」は「アンチ・ロマン」とも呼ばれ、伝統的な作家の構築する世界や物語を直接的具体的に伝える手法を用いず、構成や心理描写を変形させた新しい型の文学作品です。
1970年頃からこの「ヌーヴォー・ロマン」は大きな風潮から、作家それぞれの解釈を元に自由な発想で実験的な作品が数多く生み出されます。芸術全般におけるポストモダニズム(脱近代主義)に吸収され、実験的な小説が生まれ注目を集めていきます。ジャン=フィリップ・トゥーサンは弱冠28歳にしてこの潮流に一石を投じました。
『浴室』において見受けられる斬新な要素としては、「ミニマリズム」「心理描写の否定」「規則的不規則」などが感じられます。
ミニマリズム的要素
手記的な記述で端的に書く文体には、読者が文章を元に空想を膨らませる余地を与えません。「ここを見ろ」「ここを読め」と言われるが如くに文章を追い、物語とさえ認識する以前にパラグラフ(一塊の文章)がブツリと終わります。これはベケットの「神経質な省エネ性」を彷彿とさせるもので、端的であるがゆえに印象が強く、頭に一文一文がこびりつきます。この効果が、作品の序盤と終盤で起こる反復性を増幅させています。
心理描写の否定的要素
主人公である「ぼく」は、一種の神経症を疑わせる言動を繰り返します。それは、異常性が強烈なわけではなく、性格に由来する憂鬱性が起因となり周囲の人物に理解されにくい印象を与えます。しかしながら、それほどの言動にもかかわらず書かれている文章にはその時々の「ぼく」の心理描写は割愛され、事実だけを端的に述べられています。この為、読者には訴えかける主張が見えず、目的があるのかさえ分からぬ神経質な行動が、無機質で不可解に感じながらも人間味を察してしまうという、不可解な感情を抱かせます。
規則的不規則
ピタゴラスの定理が序に載せられています。章構成は3つですが、「パリ」「直角三角形の斜辺」「パリ」となっており、おそらく二等辺三角形を連想させるプロットとなっています。そして各章は40、80、50のパラグラフで成り立っています。このように規則性を連想させる序と、規則的に構成された章と、それを裏切る形で不規則なパラグラフ数が絶妙な違和感を持たせます。しかし、見方を変えると、パラグラフ40の「パリ」とパラグラフ50の「パリ」は長さの違う辺であると憶測できます。
「斬新」の中の「緻密」
浴室に引きこもっていた「ぼく」は一年発起でイタリア旅行に向かいます。これが「直角三角形の斜辺」の章ですが、気ままなホテル暮らしにおける、些細なことに苛立ちを覚える、神経質で裕福な日々が描かれます。ここで恋人であるエドモンドソンと一悶着があるのですが、ここで心境の変化が描写されます(この描写自体は2回目の「パリ」)。これは数少ない心理描写で非常に印象的です。
読者が常々思っていた疑問を、ついに「ぼく」が気づき、自問します。ここでの心境の変化が2回目の「パリ」に変化を与えます。
1回目、2回目、両方の「パリ」で「ぼく」は浴室を出ます。これは同様の反復性を想起させます。しかしながら、心境の変化があった2回目の「パリ」におけるこの行動は10のパラグラフ分の変化があり、その変化の度合いは「心理的変化」を表現したトゥーサンの緻密性であると見受けられます。つまり、規則的な反復ではなく、変化がもたらした不規則性で心理表現を行っています。2回目の「浴室」を出る表現は新たな生き方への描写であると解釈でき、ひとつの希望が見えるように思えます。
派手な事件やめまぐるしい描写はなく、淡々と読み進むことが出来てしまう作品ですが、書かれた時代の風潮や、エディシオン・ド・ミニュイ代表のジェローム・ランドンが見出したセンスを鑑みると、読後の印象がガラリと変わる筈です。未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。