『緋文字』ナサニエル・ホーソーン 感想
こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。
ナサニエル・ホーソーン『緋文字』です。1850年に出版されました。ホーソーンはマサチューセッツ州セイラムに生まれました。セイラムは魔女裁判で有名ですが、ホーソーンの先祖はその判事として名を残しているジョン・ホーソーンです。「名門」の出であったホーソーンは、税関務め、作家、領事と経験。紹介分にある序文「税関」はこの経験を語るような切り口で始まっていきます。
税関で勤めている風景描写から徐々に「緋文字」の序章へと繋がっていく、リアルからフィクションへ繋がっていくメタフィクションの表現は見事です。限りなくリアルに表現したかったフィクション要素は、ストーリー自体ではなく、当時の宗教と法律がほとんど一体となし、神の存在が確実に存在していた社会であったように思います。
また、神への使い・信者が持つ人間としての悪意・欲望などを多く皮肉った描写も散見されます。
「神」という本来的に曖昧な存在が、「確実に存在している」とされている社会において、神の判断が全て正義であると誰もが信じている。だからこそ、神の判断として、魔女裁判などいう恐ろしい所業が聖職者より生まれてしまった。魔女裁判を促した聖職者は、自身の中に沸く嫌悪感に左右されなかったのだろうか。
ではその「神」の使いには、人間としての悪意は存在しているのか、欲望は存在しているのか。これがこの作品「緋文字」の核として存在しています。
物語はひとつの姦通事件で始まります。遠く離れた夫がありながら他者の子を産み落とした女性、遠くからようやくたどり着いたその夫、優しい御心で神への告白を促す青年牧師、謹厳なる偉大な老牧師、日に日に大きくなる罪の子であるその少女。
この物語の登場人物には感情移入が非常にし辛い。それは、彼らはその当時に存在した「愛」「神」「心」「罪」「誇り」「義」などのシンボルとして描かれており、その社会で生きた人々がみな、欠片として持っていたものです。
登場人物をシンボル化させて、思想を伝えようとする手法はドストエフスキーのそれと大変近しいものがあり、読みやすく感じました。
ナサニエル・ホーソーンは「アメリカン・ルネサンス」における代表的な作家です。ヨーロッパの伝統を植民地時代にアメリカへ継承し、それらが文化として土地に根付いていきました。文学においては主に、ロマン主義・思想主義とされています。この作品でホーソーンが軸に置いていた思想は「神と悪の存在」ではないでしょうか。
悪を徹底的に排除しようとする清教徒社会(ピューリタニズム)への批判や皮肉、全ての人間に存在し得る悪意と欲望、無垢であるが故の鋭い悪への洞察力。
いかなる才能よりも、威厳や上品さ、つまり聖職者らしさが神に近い、つまり「そのように見える人こそそうなのだ」と当時を大きく皮肉っています。
ホーソーンは、神と人間をどう存在させるか、を問うています。自分の心から神を存在させ、その神に全てを明かし、全ての許しを請い、全てを世に懺悔する。心にどう神を存在させるかということが、本当の信心であると、そう思います。
物語自体はさほど複雑ではありませんので、ホーソーンの思想を汲み取りながら読んでみてください。
では。