『毛皮のマリー』寺山修司 感想
こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
寺山修司(1935-1983)は、母方の叔父が経営していた青森の映画館「歌舞伎座」で少年時代を過ごします。観客席のさらに裏側から見る光景は、映画を観る観客さえも一つの見世物として見え、一人客、男女の客、団体、様々な職業の人間たちがそれぞれの役者となって人生を演じているように感じられました。また、その映画館では、演劇が行われることがあり、旅の一座による演劇自体はもちろん、楽屋での慌ただしさ、人としての交流、垣間見える生活感、引き上げて行く後ろ姿などもやはりドラマ的に感じられました。毎日のように人間模様から得る発見は、芸術的感性を磨いていきます。そして、それと同時にドラマを見抜く観察眼も養われていきました。惹きつけられる人間への興味は、立場や名誉といった付属物は二の次に置かれて人間そのものへ注視する性格が出来上がっていきます。ここに、アンダーグラウンド演劇を形成する土壌が自然に構築されたと言えます。
詩人として早咲きした寺山修司は、その後シナリオ作家として活躍し、短歌集『田園に死す』をまとめると、前衛演劇集団として演劇実験室「天井桟敷」を結成します。思うように思うまま、束縛されない自由な演劇を目指して組織されました。創立時の劇団員募集では「怪優奇優侏儒巨人美少女等募集」と銘打たれ、家出者や学校を退学した者たちが集ったことからも、個性溢れる表現者たちがこの劇団に魅力を感じていたことが伝わります。しかしこれには、自分の詩作品に感化され、実際に家を飛び出した人々の受け皿とする目的としての意味合いもありました。
「見世物の復権」を掲げていた天井桟敷は、旗揚げ公演にシャンソン歌手として活躍していた美輪明宏(当時は丸山明宏)を主役に抜擢して、『青森県のせむし男』を上演します。これが大きな成功を収め、アングラ演劇としての基盤を築き上げました。
再び美輪明宏を招いた天井桟敷としての第三回公演においても、異例の深夜公演を行うほど人気を獲得しました。夜十時の公演に入りきらなかった観客が帰らずに劇場を離れないため、深夜十二時から再度公演したという伝説を残しました。この時に行われた演劇が『毛皮のマリー』です。寺山修司は文学という言葉の表現から、演劇というイメージの表現へと幅を広げることに成功しました。
寺山修司は演劇には「変革」させる力があると信じていました。一つは社会を変革させることです。当然アングラ演劇の代表劇団と見做されている以上、政治的、社会情勢、安保闘争、全共闘などの意味合いでもありますが、そこに参加する発端は正義や信念ではなく「共感」でした。彼の作品には社会的マイノリティ、及び性的マイノリティが多く主題に取り上げられます。同性愛者、性的錯綜者、社会不適合者、社会絶望者、涜神者など、彼等自身で無ければ感じることが出来ないはずの抱いた苦悩を、寺山修司は彼の特殊な観察眼を持って入り込み共感することができました。しかし、やはりこれには彼自身の精神も特殊な成長過程があったという点は見過ごすことはできません。
父親の八郎は戦前から英語に関心を持つほどの文学畑の人でしたが、警察から戦地へと向かい帰らぬ人となりました。その後、母親のはつは自身の批評家としての文才を分け与えたと寺山修司に教え込み、父親の存在が霞んでしまうほど捻れた深い愛情を注ぎ続けました。父親の墓参りも碌にしない彼は母親に対する愛情のみが膨らみ続け、そして徐々に自身を生きにくくする束縛を自らに負わせることになります。このような特殊な愛情の受け方をした彼は、母親に対して近親相姦的な愛情を持つ者となり、マイノリティ者の精神に共感することができたと言えます。
もう一つの変革は「現実と虚構」にあります。彼の演劇論『迷路と死海』からも見られるように、現実の自分を一度解体させて虚構のなかに自分を作り上げる、ここに生まれた虚構の自分が演劇となっていく。しかし、その虚構の自分は現実でもあり得る存在であり、虚構でも現実でもない自分(演劇)が生まれる。この理論が示すように、演劇によって現実も虚構も変革させることができるという概念で構築されています。ここにもやはり、束縛された自身の精神を再構築したいという思いを、受け手は見てとることができます。
『毛皮のマリー』初演時に舞台美術を手掛けていた横尾忠則は期日通りにセットを仕上げました。しかし、搬入口が狭くセットをそのままの大きさでは舞台に入れることができず、寺山修司がカットして入れようと提案します。その発言に激怒した横尾忠則は断じて認めないとして、そのまま引き上げてしまいました。そこで救いの手を差し伸べたのが主演の美輪明宏でした。
そこから家具調度品と小道具を全て、美輪明宏の住まいから持ち込んで演劇を行うことができました。
四十を越えた男娼のマリーは、欣也という美少年の息子と身の回りの世話をする下男と暮らしています。マリーは毎日のように男を館に引き込んで性的な快楽を施していました。その生活を壊して欣也を連れ出そうとする美少女の紋白、マリーの気に入った逞しい水夫、これらが物語を動かしていきます。そして、マリーと欣也の関係が水夫に告白されて衝撃の結末へと突き進んでいきます。
ここに演劇効果としての変革、ドキュメンタリーとドラマの融合「ドキュラマ」が見られます。マイノリティの社会認知、現実と虚構の境界の崩壊、これにより訴える一貫した主題は「形態としての家族愛」であり、ここからの解放と変革が寺山修司自身の内面と、観客それぞれの内面の価値観変化と共鳴を果たしています。
この作品に内包される歪んだ「子への愛情」には、寺山修司が抱いていた母親に対する近親相姦的なエロティシズムが垣間見られます。そして、そこに見られる耽美的表現は、特定の国、特定の時代、特定の様相、特定の効果、特定の条件は定められず、「思うように思うまま、束縛されない自由な」表現方法で描かれています。このような耽美的感情を踏襲した作品が何作も作られたことからもわかるように、寺山修司は清濁を併せ飲んだ耽美派であると言えます。
母親の束縛的な深い愛情に取り込まれながら、彼の異常に発達した観察眼は、自身さえも客観視して否定と肯定を繰り返します。現実と虚構がない混ぜとなった作品に見られる愛の歪みは、彼が抱く価値観としての疑問符のように感じられます。
寺山修司が亡くなるまで、いつまでも、誰よりも彼の理解者であった美輪明宏。天井桟敷の舞台に誘われたとき、彼のカミングアウトで失墜した人気が「ヨイトマケの唄」で再燃し始めた頃でした。『家出のすすめ』などで世間的に如何わしいレッテルが貼られていた寺山修司の劇団への誘いは、周囲の反対意見に溢れました。しかし、美輪明宏は反対を押し切って舞台に立つことを決意します。
マリーが墓の下で聞こえる木枯らしを「木の拍手、風の喝采」だと説く場面は、名誉や金を墓場に持っていけないという言葉と重なります。そして、シェイクスピアの言葉「人生は、どうせ一幕のお芝居」を語るマリーの声は、観客席へ現実と虚構の境を超えた人生の謳歌を歌います。「思うように思うまま、束縛されない自由な」人生を自身に言い聞かせると共に、世を生きる人々にも伝えようと試みていたようにも感じられます。
歌人、脚本家、劇作家、映画監督、評論家と、一つの職業に囚われない彼の活動は、数多の作品を生み出しています。そこに見られる信念はやがて一つに収束され、一貫した思想へと導かれています。彼の思想根本が凝縮された本作、未読の方はぜひ読んでみてください。
では。