『閨房哲学』マルキ・ド・サド 感想
こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。
ドナチアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド『閨房哲学』。通称「サド公」の思想にフォーカスされた、対話体作品です。
サド公はフランス革命期における貴族でした。幼少より敬虔にカトリックを学びましたが、七年戦争へ自ら従軍し騎馬連隊大佐として活躍しました。戦争後に良家の娘と婚姻し爵位を上げ「侯爵」となり資産を含め裕福な階層へ身を置きます。
しかし、彼は誰もが知る「サディズム」を自分の中で制御できず反社会的な遊蕩と犯罪により身を滅ぼしていきます。1778年から1814年に没するまでの殆どを獄中か精神病院内で過ごします。彼の執筆の多くはこの期間に行われました。
彼が生み出した作品の特性は、「異常に攻撃的なエロティシズム」、「キリスト教を徹底的に否定した無神論」が挙げられます。彼の持つ「サディズム」を肯定的に、或いは詭弁を、或いは屁理屈を、しかし現実を引き合いに出した論理的な哲学が、彼の中で構築されています。
この『閨房哲学』は数ある作品の中で「サド公の思想」をより濃く描かれているものと言えます。
「閨房」は「婦人の寝屋」という意味です。舞台は終始サン・タンジェ夫人の寝室で繰り広げられます。登場人物はみなガウン一枚を裸に羽織り、対話と乱交を繰り返します。この作品内では乱交の詳細描写は割愛されていますが、それにより「サド公の思想」がより明確に伝わる効果を与えています。無垢な少女であるウージェニーへ「悪徳を説く」ドルマンセが、サド公の代弁者となり、この哲学を論考調で教鞭を振るいます。
無神論における軸となるのは「自然」の存在です。自然と人間が対照とされ、宗教とは「ある人間たちが作り出した、ある人間たちにのみ利益を及ぼすための道具」とみなし、徹底的に批判しています。
また、国と法律においても同様に、「国が都合よく民衆を管理するがために作られた、ある一定の国家側の人間にのみ利益を及ぼすための決まり」という表現で書かれています。
そして快楽を追求する為に妨げるこれらの「宗教」や「法律」などは、実に不要なものであり、あくまで快楽に忠実に行動することが「自然」における人間の在り方であると豪語しています。
また作中に朗読という形で一冊のパンフレットが挿し込まれます。「フランス人よ、共和主義者たらんとするならもう一息だ」と題される、作品の約四分の一を占める読み物で哲学論考が表現されています。主題は「道徳」と「宗教」です。
この突然的な朗読は物語を中断しながらも、読むものの思考には沿っており今までの説教を裏付ける論考となっています。
しかし、違った角度から見ますとこれが書かれた時勢、つまりフランス革命期にサド公が世に訴えたかった思想と捉えることができます。この君主制、もっといえば恐怖政治の絶対王政の崩壊を望み、来る新たな共和政体に求める無神論による救世を、自らが抱える「サディズム」を潜ませ訴えるという芸当をやってのけているわけです。
訳者の澁澤龍彦さんは、このように話されています。
この作品の核にあるものは「個人の幸福と社会の幸福が相反している」という点です。社会の幸福を守る為の法律は、個人の快楽が及ぼす幸福を妨げるという解釈は、「サディズムの祖」サド公ならではの思考ではないかと感じます。
戦争と殺人のくだりは、先日の記事に書いたマキアヴェッリ『君主論』でも出てきましたが、永遠の論争テーマといえます。十九世紀には禁書になっていたサド公の作品、この哲学をぜひ体感してください。
では。