これまでの人生で死にたいと思ったことがないなんて

 暗いタイトルをつけたのだから明るい結末に落とすというのが良いのかと思うが残念ながらここから先は暗い話しかしない。
 唯一明るい話があるとするならば
 私は自殺肯定派である。

 くだらない人生の教訓

 現状維持にも努力をしなければいけない

 嘘で笑うことを覚えたのは中学生のころだった。
 自分はあまり笑わない子供であった。
 というより世の中にはそんな面白いことはないと思っていた。その気持ちは今も変わらないが、
 今思えばその頃はお笑い番組やらコント番組やらが数多く放送されていたが友達が面白いと思う芸人やら何やらの話を聞いてもあまり面白いとは思わないことが多かった。
 そんな感じであまり笑わなかったしあまり表情豊かな子供ではなかった気がする。
 行動的な子供ではなかったことは確かである。

 そんな子供ではあったが人嫌いというわけではなく普通の人間関係を構築していた。
 ある時、僕は人嫌いになった。
 人間関係の輪の中に入るのが大変億劫になり中学生になってから積極的に友達作りなどはしなかった。むしろ消極的だったと言える。

 くだらない人生の教訓

力がないということはそれだけで悪いことなんですよ

 社会において数というのは力だ。
 多数派に属するというのはそれだけで価値のあることである。
 数が多いということで品性が下落するやからの多いことである。
 集団に属するということは集団のルールに従わなければならない。集団の雰囲気に従わなければならない。ルールとは雰囲気のままに作られるものである。

 友達作りに消極的だったことは今思えば愚かしいことをしていたと思う。後悔があるわけではないが、
 僕は友達を作らなかった。
 そして僕には力が無かったのである。

 人の愚かさを最も感じられるのは武器も持たずに集団の中に1人で入ることである。社会的に言えば1人の人間の方が愚かではある。

 僕が社会とか法とか身近にいえば先生とかのことを信用してないし馬鹿にしていると言っていいのはこの時期に理由がある。
 
 社会が僕を守ることはないし、法は僕にとって邪魔者で先生など取るに足らないどこにでもいる大人だった。

 仲間がいないような気がした。

 たぶんそうじゃなくて仲間なんて必要などしていなかったんだろうけど、誰かに助けを求めたいなんて思わなかったんだろうけど、

 くだらない人生の教訓
 
 いじめを無くそうとかほざく奴は大抵信用できない

 端的にいうと僕はいじめにあっていた。
 そのいじめの描写をするのは辛いとかではないんだけれどその時の感情が陳腐化されてしまうような気がするので省く。
 殺意というの本当の意味で知ったのはこの時だったと思う。
 怒りという感情の強さを知ったのはこの時だったと思う。
 だから忘れない。
 忘れてなるものかって
 そう今でも思う。
 僕が死にたいなぁと思ったのはそんな時だった。
 自殺したいと思ったわけではなくこの世界から消えてしまいたいというほうが正確だったろうと思う。
 もしくは世界を消してしまいたいと、

 そんなこんながあったが僕は死ななかった。というより死ねなかった。生きていたいという気持ちはそんなに無かったのだけれど死ぬということに恐怖を覚えていたことは確かだ。
 僕はその時死ぬということに立ち向かった。
 だから僕は自殺した人を悪いようには言えない。
 生きてればいいことがあるとかいう似たようなことしか言えない馬鹿どもに"死んだことないくせに"と悪態をつきながら
 僕はこんな馬鹿どもの敵になることを決めたのだから。
 死んだ人、死ねなかった人、死にたいと思ったことがある人。
 僕はあなたの味方
 とは言わないけれど
 敵ではない何かであります。

 くだらない人生の教訓

 僕は社会の敵ではないが社会は僕の敵である

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