コミュニケーションの欠落

 人は話し方が9割
 空気を変えるすごいひと言
 雑談の一流、二流、三流
 思い通りに人を動かすヤバい話し方

 これらのものが僕が今まで読んできたコミュニケーション、話し方の本たちであります。
 どれも読み物としては大変面白かったと記憶しています。
 しかしこれらの本に共通する何かが違うという感覚を話したいと思います。

 まず率直にいえばこれらのコミュニケーションはビジネス的であると言える。
 人と仲良くすることを書いてくれているわけではないと僕は考える。
 もちろんこの本の中には仕事以外のところで使えるものも数多く存在しているがそれらを使うとき僕は仕事をしているような感覚を受ける。
 よく考えてみれば当たり前の話しではあるのだがそもそも普通の人で話し方の本を読んでいる人はどれほどいるのだろう、皆当たり前に読んでなくて多分あまり頭を使わずに会話をしている。
 そういう意味では話し方の本を読んでいるやつは異端者である。
 そして何が異なるかというと他人と異なっているわけではない本の中でやっていることを実際にやってみてもおかしなことはまるでない。話し方に悩んでいる人がいたならば話し方が上手くなったことに関しては喜しいことであろう。
 しかし自己と異なるのである。
 話し方の本を知らない自分、1人でいることに不満などなくそこそこ満足していた自分と、
 異なるのである。

 話し方の本はビジネス的といった。
 つまりは打算的な考えであるということである。それが悪いということはない。大人になるとそうことが当たり前になるしそういう方がむしろ都合がいいと言えるのかも知れない。
 しかし自分は打算なき関係に憧れを抱いた。昔は出来ていたことがいつの間にか出来なくなってしまった。自分の人生に欠けてしまったものを

 話し方の本には聞き方の話をされることも多い。
 むしろ聞き方のほうが大事だと個人的には思うが、これは最近読んだ本の中のことであるが聞く側がどういうふうに思って聞くのかによって話してる側がいい話ができたという感想になった。話している内容は変わってないのにである。
 これは聞き方の力の素晴らしさを知れるエピソードではある。
 実際に私が話し方の本の中で最も意識して使っているのが聞き方である。
 しかしこれは実際に使ったから思うことだが内容なんてどうでもいいだという気分にさせられる。本の中で人の話は世界で一番面白い話と思って聞けと言われる。そしてそう思い聞いている。
 その場の空気は非常に良いものであるし、僕も良い話が出来たと思う。
 しかし1人になったときに思う。
 全てを自分でコントロールできる。
 この逆のパータンを想像してみて欲しい。
 人の話をつまらない話だと思い聞けばその話はつまらない話になるのである。
 話の面白いとか良いとか悪いとかが全て僕の方でコントロール出来る。
 この考えに僕はちょっとした絶望を感じた。

 僕は思うことに話し方は適当でいいという考えである。
 出来ないというのは悪い方だが出来すぎるというのも良い方とは言えないと僕は思った。
 これは結果を出すとかではなくただ普通に生きるという観点ではである。

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