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夢から覚める前に(小説)


 小学二年生のとき、実家の猫が死んだ。友人のようちゃんと二人でこたつに潜り込んでテレビゲームをしていたときに家の電話が鳴り響いて、居間から走って飛び出してきたようちゃんのお母さんが、私にその受話器を手渡した。受け取ったままに受話器を耳に当てると、おばあちゃんが涙まじりの金切り声で、まちこ、まだようちゃんの家にいるの、みいこが息すらできなくなってるよ、早く帰ってきなさい、とまくしたてた。猫が病気になってからそんな風に電話がかかってきたのは一度や二度のことではなかったから、私は半信半疑のまま電話を切り、それからまたこたつに座って、もう一回だけ、と言って、ゲームのカセットをファミコンに差し込んだ。空がすっかり暗くなったころには猫のことなんて忘れていて、近くの公園から蛍の光が流れ始めたときにようやく、私はようちゃんの家を出た。家のドアを開けるなり、おばあちゃんは私のほっぺを思い切り強くひっぱたたいた。痛みで反射的に涙が流れて滲んだ視界の隅に、呼吸を止めた猫が、かたく目を閉じて横たわっていた。
 猫の前に座り込み、私はただ何も言えないまま、猫の体を抱きかかえた。すでに猫は冷たくなっていて、石のように硬い感触を腕に感じながら、ごめんね、とだけ呟いても、猫が、その声に反応することはなかった。
 さっきまで泣いていたおばあちゃんは、ただじっと、私と猫を憐むように見つめていた。死に目に会えなかった私を憐れんでいたのか。それとも、ごめんね、なんて言われる猫を憐んでいたのか。
 今からもう、二十年近く前の思い出だ。

「なんでそんな話思い出したの」
 コーヒーが真っ白になるまで牛乳を注ぎながら、隣のソファに寝そべっていた妹が、怪訝な顔を私に向けた。
「なんだろ、そういえばあのときはあんたまだ生まれてなかったな、って思って」
 そう答えると、妹はつまらなさそうに口を尖らせて言った。
「私は家で猫飼ってたことも、おばあちゃんにひっぱ叩かれたこともなかったからな」
「まぁおばあちゃんはあんたには優しかったもんね」
 そう言うと妹は得意げに顔に笑みを浮かべ、それから寝転んだまま私の顔を見上げて呟いた。
「でもさ、うちの家族でおばあちゃんが真剣に叱る人って、お姉ちゃんだけだったよね」
「あのときはお母さん働いてたから、おばあちゃんが母親代わりだっただけでしょ。あんたはただの孫。」
「えー、いいなぁ」
「いいじゃん、あんたはお母さんに可愛がってもらったんだし」
「うーんでも私体弱かったからさ、誰からもちゃんと叱られたことないんだよね。甘やかしてもらってばっか」
「叱られっぱなしよりいいじゃん」
「まあ、そうかも」
 そう言ってから、妹は私が買ったばかりのポテトチップスの袋を手に取り、「食べないの?」と言って私を見上げる。夜に仕事しながら食べるつもりで買ったのに。もう二十歳になったはずでも、その無邪気で無神経なところは小学生の頃から一切変わらない。そういうところが末っ子らしくて、「孫」なんだよ、とは口に出さないまま袋を破り、妹の頭の横に置いた。
「それで、あんたはいつうちから出ていくつもりなの」
 がさごそと袋に手を突っ込みながら、妹は答える。
「うーん、とりあえずは私の気が済むまでかな」
 はぁ、とため息をつくと、妹がにんまりと笑うのが横目に見えた。

 妹が私の家に居候を始めたのは今から二週間ほど前の、二月の半ば頃のことだった。仕事が終わり、家のドアを開けると電気がつけっぱなしてあって、リビングのソファに堂々と座り、なんてことない顔で私を待っている妹がそこにいた。
 鍵くらい閉めとかないとだめだよ、と笑い、呆然としている私に向かって溌剌とした声で、しばらくこの家に住まわせてほしい、と妹は言った。
 ありえない状況にしばしその場に立ちすくんでいたが、だんだんと頭がさめて、目の前の状況を理解できないまま口をついて出てきた「実家はいいの。大学はどうするつもりなの」という質問の声は、自分でも驚くほど冷静で、現実的なものだった。妹は飄々とした顔で「実家も大学も飽きちゃった。今までお姉ちゃんと住んだことなかったから、ちょっとくらい良いじゃん」と言い放った。
 東京の片隅で細々とフォトグラファーとして生活を続けてから十年、ずっと忙殺される日が続いていたけれど、二月から仕事がうまくいかなくなり、写真を撮る仕事はめっきり断っていて、家にいる時間は増えている。だから妹が家に居座る分には構わなかったけれど、それ以上に実家に夫婦だけで取り残されている親が心配で、親を置いてきたことを、何度も叱った。だが妹は臆することなくずっとにやにやと笑っていて、私の目をじっと見つめて言った。
「私だってさ、何も考えてなかったわけじゃなかったんだ。でもさ、私は病気を理由に親に甘やかされて育ってきて、裏返したらそれって全部親の言いなりで、洋服とかもカバンとかもいまだに私買ってもらってたんだよ。なんかさ、そういう人生のまま終わっちゃうのってすごく寂しいじゃん。もうさ、今の私は自由なんだからさ、ここにいさせてよ。私のこと叱ってくれるのってお姉ちゃんだけだったんだ。お姉ちゃんだって、実家捨ててひとりでカメラマンなんて安定してない仕事してるんでしょ。私と一緒じゃん」
 そう言われると、何も言い返せなかった。今でこそ東京の片隅で細々と写真を撮りながら生活しているけれど、東京の大学を受験したころは、自分がカメラマンになるなんて思ってもいなかった。だが、素直にそうだね、とは言えない。東北の田舎で、娘二人に出ていかれたまま夫婦だけで暮らす両親の顔が思い浮ぶ。私が上京するとき、日記と家計簿を毎日つけるように、と口酸っぱく言ったのは几帳面な父親で、お金を盗まれないようにとお守り入りの財布を買ってくれたのは、やたらと心配性な母親だった。今目の前にいる妹は、一体我が家の誰に似たのだろう。
「まぁそういうことで、当分はよろしくね」
 あぁ、無責任。
 とはいえ、いくら妹が無謀なお願いをしているとしても、私は冬の終わり、凍りつくような寒さの中でわざわざひとりで東京までやってきた妹を無碍にできるほど、残酷な姉ではない。
「わかった」
 ふてぶてしかった妹の顔が一瞬で、ぱぁ、と明るくなった。
「いいの?」
「とりあえずしばらくはうちにいていいから。でも私が写真撮れるようになったら、出てってね」
「えぇ、ずっといさせてくれないの」
「当たり前でしょ。そんなんで自立できるつもりでいたの」
 そう言うと妹は口を尖らせた。可愛いとでも思っているのだろうか。妹がしぶしぶ頷いたのを確認してから、私は妹の隣に座った。

 そこから二週間が経った今も、妹は特段なにをするでもなく、私の家のソファで寝そべっている。そもそも親がこのことを知っているのかどうかも私は分からない。もともと寝るだけの場所と化していて何もなかったはずの家の床には、服だのバッグだのが転がっていて、届いた郵便物が無造作に机の上に散らばっている。妹が住み始めたころ、私は妹に、掃除と料理くらいできたりしないの、と聞いたはずなのに、妹はただはぐらかすように笑っただけで、毎日、私の家でひたすらに惰眠を貪っていた。
 風呂場にはカビが生えていて、仕事で何日か家を開けているときには、捨てられていないゴミが異臭を放っている。実家にいたときは妹がいる空間ではタバコは吸わないようにしていたから、私は換気扇の前ではなく、わざわざ駅前の喫煙所までわざわざ行かないとタバコが吸えなくなった。そんなこともう気にしなくて良いのに、と妹は笑う。けれどこれは私が実家に帰るたびに、ずっと習慣づけていたことだった。
 それでも私は、妹を家から追い出すことはできなかった。妹の言うとおり、家を出てからこの十年間、私は妹と一緒に暮らしたことなんて一度もなかった。実家に帰っても妹はいつも大学か病院にいて、ふたりっきりで話した記憶もほとんどない。東京に来てから私は、妹と親とおばあちゃんを置いてきたことを心のどこかでずっと後悔していた。そしてそんな罪悪感をまざまざと見せつけるように、妹は今更になって突然、両親ではなく、東京で苦し紛れに生きる私の目の前に現れた。それが本当に私と一緒に過ごしたいからなのか、それともただの当て付けなのか、燻って歪みきった私には、妹の真意は図かねていた。
 けれど__。
「お姉ちゃんと暮らすのなんて久々で、すっごい嬉しい」
 そんなことを妹に言われてしまうと、私は何も言えなくなってしまうのだ。


 ソファに座ってぼんやりとテレビを見ていると、不意に膝の上に置いていた携帯が鳴った。慌てて取り出し画面を見ると、「進藤勇」と表示されている。その名前にはよく見覚えがあって、胸がぶわっと高鳴るのを感じた。慌てて横を見ると、トイレにでも行ったのか、妹はいなくなっていた。こわごわとスピーカーに耳を当てると、よく知る柔らかい声が聞こえてきた。
「瀬島? 久しぶり」
「お久しぶりです」
「なんだ、堅いな。実はさ、まぁいまのご時世で実は今日本に戻ってきててさ。よかったら今度会わない?」
「会っていいんですか」
「瀬島さえ良かったら、だけど。あぁでもやっぱり会うのは控えたほうがいいかな」
「いや、大丈夫です。会いたいです、すごく」
「ほんと? よかった。じゃあまたちょっとスケジュール確認してから送るね」
 ありがとうございます、と言い終わる前に電話が切れた。顔が赤くなっているのを感じて、両手でぱたぱたと顔を煽ぐ。「進藤さん」と出会ったのは二年前の春のことだったけれど、ずっと仕事で台湾に行っていて、会うのは半年ぶりだ。広告制作会社で務める進藤さんは、いちど友人の紹介で一緒に仕事をしたときにやたらと私の写真を褒めてくれて、それからいつも、広告を作るたびに私の写真を使おうとしてくれる。私と五歳しか変わらないのに営業部長を務めていて、やたらと仕事が早い。半年前は恋人がいなかったはずだけれど、今は誰かと付き合っているんだろうか。
「なに、男?」
 後ろから妹が話しかけてきたので、慌てて携帯を閉じて振り返った。
「いつからいたの。仕事の人よ」
「仕事?なんのひと?」
「広告会社の人。よく私の写真使ってくれるの」
 妹はへぇ、とだけ呟いて、またソファに寝そべった。もう少し興味を示してくれてもいいのに。テレビのリモコンを拾い上げたとき、妹が思いついたように、私に聞いた。
「お姉ちゃんってさ、どんな写真撮るの」
 難しい質問だった。チャンネルを変え、音量を少し下げてから、私は答えた。
「どんなって、いろいろ。会社で撮る写真とフリーで撮るのは別だし」
「フリー?」
「会社を介さずに自分で契約取ることね」
「へぇ。会社だと何撮るの?」
「会社だったら、うちはちっちゃいスタジオだから、一般のお客さんメインかなぁ。結婚式の写真とか、最近だと卒業式の写真の依頼も多いかも。たまに広告とか雑誌の仕事も来るけど、私自身はそういうのはフリーで請け負うのが多かったかなぁ」
「はぇぇ、すごいね」
 口をぽかんと開いた妹が、内容の何割を理解しているのかわからない。妹にわかりやすいように話題を変えてみる。
「駅のビルとか駅構内とかにさ、広告いっぱい貼ってあるでしょ。そうそう、今度さ、渋谷駅のビルに、年始に撮った写真が思いっきり貼り出される予定だから、一緒に見に行こうよ」
 そう言うと妹はやっと食いついたように、目を見開いた。
「えぇすごいじゃん、どんな写真?」
「うん、夏に開かれるミュージカルの広告なんだけどさ、めちゃくちゃかっこいいのよ、やっぱプロの劇団員ってすごい写真映えするから撮ってて楽しかったぁ」
「いいなぁ」
「まぁ、開催されたらの話なんだけどね」
「そっか、そうだよね」
 妹は寂しそうに眉を下げた。その広告を撮ったのは一月の中旬のことだった。そのときは進藤さんが紹介してくれた仕事だったこともあって、張り切って撮っていたけれど、今は、いろんな演劇やライブが公演を中止している。あのときは、世の中が、私が、こんな風になっちゃうだなんて、思ってもいなかった。
 妹が言った。
「ねぇ、今度私の写真撮ってよ」
「やだよ、むり」
「えぇ、なんで」
「だってあんたの顔、平凡なんだもん。撮ったって面白くないよ」
「ひどぉい、こう見えても私モテてたんだよ」
「はいはい、小学校くらいのときの話かな。」
 妹は頬を膨らませたが、そんな顔したって可愛く見えるわけではない。この顔を撮ったって、ちょっと人気が高い婚活写真くらいにしかならないだろう。
 それに。
 もうひとつ言いたいことが思い浮かんだけれど、それは口には出せなかった。妹のおでこを指で突くと、妹はにんまりと笑う。そういう笑顔なら、撮りたかったな、と私は思う。あの日から、私は写真を撮ることから逃げ、妹と真面目に向き合うことを、どこかで避け続けている。
 カメラを持つと手が震えるようになったのは、二月に入ってからのことだった。
 あの日から私は一度も、誰の写真も、撮っていない。

 

 進藤さんが指定したお店は、銀座の路地裏に立つビルの地下にあるらしい。進藤さんの職場が新橋駅の近くにあるからだろうけど、撮影以外で銀座になんてほとんど行ったことがないから、少し気が引けてしまう。そう思ってネットで画像検索をしたけれど、想像よりもずっとこぢんまりとしたカジュアルな焼き鳥屋さんで、思わず拍子抜けしてしまった。朝、妙に早い時間に目が覚めてしまったから、持っているワンピースやらスカートやらを全て引っ張り出してみたけれど、姿見の前で合わせてみても、アラサーに差し掛かった私が着るにはどれもしっくりこなかった。そもそもカメラマンとして仕事を始めてから、自分用の可愛い私服なんて長らく買っていない。
 どれが似合うと思う、と妹に聞くと、にやにやと意味ありげな笑みを浮かべながら、ワンピースはないんじゃない、とだけ言って、逃げるようにトイレへと向かった。こういうときは使えない妹だ。
 消えていく妹の後ろ姿をぼんやりと見送りながら、男性と出かけるのなんていつぶりだろう、なんてことを、私は考えていた。

 結局いつもと同じ、黒いタートルネックにジーパンを合わせて、職場に向かう。到着するなりメイク担当のユキちゃんが颯爽と駆け寄ってきて、デートでもあるんですか? と声をかけてきた。服装は変えてないのにピアスをつけて髪を巻いてみただけでそこまで言われるんだから、日頃から女性の顔を見ているだけはある。小さい会社で余計な噂が広まって欲しくなかったから、深入りされないように言葉を濁した。
「まぁ、最近仕事減ってきてるからたまにはこういうのもいいかなって」
「そうですよねぇ、最近卒業式とかもどんどんなくなってて、ほんと撮影の仕事これからどうなるのかなって感じですよねぇ」
「わかる、リモートの職場も増えてきてるけど、うちなんてどうなるのかなって感じ」
「こんなこと言ったらあれですけど、まちこさんもこのタイミングでよかったですよね。」
 そう言った後、ユキちゃんはまずい、とでも言うように口に手を当てた。私はへらへら、と笑って、そんな自分が少しだけ嫌になる。その会話を聞いていたのか、椅子に座っていたはずの社長の蒲田が、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
 思わず私は耳元を手で隠し、身をすくめた。蒲田のだらしなく開いた第二ボタンの裏からはうっすらと胸毛がはみ出ていて、私はこれを見るたびにいつも、どうしようもなく寒気がこみ上げてくる。
 蒲田は私の耳元なんて気にする様子もなく、私に声をかけた。
「お前、いつから現場復帰するつもりなんだ」
 耳を隠した手でそのまま頭を掻くふりをしながら、小声で答えた。
「ごめんなさい、もう少し待ってもらってもいいですか」
「もういい年したプロなんだから、そろそろ自覚をもてよ」
 そんなこと、言われなくても分かってる。
 何も言えずにいる私に、蒲田は顔に息がかかるくらい大きなため息をついた。申し訳なさそうに後ろから見ていたユキちゃんが、私を救うつもりだったのか、蒲田に声をかけた。
「まぁ、今は妹さんのこともあって大変でしょうし、大目に見てあげてくださいよ」
 ユキちゃんの言葉を聞いて、蒲田の顔はより一層険しくなった。私だって、妹を理由にされてしまうとさらに自分の立場がなくなってしまう。ユキちゃんはこういうところでいつも、微妙に無神経なところがあった。蒲田はしばらく顎に手を当てて髭をさすっていたが、その手を下ろし、諦めたように言った。
「まぁここだけの話、うちも今は撮影の依頼はとんと減ってて、来週からもリモートに切り替えるつもりだから。お前の『もう少し』が一体いつなのか、ゆっくり休んで考えてこいよ」
「ありがとうございます」
 浮かれて髪を巻いたりなんてしている自分が恥ずかしくて、頭を下げた。蒲田の言う通りだ。
 五年前に大学を卒業してから、定職にもつかずふらふらと趣味程度に写真を撮り、コンペだのなんだのに出しては箸にも棒にもかからず、落ちぶれて生活していた私を見つけて会社に入れてくれたのは蒲田だった。それが今、その写真すら撮れないなんてほざいているんだから、蒲田の怒りは痛いほどわかる。蒲田はかわりに営業やホームページの制作の仕事を任せてくれていたし、それは意外と肌に合っていたけれど、同時に、蒲田はいつも、私がカメラマンに戻るのを待っていてくれた。ありがたくて、同時に、どうしようもなく情けなくて、こうして詰め寄られるたびに、逃げ出したい衝動に駆られてしまう。
 蒲田はそれから仕事モードに入ったのか、それ以上私に突っかかることはなかった。けれど、一眼レフを組み立てる同期がいやでも目に入ってくるデスクでパソコンをいじっている間、私の頭にはどうしても、蒲田の失望した顔がこびりついたまま、はなれなかった。


 家に帰ると、リビングには誰もいなかった。ピアスを外して小物入れに放り投げ、着替えることもできないまま私はベッドに倒れ込む。携帯を開くと、進藤さんからメッセージが来ていた。
「今日はありがとう」 
 返事をするのは明日にしよう。携帯を閉じて枕の横に放り投げると、どっと疲れがこみ上げてきた。
 どうしてこんな日に限って妹はいないんだろう。無造作に散らかったリビングを見渡す。私が仕事や人間関係なんてリアルな悩みに直面しているとき、妹はいつも私の前から姿を消す。今頃どこをうろうろしているんだろうか。怪しい人に見つかって、遠くに連れて行かれていないだろうか。万が一このまま帰って来なかったら。そんなことを考えると不安だ。今はなんとなく、そばで話を聞いてほしい。
 胸を高鳴らせながら向かった進藤さんとの食事は、悔しいほど、楽しかった。緊張して入った居酒屋は名前も知らない路地裏の小さなビルの三階に入っていて、こぢんまりとした空間の中に温かい空気が漂っている。進藤さんは店主と顔見知りらしくて、気さくに会話しながらも、余計な詮索や口出しをさせようとしない様子は、進藤さんがいかに上手に銀座という街で人付き合いをこなしているのかを表していた。
 会話も弾み、今までしてこなかった趣味や恋愛の話もして、お互いに楽しい時間を共有できていたはずなのだ。途中までは。ハイボールを三杯おかわりしたところで、進藤さんは突然神妙な顔を作り、胸の前で腕を組んで、話題を変えた。
「実は、今日呼び出したのは理由があってさ」
 そんな切り出しから始まった話はすべて、私の予想通りのことだった。
 年始に紹介してくれた広告の仕事が全てぼつになったこと、これからしばらく写真を撮る仕事は頼めないということ。それでも撮影が終わった仕事に関しては瀬島のギャラは変わらない、と付け加えてくれたけれど、それは私にとってはどうでもいいことだった。
 仕事ができなくなって、過去に撮った写真も使えなくなってしまった今、私には一体何が残るんだろうか。ある程度予想はできていたはずなのに、わかりました、の言葉が喉につっかえて出て来なかった。顔が曇っていく私を慰めるように、進藤さんは言った。
「瀬島の写真、落ち着いたらまた使いたいと思ってるよ。今は難しいけど、また機会があったらお願いしてもいいかな」
 無理でーす。
 私、実は写真撮れなくなっちゃったんです。
 だなんて、言えるはずもない。至って個人的な理由で仕事を断れるほど、私は有名でも、お金に困っていないわけでもない。写真だって、きっといつかは撮れるようになる。それに、仕事がなければ、私と進藤さんの間には何のつながりもなくなってしまう。けれど、その「いつか」がいつなのかは、私にも分からないのだ。言葉を濁したまま、にこりと笑って頷くと、進藤さんは安心したように腕を解いて、お酒を飲み始めた。
 ねぇ進藤さん。進藤さんは、私の写真のどこを気に入ってくれたんですか。
 写真を撮れない私って、生きてる価値ありますか。
 そんな質問はハイボールと一緒に飲み込んでしまえば、あぶくになって私の胃のなかで、音もなく溶けていった。

 流石に化粧は落としたい。ファンデーションを塗ったのは久々だから、顔の表面がぱりぱりに乾いていて、目を閉じると掻き毟りたくなる。こんなときのためにクレンジングシートが入っていることを思い出し、重たい体を無理やり起こしてベッドの横の引き出しを開けた。マスカラが張り付いて固まった目をシートで強く擦り、ゴミ箱に投げ捨ててから、もういちど引き出しを開ける。秩序なくしまわれたクレンジングシートや文房具の下には、いくつかのファイルが無造作に積まれていた。
 一番上のファイルには仕事の契約書だの領収書だのが入っていて、二番目には買い揃えた家具の保証書、三番目にはアパートの契約書が挟まっている。そしてその下に眠っているファイルには、今まで撮ってきた写真の中から、よりすぐったものだけがまとまって入っていた。うまくいかない日が続いたら、これを見返す。それは、私が東京に来て六年間カメラマンをやっている中で身につけた処世術のひとつだった。
 仕事の写真は一枚だけしか入れてない。今の会社に入ってから初めて撮った写真で、あとはすべて、学生時代に趣味で撮ったものだった。どきどきと胸を高鳴らせながら撮影した初めての「お客様」は、私の写真を見た瞬間に目を輝かせ、「お人形さんみたい」と褒めてくれた。本当は加工が重ねられた写真に対するイヤミだったのかもしれないけれど、それまで誰からも写真を褒めてもらったことのなかった私は、それが無性に嬉しかった。ページをめくる。高校の帰り道に撮った夕焼け、雨に濡れた道路、夏の日差しを遮る木々、まだ小さかった頃の妹の写真。それから、昔飼っていた猫の写真。
 生きていたころの写真は、一枚もない。どれも冷たくなったあとの、動かない横顔を映し出している。猫が亡くなった日、家族が寝静まった後にこっそりと、おばあちゃんからもらったポラロイドカメラを取り出し、そのレンズを猫に向けた。閉じ切った冷たい目をアップして、何度もシャッターを切った。亡くなるときに一緒にいてやれなかったことを、生きているあいだに愛情を向けてやれなかったことを、心の中で何度も詫びながら。そんなことをしても猫が息を吹き返すわけではなかったけれど、形に残してしまえば、私の中の何かが許されるような気がしていた。
 下手くそで、みにくい写真だ。蛍光灯が眩しすぎるせいで肝心な猫の顔がぼやけていて、ティッシュだの電源コードなど、背景に余計なものが映り込んでいる。
 けれども私は、二十年近く経った今も、この写真だけは、どうしても捨てることができなかった。二月に入ってからも、私はこの写真を何度か見返している。
 閉じられた猫の瞳がつい開いたとき、そこには、何も変わることができなかった惨めな私の顔が映っているのだろう。
 誰もいない部屋の中で、ふん、と誰かが鼻を鳴らして笑う声が、聞こえたような気がした。

 おばあちゃんがポラロイドカメラを買ってくれた日、私はまだ小学校に上がったばかりで、妹が生まれる前の誰もいない子供部屋で、足を広げて眠っていた。目を覚ますと、ピンク色のリボンに包まれた袋が枕の横に置いてあり、その中に入っている黒い物体がなんなのかがすぐには分からず、適当にいじっていると、ぱしゃりと音が鳴って、レンズの下から間抜けな私の顔の写真が吐き出されてきた。それが、私が生まれて初めて撮った、誰かの写真だった。
 その日から、私は目に見えるものを全て写真に収めるようになった。両親の寝顔、公園の地面を這う蟻、月曜日の夕焼け、妹が生まれてからも、それは変わることはなかった。私たちは家族で旅行をしたことはなかったけれど、妹と初めて近くの公園に遊びに行った日も、妹が幼稚園に入園した日も、いつも、どこにいても、写真を撮るのは私の仕事だった。それが、私にとっての日常だった。
 妹が中学校に入学した日も、私は妹の写真を撮るためだけに新幹線に乗り、実家に向かっていた。桜が舞う中学校の校門の前で、妹はずっと、私が東京でバイト代を貯めて買った一眼レフを物珍しそうに眺めていた。
「触ってもいい?」
「あ、だめだめ、これ高いんだから。あんたが触ったら壊れる」
「いいじゃん、ケチ。私カメラって持ったことないのに」
「ダメ、もう少し大きくなってから。あんたの腕の力だったら落としちゃうかも知んないでしょ」
「今だってもう中学生なんだよ。これ以上大きくならないかもしれないのに」
「そういうこと言わないの。はやくあっち行って。撮るから」
 はらはらとした顔で見守っていた両親を呼び、妹を中央にして三人を校門の前に並べる。両親に挟まれた妹は、怪訝な顔で私に尋ねた。
「お姉ちゃんは? 写らなくていいの?」
「なに、今更。私は三人の笑顔が撮れたらそれでいーの」
 そう言ってシャッターを切ろうとしたのに、カメラを向けられた妹は眉を潜め、口を結んでレンズをじっと睨んでいた。
「笑ってよ」
「笑ってるよ」
「そういうのいいって。反抗期?」
 母親も、笑いなさい、と妹に声をかけたけれど、妹がその表情を変えることはなかった。
「なんで。この顔じゃダメなの?」
「ダメじゃないけど、笑ってるほうが可愛いじゃん」
「じゃあもういいよ、撮らなくて」
 妹は拗ねたように顔をぷいと横に背け、両親から体を離した。本当に反抗期だろうか。それとも生理? 私が実家に帰ってないから知らないだけで、こういうことはよくあるのだろうか。両親は困った顔を見せるだけで、特に何も言おうとはしてこない。
 途方に暮れていた私のもとに歩いてきた妹は、親に聞こえないような小さな声で、ささやくように、私に聞いた。
「お姉ちゃんは、なんで私の写真撮りたがるの」
「なんでって、そりゃ思い出づくりのためでしょ」
「そういうのってなんのため?私の思い出なんて残してなんになるの。いつか思い返したって辛いだけじゃん。それとも、あぁこんな幸せな時期もあったねぇって言ってそれで満足するの?なにそれ。超むなしいし、悲しいよ。」
「何言ってるのよ」
 宥めたつもりだったけれど、妹はぐっと口を固く結んだまま、俯けた顔を上げようとはしなかった。何か言おうにも、言葉が出てこない。確かに、実家に積み重ねられたアルバムには、私が撮った妹の写真が何枚も収められている。全部、可愛い妹を永遠に残したいという私の願いだったけれど、妹にとってはそれはただの姉の自己満足で、余計なお節介だったのかもしれない。妹のふくれっつらを見ているとそんな申し訳ない気持ちが湧き上がってきて、それ以上妹を説得するのは残酷なことにさえ思えていた。
「じゃあさ、あんたが写真撮ってみなよ」
 そう言うと、妹は少しだけ口角を上げて、私の顔を見上げた。
「いいの?」
「あんたまだカメラ使ったことないんでしょ。私のカメラ貸してあげるから、私とお母さんたちの写真、代わりに撮ってみなよ。そしたら分かるよ。私がなんで人の写真撮りたいと思うのか」
 妹は一瞬戸惑った顔をしたが、私がカメラを渡すと、言われるがままにそれを受け取り、不思議そうにくるくるとカメラを回して見つめ始めた。私は簡潔にカメラの使い方を教え、両親の間に立つ。
「なにこれ、誰の入学式なのかわかんない」
 妹はぼそりとそう呟いて、カメラを構えた。
「いいから。その代わり後であんたも撮るよ」
「あとでね」
 妹は意味ありげに笑みを浮かべ、私の物真似のつもりなのか、少し肩を入れてカメラを仰々しく握ってから、きっぱりとした口調で叫んだ。
「撮るよ! 笑ってー。」
 私が笑顔を作り終わる前に、ぱしゃり、と音が鳴る。
 カメラから目を離した妹の顔には、にんまりと満面の笑みが浮かんでいた。ああ、そういう顔。
 なんでその顔で、写ろうとはしてくれないのよ。
 そう言いかけて、口を閉ざした。私の隣では、母親が安心したように妹の笑顔を見つめている。代わりに、「はやくあんたも撮るよ」と言って、妹に近づいた。妹からカメラを受け取ろうとしたとき、妹の腕がふいに震えて、カメラを握っていた手が開いた。それが妙にわざとらしかったのを、私は見逃さなかった。
 桜の敷き詰まった石造りの地面に、私の一眼レフが、真っ逆さまに落ちていった。

  
「これ、やっぱりひどい顔してるよね」
 パソコンの前に座って仕事をしていた私の隣で、勝手に私の一眼レフをいじっていた妹が笑いながら言った。そこには、あの日、両親に挟まれて顔をしかめることしかできなかった私の顔が、はっきりと写り込んでいた。
 妹がカメラを落とした日、私のカメラは一時的に再起不能になり、東京に帰ってすぐに修理してもらったからなんとか中のデータは無事に復活し、本体も息を吹き返すことはできたけれど、傷がついたレンズにかかった修理代は親に借りないと支払うことができなかったし、結局、妹の入学式の様子も、写真に収めることはできなかった。
 モニターを横目に覗きながら、私は言った。
「撮られるのって慣れてないんだよね。私は撮る専門」
「あんだけ人には笑え笑えって言うくせに」
「写真撮るときに相手を笑わせるのもプロの仕事なのよ」
「じゃあ私はまだまだだったってことー?」
 そう言って妹はもう一度、カメラのモニターに映っている私の顔を指でさした。妹が言った通り、確かにひどい顔だ。笑っているつもりなんだろうけれどその口元は引きつっていて、カメラを意識しすぎたせいか、私の目は日本史の教科書に載っていた鬼の絵のように大きく見開かれていた。
「そんだけ撮るのって難しいの。あんたもカメラ落として分かったでしょ」
「へへ、ごめんね」
 舌を出して謝った妹はカメラを机の上に置いてソファに寝転がり、今度はどこから取り出したのか、いつの間にか本を読み始めていた。自己中心で、マイペース。そういう奔放さが憎めないから、私は今でも、あのときの妹を責めることもできないままでいる。今は仕事に集中しよう。手を動かそうとした瞬間、妹はまた、それを遮るようにぼそりと呟いた。
「そういえばさ、今年はもう桜が咲いてるみたいだよ」
「そうだっけ」
 マウスを動かす手が止まった。とぼけたように言ってはみたものの、スーパーの帰りに通った公園を思い出す。昼間のミーティングに間に合うよう急いで家に向かったからあまり覚えていないけれど、確かにまだ三月の半ばとは思えないほど暖かい風が吹いていて、路上は淡い桃色に染まっていた。
「写真家なのに、そんなことにも気配ってないの」
 妹が何気なく言った言葉が刺さって、体を乗り上げて妹に言い返した。
「そもそも今年は誰も見ないでしょ。花見なんてできる感じじゃないじゃん」
 吐き捨てるような口調になってしまった。妹はうぅんと顔をしかめ、本を膝の上に置いてから、強い口調で主張した。
「桜がかわいそうじゃんか。せっかく咲いてるのに見てもらえないなんて」
「うわでた、そういうこと言う人いちばん嫌い」
「えぇ、なんでぇ」
 頬を膨らまして、本の向こうから見つめてくる。
「だってそういうのこそ、人間のエゴだと思うんだよね。よく考えてよ。桜は別に人間に見てもらうために咲いてるわけじゃないのよ。受粉のため、子孫繁栄のために咲いてるの。それを人間が見れないからかわいそうだなんて、自己中すぎると思うの」
「ううん、そう言われたらそうだけど」
 納得がいかない、というように口をへの字に曲げ、窓の外に視線を送った。横を向くと長いまつ毛が際立って見える。このアングルならきっと良い写真が撮れそうだ、なんて少し考えてみる。
 妹は目を下に向けたまま、ぼそりと呟いた。
「でもやっぱり、誰にも見られないままいつの間にか散っていくのって、なんだか寂しいような気がするんだよね」
 妹の目線の先には狭い道路が続いていて、傍にはずっと灰色のビルが並んでいる。実家では、春になると毎年、窓の外に満開の桜が咲いているのを見ることができた。このあたりで桜が見える場所といえば、このビル街のもっとずっと向こうになるはずだ。
「見にいく?」
 そう聞くと、妹は嬉しそうに振り返った。
「このへんにあるの?」
「多分。ちょっと歩かなきゃだめだし、地元ほどわんさか咲いてはいないと思うけど」
「あり」
「このレタッチ終わってからになるけど」
「じゃあ私もこれ読んで待ってる」
 そう言って顔の前に掲げた本は、私が実家にいた頃から妹がずっと読んでいた詩集だった。
「それ、何度も読んでるじゃん」
「何度でも読めるの」
「あ、そ。じゃあさっさと仕事終わらせちゃうね」
「ありがと」
 にんまりと妹が笑ったので、私はパソコンに目を向けた。とはいえ、一度切れてしまった集中を再び戻すのは難しい。なんとなく仕事に腰が入らないまま、私はもういちど妹に声をかけた。
「それ、どんな内容なの」
「この本?」
 読書を妨害された妹はめんどくさそうに聞き返した。
「うん、それ」
「うーん、暗いから、お姉ちゃんは読まなくていいよ」
「えぇ、いじわる」
「ふふ」
 今まで題名くらいしか見ようとしなかったのに、そんなことを言われてしまうとかえって気になってしまう。ちらちらとその本の中を覗こうとしていると、それを感じ取ったらしく、ページをめくりながら質問を投げかけてきた。
「お姉ちゃんさ、さっき桜をかわいそうなんて言うのは人間のエゴだって言ってたけど、それが人間だったらどう思う?」
「どういうこと?」
「この詩集ね、作者さんが、亡くなった旦那さんのことをずっと思い続けて書いてる本なの。こんだけ分厚いのに、ぜぇんぶ旦那さんに対するラブを綴った詩。そういうのもさ、自己満足だと思う?」
「えぇ、そういうのは純粋なラブなんじゃないの。だって夫婦だったんでしょ」
「でもさ、旦那さんが自分のことどう思ってるのかなんて何もわかんないんだよ。だって死んじゃってるんだもん。ほんとうはさっさと死んでやるーって思って死んで、俺のことなんて忘れてくれーって願ってたかもしれないのに、こうやって何十年にもわたって知らないような人に読まれるようなものとして、残っちゃうの。それってさ、桜が見たい人のエゴとどう違うと思う?」
 そう言われると、言葉に詰まった。
「でもそんな風に詩が書けるってことは、ある程度生きてるときから仲良くて気持ちが通じ合ってたんじゃないの」
「そうなの、結局そこなの。だからさ、私、この作者ってある意味世界で一番幸せだと思うんだ」
「幸せ?」
「うん、そう。だってさ、私があなたのことを一番大好き! あなたも私のことがいちばん大好き! って確信がないと、そんな自己満足も持てないと思うんだ。愛が冷め切ったり、あるいはどっちもよぼよぼの老人になって何の理性もないまま憎みあったりして、お互いの気持ちが読めなくなったときに旦那さんが死んでも、きっとこういう詩は書けないの。そういう、愛が完全に美しいところにあるときに訪れた別れって、きっと永遠とかそういうものにつながるんじゃないかなぁって思って」
 淡々と話す妹の顔はきらきらとしていて、なぜか今にもすぅっと消えそうだと、私は思った。妹と目があったから、私は思わず顔をパソコンに向けた。
「あんたは、残された人が幸せだと思うの?」
「うん、そう思う」
「じゃあ、大切に思われたまま亡くなった人は、幸せ?」
「こんなふうに覚えてくれてる限りは、幸せなんじゃないかなぁ。」
 もういちど、妹を見つめてみる。濁りのない目がまっすぐに私を捉えていた。
 そういう目が、私はずっと、好きだった。
「よし、やめた!」
 自分のほっぺをぴしゃんと叩いてから立ち上がると、妹は驚いて顔を上げた。
「仕事はいいの?」
「残りは夜にやる! どうせちょっとサボったくらいじゃばれないし、日が暮れる前に桜見にいこ」
「わかった。私もじゃあ続きは帰ってから読むね」
 妹は満面の笑みを顔に浮かべてから、本を机の上に置いた。あぁそういうところ! それを本棚に戻すと、申し訳なさそうに舌を出して見せてくる。
「ほんとに、あんたが来てから部屋荒れっぱなしなんだから」
「それってほんとに私のせい?」
 苦笑いを顔に浮かべてから、妹はソファから立ち上がった。私はクローゼットから小さい肩掛け鞄を取り出して、財布と携帯電話、それから、机の上に置かれた一眼レフを詰め込んだ。仕事用ではないけれど、カメラを手にするのはもう二ヶ月ぶりになる。
 撮ろう。たとえ手が震えても、シャッターボタンを押すことができなくても。たとえ、妹に合わせたはずのピントが合わなくても。
 撮らなきゃ。
 今日は、そんな気がしていた。

 妹が生まれた日も、窓の外には満開の桜が咲いていた。猫が死んでから五ヶ月の月日が経っていて、おばあちゃんも父親もずっと浮かない顔をしていたけれど、予定日が近づくにつれて徐々にみんな猫のことなど忘れ、新しい家族の誕生を待ち望むようになっていた。その日は、私は学校で授業を受けていて、家のドアを開けた瞬間に、私を待ち構えていたおばあちゃんが、すぐに病院いくよ、と声をかけた。うまれて初めて乗ったタクシーの後部座席で、私はずっとそわそわとした気持ちを抑えきれず、窓の外をきょろきょろと見渡してみたり、おばあちゃんにやたらと話しかけたりしていたのを覚えている。
 病院に着くと父親はすでに分娩室の前に座っていて、私を見ると嬉しそうに右手を頭の横に挙げた。おとうさん仕事抜けてきちゃったよ、と笑ったその顔は呑気で、柔らかくて、とても幸せそうだった。けれど、橙色だった空がいつのまにか深い紺色に変わり、絵具で塗ったような空にちらちらと星が見え始めても、分娩室の中から、産声が聞こえてくることはなかった。
 のんびりと笑っていた父親の顔はだんだんと強張りはじめ、手をぎゅっと組んで、おでこに当てている。私が眠たいのを我慢して目を擦っていると、白衣を着た医者が出てきて、私たちの前で立ち止まった。焦っているようだったけれど、喉に言葉がつっかえるようにじっと、私たちを見下ろしている。
 無事にうまれたんですか、と医者よりも先に父親が声を出した。医者は表情一つ変えないまま、うまれましたよ、と告げた。けれど、そう言ってから、医者は申し訳なさそうに俯いた。父親の顔が、さぁ、と青ざめていくのが分かった。そこからの父親と医者の会話は難しい言葉が飛び交っていて、今は覚えていない。けれど、結局その日は母親とも妹とも会えないまま私とおばあちゃんだけが先に帰ることになって、そのあいだも、父親の表情が晴れることはなかった。
 センテンセイのシンシッカンがあるらしいよ。
 十日ほど経ってから、おばあちゃんがぽつりと呟くように教えてくれた。おばあちゃんの言葉の意味がわからず、何それ、と聞き返すと、おばあちゃんは私の肩に手をかけてゆっくりと喋り出した。
 生まれてすぐに産声を上げなかった妹は、当分の間入院することになったから、私たちとはしばらくは会えないということ、検査の中で、妹が生まれる前から心臓が人より弱いことがわかったということ、これから手術が必要になるということ。手術が成功しても、人より体が弱いから、ずっと薬を飲んだり病院に通いながら生活しなくてはいけないこと、そうやってずっと治療を続けても、十年以上生きられる可能性は他の人よりうんと低いということ、母親は働いているから、これからはおばあちゃんがつきっきりで二人の世話をしないといけないこと。
 おばあちゃんは私にわかるように、難しくない言葉を選びながらゆっくりと、喋ってくれた。言っていることは理解できたけれど、それを言われたところで自分がどうしたらいいのかなんて私には分からなかった。
 そうなんだ、とだけ呟くと、おばあちゃんは私の頭をそっと撫でた。それもまた、私にとって、生まれて初めてのことだった。
 


 いつの間に寝ていたのか思い出せない。窓から差し込んだ太陽の光が眩しくて目を開けると、ソファで寝ていたからか、首から左腕にかけてがぎしぎしと痛んでいた。部屋を見渡す。
 雑多な部屋だった。床には服が散らばっていて、食べかけのカップ焼きそばが机の上で異臭を放っている。そのうち磨こうと思っていた本棚の上には、埃が溜まっていた。左肩を押さえながら体を起こし、キッチンと風呂場を見渡したけれど、どこにも、誰もいなかった。こんなことはよくあることだけれど、なんとなく胸がざわざわとして、妹の名前を呼んだ。どこからも返事は聞こえてこない。
 九時からミーティングがあるからパソコンを起動しないといけないのに、頭がぼーっとして椅子に座るのも困難だ。タバコだけは吸いたくてなんとか玄関に向かったけれど、駅前の喫煙所が昨日閉鎖されていたことを思い起こし、仕方なく換気扇の前に立って、冷え切った指先に挟まったタバコに火をつけた。家の中で吸って良いのに、と笑っていた妹の顔をなんとなく思い起こす。最近は閉鎖された喫煙所の前でタバコを吸うようなサラリーマンや大学生が増えて、なんとなく喫煙者に対する風当たりも強くなっているけれど、妹が私の喫煙について何かを言ってきたことは一度もなかった。
「帰ってきてよ」
 ぼそりと呟いてみると、一気に胸に穴が空いたような虚しさが襲ってきた。写真を撮れないまま、このまま妹を失ってしまったら、私には一体何が残るんだろう。
「なに言ってんの」
 背中の後ろから声が聞こえた。慌ててタバコの火を消し振り返ると、腕を組んで立っている妹がそこにいた。
「消えちゃったかと思った」
「やだな、そんなすぐにはいなくなんないよ」
 そう言って顔をしかめた妹の顔は今にも空気に溶けそうなくらい儚くて、妹の体に抱きつくと私の腕は妹の背中を通り抜けて冷たい空気だけが体を包んだ。
「お願い、もう少しだけここにいて」
「『もう少し』だけね」
 顔の横で妹がそう呟く声が、確かに聞こえている。
「でもさ、お姉ちゃん」
 私の体をゆっくりと引き剥がすように押さえながら、妹は言った。
「なに?」
「そろそろさ、撮った方がいいんじゃないの」
 柔らかくて落ち着いた、ひんやりと冷たい声だった。
 うなずけないままでいる私に向かってにやりと笑う顔を見せてから、妹は私の前から見えなくなった。


 何もかも、おばあちゃんの言う通りにはならなかった。
 出産から一ヶ月後に行われた手術は特に問題もないまま成功し、妹は、何事もなかったのように私たちの家にやってきた。真っ白で柔らかい妹の頬をおばあちゃんは何度もつついていて、妹がうっとうしそうに顔をすぼめるたびに、両親はそれを見て目を細めた。
「ゆめ」
 妹を両手に抱きかかえながら、母は妹をそう呼んだ。
「なんでゆめ なの」
 母の隣に座り、腕に抱かれた赤ん坊の顔をじっと見てから私は聞いた。
「ゆめ。私にとっては、いてくれるだけで奇跡みたいな存在だから。ずっと夢を与え続けてくれるような子になってほしいと思って、ゆめ。ちょっと派手すぎるかなぁ」
「いいんじゃない」
 ぬるい声で生返事を返しながら、残酷な名前だ、と私は思った。妹は現実に存在しているのに、ゆめなんて名前をつけられたら、一瞬で消えて、誰からも忘れ去られてしまいそうだ。そんなことを考えていたけれど、目を細めて愛おしそうに妹を抱きしめる母親の横顔を見ていると、それを口に出すことはできなかった。
 母は、妹の世話のために会社をやめた。大声で泣いたら発作を起こす可能性があるからと、毎晩寝ることもなく妹につきっきりになる生活が始まり、私も友達と遊ぶのはやめて、毎日家事を手伝うようになった。ヒステリックだったはずのおばあちゃんは、妹の欲しがるものならなんでも買い与えたし、一切、妹に対して声を荒げるようなことはしなかった。
 誰もが妹を愛していて、誰もが妹を腫れ物のように扱っていた。そんな甲斐甲斐しい努力のおかげか、妹はおばあちゃんの予言に反して周りと遜色なく元気に育ったし、少し病院にいく回数は同級生の友達よりは多かったけれど、激しい運動さえしなければ至って普通に、元気に、毎日の生活を積み重ねて、中学も高校も卒業することができた。けれど私だけは、素直に、同じように妹を愛してあげることなんてできなかった。妹を可愛いと思っていたけれど、同時に、妹をまっすぐに見つめてやることが怖くて、そんなことを考えてしまう自分が嫌で、逃げるように東京に出てきた。そうしている間に私はすっかり大人になり、妹のことなんてほとんど思い出すこともないまま東京で写真を撮り続けていて、妹はその間に大学生になった。このまま何も変わらない日常が続くように思っていた。

 でも、東京に来てから十年経った今年の二月、私たちの生活は何もかもが変わった。朝、スタジオでウエディングドレスのカタログの撮影があるからと早めに会社に向かっていた日、電車の中で私の携帯電話が鳴った。電車を降りてすぐに電話に出ると、切羽詰まった母親の声が、スピーカーの向こうから響いた。
 夜中に、突然の心臓発作が起きたらしい。妹は、誰も見ていない時間に、誰もいない自分の部屋で、誰も知らない間に、ひっそりと、死んだ。駅のホームには凍りそうなほど冷たい風が吹いていて、泣きじゃくる母親を宥めるように、私は落ち着いた声で呟いた。
「大丈夫だよ」
 携帯を切り、改札を抜け、会社に向かって歩みを早める。
 渋谷駅は人が多い。スマホに没頭したまま歩く若い男、人混みを書き分け歩行者通路を横行する自転車、それを大袈裟に避けてイヤミを垂れる中年の女、そんなことには目もくれず、手を繋いで横に広がって歩くカップル。いままでそんな人たちに気を配ったことなんて一度もなかったのに、今日はやけに、人の輪郭がくっきりと浮かび上がって見える。全部、私には関係ないことで、全部、私にとってはどうでもいいことだった。
 会社に到着するとすでにモデルの女性は準備が整った状態で待っていて、慌てて私は機材を呼び起こし、三脚を組み立てた。私の頭は驚くほど冷静で、母親の話は脳の片隅に追いやられたまま、頭はすっかり仕事モードに切り替わっていた。けれど、カメラを握ったとき、それは突然訪れた。
 手が震えて、シャッターボタンを押すことができない。
 異変に気付いた蒲田はすかさず私のもとに来て何してるんだ、と声をかけた。けれどそれから、蒲田に何度詰られても、何度カメラを構え直しても、私のカメラは、女性の顔を収めることはなかった。その日は他のスタッフに代わってもらい、私は蒲田に渡された水を右手に持ってスタジオの隅にうずくまった。
 事情を聞きにきたユキちゃんが躍起になって慰めてくれる間も、私の手の震えが治ることはなかった。
 それから一週間後のことだ。なんてことのない顔をしてソファに座り、私の帰りを待つ妹の姿が、見えるようになったのは。

 分かっていたつもりでも、これが渋谷なのか、と小さな声が漏れた。青信号になったとたんにゾンビのように人並みが動き出していたスクランブル交差点には、出勤ラッシュを過ぎたお昼時とはいえ片手で数えられるくらいの人しかいなくて、食べ残しにありつけずやつれた鳩だけが何羽もコンクリートの上に蹲っているのが妙に不気味だ。一年ぶりに着たスプリングコートの襟を立て、歩みを早めた。今日は一ヶ月ぶりに、職場に向かう。
 四月になり、例年より早く桜が散ってしまった日の朝に、私は蒲田にメールを送った。
「蒲田さん。写真、撮らせてください」
 否定的な言葉が送られてくるかとも思っていたけれど、一時間も経たないうちに、蒲田からは簡潔な返事が送られてきた。
「わかった。」
 これだけか、と拍子抜けし、携帯を閉じようとすると、もう一度、携帯がぴろんと通知音を立てた。蒲田からの追伸だった。
「急に復帰したところで何があるか分からんから、一回練習しにこい」
「練習って何ですか」
 すかさず返事を送る。
「日曜日の十二時、空いてたらスタジオ来て。」
 それだけだった。わかりました、と返事を送り、携帯を閉じる。もう、蒲田からの通知音が響くことはなかった。

 スタジオのあるビルに到着すると、扉の前で仁王立ちしていた蒲田が私を見て右手を小さく頭の上にあげた。軽く頭を下げて蒲田に尋ねる。
「なにするんですか」
「いいから入れ」
 扉を開ける。こんな風に会社に入ったのは初めての出社日以来だ。スタジオの中にはもう二人の人間が、椅子に座って待っていた。ひとりはメイクのユキちゃんで、もうひとりは、知らない女性だった。黄色いワンピースを着た女性は、私を見るなり立ち上がって頭を下げた。若くて綺麗な人だった。
「お前にこいつを撮ってもらいたいんだよ」
 私の横に進み出てきて、蒲田が言った。
「失礼ですけど、どちら様ですか」
「俺の娘。今年でハタチだから、お前の妹と同じくらいか」
 蒲田がそう紹介すると、女性は「美月です」と自己紹介をしてからにこりと微笑んだ。思わず手が震えだしたので、それを蒲田に悟られないように背中の後ろで腕を組んでから、無理矢理おどけた声を作った。
「似てないですね」
「だからモデルにはちょうど良いの。まぁ今のご時世だし、身内じゃなきゃ頼めないってのもあるけどさ。ちゃんと換気はしてあるよ」
 そう言って蒲田は、わざとらしく開放してあるスタジオの窓を指差した。
「娘さんを練習台にしていいんですか」
「うちの娘、女優目指しててさ、オーディションに送るのにちょうど良いかなって。ちゃんと撮れたら給与はちゃんと出すよ」
「えぇ、責任重大」
「頑張ってくれよ」
 背中をぽんと叩いた。
 美月さんの方に向き直る。蒲田には悪いけれど、華があるような顔ではない。パーツは整っていても切れ長の一重が顔の印象を薄くさせていて、写真映えはしなさそうな平凡な顔だ。でも、濁りのない純粋な目は私を吸い込みそうで、背中に当てた指先がじんじんと痺れていくのがわかった。立ちすくんだままでいる私に、蒲田は念を押すように、もう一度声をかけた。
「仕事だと思わなくて良いから」
 頭の中にいろいろな言い訳が思い浮かんだ。今すぐ帰りたいと言えば蒲田は帰してくれるだろうし、写真以外にも私がやれる仕事はたくさんある。けれど、私が最後に一眼レフを手にした日から、もう二ヶ月以上の時間が経過していた。
 いつかユキちゃんが言っていたとおり、たまたまこんな時期じゃなかったら、周りにもっと大きな迷惑をかけていたんだろうということも、わかる。
 撮らなきゃいけない。きっと、撮れる。
「わかりました」
 マスクの中で、かすれた私の声が響いた。

 美月さん、は、私が三脚を組み立てている間、椅子に座ったままじっと動かずに、その様子を眺めていた。なるべく目を合わせないように素早く組み立てようとすると、余計に手が変な方向に動いて機材がぶれる。
 口角は上がっていたけれどその顔は石のように固まって見えた。緊張しているのか、あるいは、私の緊張が伝わっているのか。場の空気を和らげるために、当たり障りのない話題を投げてみる。
「みずきさん、普段は何してるんですか」
「えっと、大学生です」
「じゃあ大学通いながら女優目指してるの?」
「そうです!」
「大変じゃない?」
「うーん、でも最近は授業もないしそんな大変って感じでもないです」
「やっぱり授業はリモートなの?」
「はい、もうずっと大学行ってなくてつまんないですよ」
「そうだよねぇ」
 きっともう何十回としてきた会話なのだろう。用意されたようにてきぱきと答えられるとどう会話を広げて良いかわからないし、そんな質問しか投げかけられない自分も虚しい。今までの私は、お客さんとどんな会話をしていたんだろう。
 会話を早々に諦めて、アンブレラの位置の調整に集中する。
 準備が整った。美月さんの顔にピントを合わせると、レンズをまっすぐに見つめる美月さんとファインダー越しに目があった。ぶわっと鳥肌がたって、思わず顔を逸らす。美月さんは表情ひとつ変えず、そんな私とカメラを見つめていた。
「少し、体ごと横向いてもらって良いですか」
 窓の方を指差すと、美月さんは目線を少し下げて体を傾けた。正面からだと分からなかったけれど、まつげが長くて鼻が高い。窓からは微かに風が吹いていて、揺れる黒髪の下にぼんやりと浮き出る輪郭が綺麗だ。
 カメラを持ち上げて美月さんにぎゅっと近づけてみた。心臓だけがばくばくと音を立てる中、私の頭は冷や水を浴びたように冴えていて、風以外の音は何も聞こえない。
 この写真を撮ってしまったらもう、妹は私の前に姿を現さなくなるのかもしれない。そんな予感に抱きかかえられるように、私の腕は震えることなく据えられていて、レンズはじっと女性の顔を捉えていた。
「そのまま、顔だけこっち向けてみて」
 女性は少し恥ずかしそうにはにかんでから、茶色い瞳を上げ、カメラの方に、顔を向けた。

 公園通りに咲いた桜は満開だった。芝生は零れ桜に埋れていて、沈みかけている夕陽が春風を淡い紅色に染めている。私の前を駆け出すように早足で歩いていた妹が、ふと立ち止まり、眩しそうに桜を見上げながらぼそりと呟いた。
「ねえお姉ちゃん、私の写真撮ってよ」
「やだよ、あんたの写真は撮りたくない」
「なんでぇ」
 妹はつまらなさそうに頬を膨らませた。
 なんでって。妹はときどき、私が答えたくない質問をわざと投げかけてくることがあった。それが天然なのかわざとなのか、私は今も、ずっと分からないでいる。けれど、避けて通れない話題が星の数ほどあるのと同じくらい、避けて通っていては何も変われない事実もまた、私の人生の至るところに散らばっていた。
 鞄の中からカメラを取り出す。手の中にすっぽりとおさまったそれに目を下ろしながら、私は小さく呟いた。
「だってあんた、撮っても写らないんでしょ」
「写らなくても、そこにいるからいいの」
「なにそれ、ばかみたい」
「ばかだよ」
 妹はけらけらと声を立てて笑った。花びらが顔にかかって霞んでいる。遠くから五時を知らせる鐘の音が響いていて、公園の広場で子供たちがはしゃぐ声はいつの間にか聞こえなくなっていた。
「ゆめ」
 なに、と振り返った瞬間、シャッターを切った。
 妹は一瞬驚いたように目を見開き、それからぎゅっと眉毛を下げて、顔をうつむけた。まぶしくて、寂しい顔だった。
「もうちょっと笑ってよ」
「笑ってるよ」
「固いよ」
「笑わせてみてよ」
 カメラを強く握る。生ぬるく緩い風が吹いて、どこからともなく夕飯を作る香りが漂ってくる。この笑い声はどこの家から聞こえてくるんだろうか。私たちは、いつもどんな話をしていたんだろうか。
 私たちが最後に話したのは、いつだったんだろうか。
 さっき部屋の中で確かにしていた会話が、ふと頭の中をよぎった。まだ私には、聞きたいことがある。シャッターボタンに指を当て、ファインダーを覗き込んだまま、私は妹に聞いた。
「ねえ、ゆめ」
「なに?」
「今、幸せ?」
 妹は何も答えなかった。代わりに顔を上げて、レンズをまっすぐに見つめる。ファインダー越しに目が合った妹の顔はにんまりと笑っていて、それは今まで見てきたどの笑顔よりも眩しくて、可愛かった。


オ…オ金……欲シイ……ケテ……助ケテ……