チャーリー・カウフマン スピーチ Part.5 テクニックの危険性
ここでまた、私の好きな言葉を引用します。今回はちょっと長いですが、素晴らしいと思います。ジョン・ガーヴェイという男の言葉です。「私は正しくあるべき必要性が真実の愛とはまったく何の関係もないことを以前にも増して確信しているが、その意味に向き合うことによって、心の奥の苦痛に満ちたむなしさを受け入れることになる。私は今、自分がこうあるべきだと思っている人物ではない。私は心の底で感じていることがわからないが、それを知る必要がある。知恵を得るための第一歩は、この状態から逃げたり、そこから気をそらすことではない。自分の力で手に入れた答えでそれを満たすことが不可欠だ。そのむなしさを心に感じながら、答えを待つ方法を学ぶことは重要である。政治的もしくは宗教的なことへの狂信につながるのは、そのむなしさを満たす欲望だ」
私に対する君たちの反応について考えてみよう。そして、それをさらに一歩進めて考えてみましょう。君たちはどうしてその反応をするのか? どうしてあることに対して決まった反応するのか? 君の反応は欲求とどんな関係があるのか? それにはどんな相互関係があるのか? 私が話していることに対する君の反応は、私が年配者の場合、どう変わるのか? 若者だったら? 女性だったら? 別の人種だったら? イギリス人だったら? それぞれで反応が変わっているなら、そこから君についてどんなことがわかるのか? 君の意見の主観性についてどんなことが言えるのか? 私が私のままでも、異なった振る舞い方をしたらどうなるのか? もし私がもっと自信家だったら、どうなるのか? 自信なさげだったら? もし私がもっと女性らしかったら? 女性らしくなかったら? 酔っ払いだったら? 今にも泣き出しそうだったら?
それぞれの会話から考えられるあらゆる評価や解釈について考えてみましょう。それぞれの場合に君が反応することについてもいろいろと考えてみましょう。そして、それをここにいる全員で掛け算するのです。どのくらいのものが、この部屋の中で発生するのか、そして、それを1つの映画にどうやって練り込むのかを考えるのです。
多数の視点に挑むことで、私たちは従来の手法を投げ捨てて、解決策を見つけ出さざるを得ません。映画というのは出来事や人物を作り上げていく点でとても具体的になりやすいです。心の内面を扱う点で厄介なメディアなのです。ですが、実は最高のメディアだと私は思っています。映画というのは、当然のことですが心の内面を扱っている夢と非常に多くのことを分かち合っています。君たちの脳は、感情を映画に変換するように配線されているのです。
君たちの夢はとてもうまく書かれています。君たちのことを誰も私は知りませんが、そのことはわかります。人は、不安や危機、願望、愛、後悔、罪悪感などを夢の中で美しく深みのある物語に変えるものです。起きている間の生活にはない夢の中で、創造の自由がどうして許されるのでしょうか? 私にはわかりません。ただ、理由の1つとして、夢の中では、私たちは他人の目を気にして制限することはないからだと思います。それは自分自身とのプライベートな会話であり、もしそれが心配であっても、夢の一部でしかありません。もし私たちがこんな風に作品にうまく取り組むことができれば、結果は違っていることでしょう。
そこで、脚本とはなんのか? もしくは、どうあるべきなのか? その疑問を投げかけたのは、私たちは今夜、脚本についてもっぱら話し合っているからです。脚本とは探求です。君たちが知らないことについてなのです。それは計り知れないものへの一歩です。それは必然的にどこからでも始められます。出発点はありますが、それ以外は決まっていません。たとえ君であっても秘密なのです。脚本にはテンプレートはありませんし、あるべきではないのです。最低でも脚本を書く人の数ほどの多くの可能性が脚本にはあります。私たちは騙されて、あらかじめ決められた型があると考えるようになりました。大規模な商売のように、映画のビジネスも大量生産を信じています。そのほうがビジネスモデルと同じように安く、より効率的だからです。
ですが、私は脚本のそういった面は話したくはありません。私が脚本について知っていることは、単に映画で起きることを描写するテキストのことだということです。ですが、私はその定義について定かさえもありません。努力という形によって作家の好奇心を引くものは、自分の力を世界や自分の頭の中や努力の形それ自体を探求するために自由な環境下に自分がいることだと思います。光と感情と時間が融合する驚くほどの可能性について考えてみましょう。私は、テクニックは危険なものだと思っています。先日、とある映画の予告篇を見ました。それがどの映画なのかは言いたくありませんが、もうすぐ公開されるものです。とにかく、それは見事な出来栄えでした……ほんとうに見事でした。ですが、一方で、私はひどく落ち込みもしました。その理由を考えてみました。
その映画のフィルムメイカー側には、驚くほどのテクニックと能力があったと思います。それでも、それは相変わらずくだらないものでした。この映画は大成功すると思いますし、この映画を作った人たちは報われることでしょう。そして、そのサイクルは続いていきます。テクニックの危険性はテクニックが君のしている内容の二の次でなくてはならないところにあると思います。
ですが、それは一番にしてしまうぐらいに魅惑的ではあります。大抵の場合、君たちが行なっていることは意味がなかったり、くだらなかったり、もしくはそれに似たようなものだからです。だからこそ、その分野でとても優秀になることで、頭角を現すことができます。君たちは映画やその他の形態で創造的に何かに取り組む際、進んで裸になるぐらいのことが必要だと思います。それが本当に君たちがやらなくてはならないことなのです。そうでなければ、マーケティングから離れることはかなり難しいからです。それが本質になるんじゃないかと思います。
Part.6に続く
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