きりぎし(短編小説)4/4
(昭和世代 或る夏の夜の夢)
長く生々しい無気味な夢からやっと私は逃れ出た。
我に返ると、川沿いの停留場のベンチへ横になっていた。空も晴れ上がっているし、バスを待つらしい数人の男女も、なごやかな談笑の最中で、そこには田舎特有の大らかな空気が醸されていた。妙齢の女性もいたが、おかまいなしに、私は泥まみれの衣服を着替えると、出発する準備にとりかかった。準備といっても、荷をくくり、ジュースを買って飲んだだけである。バイクにまたがり、すぐに降りた。そうして、のろくさと車を押して歩きだした。
三十分も行かぬところの店に無礼な熊店主がいるかと思ったら、出てきたのは若い無口な男で、バイクをしばらくながめるとおもむろに修理しはじめた。私は事の成り行きを、不明瞭にむにゃむにゃと吐いていた。
説明の中途で、もう彼は工具を片づけるのである。
「できましたよ」
さとすみたいに言う。
「できましたか」
私は惑乱した。
「これいくらで」
代金をたずねたつもりであった。答えは夢より不可解だった。
「なんぼ、でもいい」
意味を問う意味の感嘆詞を
――おや、あ、え、等――三つほど発し、承知し、ズボンのポケットを探って、たまっていた小銭をだしてみたが、十円玉ばかりである。数えたら十八個あった。全財産はこれだけというのじゃない。あとはお札なので。
「こまかいのがないのですが」
「そんならそれおくれ」
百八十円のことであろうか。考えることにした。訊いたら正しかった。
渡すと私はニヤニヤしながら立ち去った。思いがけない他人の厚意にあずかったときに、そうする習わしがあった。私こそがひとの獣にほかならなかった。
例の現場へ急いだ。昨夜(おとといではない)あれほど情けないみじめで滑稽な走り方をしたバイクは、今は悠然と疾駆する。ネジが一、二ヵ所脱落していただけという事実は後にわかった。
晴天の下の林道走行は、原付自転車にしろ快く、涼しかった。腹が、減った。すぐにあの店へ着く。
今日は休業らしく、戸に手をかけても、みしみしいうだけで開かなかった。しかたなく、少し先へ行ったところの旅館の隣にある狭い食堂へ入った。
開けっ放しの玄関の方を向いて玉子丼を食べていたら、かんかん照りの中、上背のある中高生風の少年が、縄で巻いた長短の棒切れをかつぎながらノシノシと、私のいる食堂の前を通りすぎた。
昨日の夕方、彼に会っていた。
それは菓子パンを買った店――さっきも入ろうとした例の店で、そのとき女性はいなくて、ほっぺたの赤い坊主頭の少年が一人、表を向いて突っ立っていた。もがもがと何か声を出し、へんに首を曲げると、困惑したような恥じらうような顔をして、またぐうぐう言うのである。
どのパンでも良かったはずなのに、とくべつの熱心さでもってしゃがんで探している様子を見て、私もつい、これじゃない、それじゃないと声をかけてしまった。よけい時間はかかった。
しっかりした者を置かないと、客にめいわくだし店も不用心じゃないか、といらだちを覚えた。百円玉は一枚しかなかったので、五百円札を出し、渡すと、おつりを受け取らぬまま外へ出た。店の前で立ち食いし、腹がふくれると、いたく熱心な少年のふるまいは、心中から消えかけていた。
出し抜けに顔のはたへ腕が伸びてきたので驚いた。ごつい手に十円玉をたくさんのせて、まっすぐに差し出しているのである(これが先ほどの修理代の全部になった。残りの百円玉はジュース代で)。
ジーパンの前ポケットへ入れるとすぐ、私はその場を離れた。夢中で峠をめざしたのである。
今ふたたび少年を見て、昨夜、とぼとぼ歩いていたもう一人の私は?
違いない、とひらめいた。
「親と、子か」
母の笑みが浮かぶ。
「かの夢の錯乱はどうしたことだろう。自分があいつだというわけか。瞥見しただけのものでも、頭にこびりついてしまうようなおめでたい天分を、俺は持ち合わせているのかも知れない」
地蔵の顔が浮かぶ。
食堂を出てすぐに、祠をはさんだY字の三叉路があったが、おそらく昨日はここで錯誤したらしい。昼中でもわからないほどで、道標もあやふやな指示しかしていない。
と、昨夜通ったほうの道を、大きな木箱をしょった背の低い女がゆっくり降りてきた。
近くまでくると立ち止まり、
「やっぱり行くの」
母親であった。
「伊勢へ行くにはこっちですね」
まだ知らぬほうの道を指したら、
「近そうだけど遠いよ」
と、まなこをぱちくりして言って、歩いていった。たくましい足取りであった。
姿が見えなくなるとすぐ、本道へは行かず、ゆうべの道を登り始めた。
未舗装道路へ入って、がぜん、うら寂しくなった。下半身びしょびしょになりながら、
「が、これも苦難の巡礼にふさわしい。きょうは洗濯する場所を見つけるべきだ」
陥没現場まで来た。胴も頭もなった。けれどすでに新しくロープが頑丈に張られてあった。さらに意外なのは、藪の下が切り岸といってもいいくらいの鋭い高さと、崖くずれのひどさである。
「暗いからわからなかった。俺とあいつはここを登ったのだ。へたしたら死んでいた。いや、もはや死んでいるのかも知れない」
まっさおな天上に、光りかがやく一羽の鳥が、深林を睥睨するように、ゆうゆうと舞っていた。
「まだ、ねぼけている。それは夢じゃないか。みんなでたらめだ。石仏も、板の破片も、疲労が連れ込んだ悪鬼の空言だ。夜道で人間に遭遇したせいもある」
標識も新しいのが立ててあった。太くまっかな文字が目に入った。
『首が落ちて、ありません』
はっきりと、間違った。
『道が落ちて、ありません』
「この声は、仏性そのものではないのか。あんがいな奸策を弄しやがった。昨晩の俺なら、もっと凶悪な言葉を書きなぐったはずだ」
私は急いで踵を返し、そそくさと山を降り、帰路についた。道すがら、あれこれ考えているうち、或る光景が心に鮮明に浮かび、今夜こそは、それにまつわる爽やかな夢のつづきを見たいという欲求が起こってきた。
だがその晩どころか、それ以後もずっと、願いはかなえられなかった。
(了)