アイデンティティーは恥の味
今日はアイデンティティーについての文章を書こうとした。論文のような格式高い文章を書くはずが、結果がこれ。
流れを説明しよう。
第一稿は自分の過去を記し、自分のアイデンティティーに対する解釈の変遷について書こうとした。しかし検閲が入り、掲載が見送られた。理由は当時関わっていた人が不快に思う可能性があると思ったからだ。
ギャ)ほんとは伝えたいんだけど、どうしても言えないことってあるじゃーん♪
第2稿では世の中の人が感じる「腫れ物感」を切り口に、「腫れ物感」をぬぐい去るために獲得したくなるアイデンティティーと「腫れ物感」を丸ごと飲み込むアイデンティティーについて書き進めていた。
ギャ)なんか世の中の人が感じる「腫れ物感」とか、はずくな~い⤴️?
第3稿は、心の検閲官に負けて、1文字も書けず下準備だけしてフィニッシュした。
結果10年近く試行錯誤してみて思ったのはアイデンティティーというのは、細かくミキサーされきっていない野菜ジュースみたいなものだ。
ということ(あぁぁ、はず!)。
調和されていれば気持ちが良いし、食材を1つずつ順番に飲めれば楽しめる。
でもそんな具合に混じってテーブルに出されちゃったのだからしようがない。
ぐいっと飲むか、飲まないか。
作り直しのアイディアは今までの経験や類似商品をもとに自然と浮かぶけれど、もしかしたらそのバランスが一番自分の身体にはフィットするのかもしれない。ある野菜が欠けたら身体はエラーを起こすのかもしれない。
混ぜすぎても混ぜてなさすぎてもダメな気がしてきてて。
ギャ)話なげーなー⤵️さっさと飲めし
あーこわ
今日も最後までお読みいただきありがとうございます。めっちゃくちゃ文句言ってもいいからさ(^-^)
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