靴ひもがほどけていく
皆さん、こんにちは😊律です。
私は発達障害と精神障害をもつ10代です。
こちらの文章を公開させていただいてから、早いもので1年が経過しました。読んでくださった方、いいねやコメントをくださった方、ありがとうございます。全て目を通させていただいております。
あれから、いろいろなことを経験しました。
1年間継続して就労できている作業所、ステップアップしたい思い、思うように動かない体への苛立ちと葛藤。
職員の方の入れ替わりが激しいグループホーム、コロナ禍により影響を受ける支援体制、自室で過ごすことが増えたことによる気楽さともやもや感。
大学の課題に追われたり、仕事の日数を週4日に増やさせていただいたり、月曜日のみですが在宅から通所に切り替わったり、バタバタとした日々を送っていました。
私は今、リハビリ就労をしています。
正直、B就労(福祉作業所での就労訓練)をしていることについて
100%納得できているかと言われれば
納得度は40%くらいです。
どこかでランクをつけてしまっているのかもしれません。
一般就労の正社員が1番上で、その下が・・・というように。
納得していなくても続けているのは、「続けてみないことにはわからない」と言い聞かせる自分がいるからだと思っています。
ありがたいことに
私の周りでは
いろいろな人に相談できる環境が整っており、
特性に対して理解を示してくださる方も複数います。
そのなかで、私が信頼を置いている支援者さんから教わったことがあります。
それは、
・前の仕事で年下の子に最低でも3年続けなさいと教えていたこと
・3日続けば、1か月続く。3か月続けば、1年続く。1年続けば3年続くこと
この言葉、真剣なまなざし、私の心に響きました。
¨でも、私は訓練やリハビリじゃなくて、ちゃんとした就労がしたいんだ!¨
どうしてもこだわってしまいます。
一般就労が必ずしもゴールでないこと
それ相応の準備期間と努力が必要なこと
会社員にしても、フリーランスにしても、雇用契約を結んで働くことは今の自分には難しいこと
頭では、理解しているんです。
そんな私に「作業所の就労でも、立派なお仕事だよ。大差ないよ」と言ってくれた人がいました。
はじめは、反発して、うまく受け入れることができませんでした。
相手に「そんなことない!」とはねのけました。
今は納得する節があって
少し自信をもっていいのかな、と思うように。
私は一見、障がいをもたない人に見えるそうです。
・話ができる
・言葉遣いが丁寧
・人に対して気を遣える
人から褒められることが嬉しくて、
自分でも苦手なことがわからなくなるほど
頑張ってしまうようです。
私の苦手なことを一部紹介させていただきます。
上記以外に自分では、
・状況や言葉を組み立てること
・判断すること
に苦手意識を感じています。
今後、年齢や経験値を重ねていく過程で、できることが増えていく可能性ももちろんあるでしょう。
読む、書く、話す、聞く、記憶するという点で
テクノロジーやICTにより代替をすることで
感じなくて済む困難さやしんどさもでてくるかもしれません。
しかし、それでも達成度の限界というものがあることも肌で感じています。
以前まで私は、『可能性は無限大にある』『自分はなんでもできる』と思い込んでいました。
決して間違ってはいません。
しかし、その思い込みは自分自身を苦しめました。
まあ、暗くなりそうな話はさておき。
突然ですが、あなたに問います。
生活していると、
・イラっとする出来事に遭遇する
・「もうむりー」と自暴自棄になる
ことがありますよね。
これはあくまで私見ではありますが、
心がダメージ(衝撃)を受けたとき、どんな反応になるか(笑って流せる、怒り出す、グッと我慢するなど)には、
つながりが大きく関係しているのではないかと考えています。
例えば、友人や恋人など実在する身近な人でなくても
俳優さんやアニメのキャラクターなどの存在、いわゆる推しが支えてくれる、気分が落ちそうなところをなんとかキープしてくれる場合があるように思います。
また、
「あー、もう学校でイライラしたから帰ったらゲームしよ」
「僕は、筋トレをすることで体だけでなく、心も鍛えています」
という言葉をよく耳にしますね。
筋トレや楽器演奏、ゲームや瞑想など
一般的に気分転換や気持ちの切り替えと呼ばれる趣味やストレス解消法なども、ある意味でその対象物とつながりを保持することで心を保っている・安定させる機能をもっているのではないかと考えます。
つながりを保つ=安心感の保持 だと認識しているのですが
考えてみると、私は安心感を保ち続けることが難しい病的な側面と付き合いながら生活しているように思います。
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皆さんはどのように感じましたか?
掘り下げたいところですが、あまり深く探求してしまうと体調を崩してしまうので、また今度にしますね。
つながりー安心感ー心の安定 因果関係がありそうですね。
ワクワクします。
最後に、タイトルについて触れていきたいと思います。
この文章のタイトルには、2つの意味を込めさせていただきました。
1つは、「苦手なこと一覧」の項目でも挙げさせていただいた困難さについてテーマとしてとり上げるためのさわりの意味。
2つ目は、こころがほどけていくという比喩的な意味です。
私は靴ひもを結ぶときに、その力が弱いのか歩き出すとすぐにほどけてしまいます。(今は靴ひものないシューズもありますが)
それは幼少期からのことのようで、「転ぶから、一旦止まって。結びなおそう」と家族に言われてその度に待ってもらっていたなあという記憶があります。
道行く人は、なにも気にせず、特にこれといった努力もせずとも
靴ひもを結び直すことはめったにない。
そんな風に狭い視野で見てしまうからこそ、隣の芝生は青く見えるという言葉があるように「いいなー」とうらやましく感じることがあります。
しかし、自分と同じように靴ひも案件で悩んでいる人が
どこかにいるかもしれない。
そのことに気づける瞬間というのは、
ラジオやテレビといったメディアで情報に触れているときであったり、
自助会やデイケアといった似た境遇の仲間が集まる場だったりするのかもしれません。
つながりとも関連していそうですね。
靴ひもがほどけるほど、そのたびに結び直さなければいけません。
これって、人間が生活を営む上、成長の過程とも重なる部分なのかなと。
いつも緊張している私にとっては
ちょっとしたきっかけで
心がほどけていく(ゆるんでいく)と、
安心感やひととつながれている感じが
ふわーっとからだに染み込んでいく。
心地よいかんじ。
それは
欲しくても得られなかったものであって、
次はないかもしれない
偶然かもしれない
今この安心感を噛みしめるんだ、
もっとほどけていたい
こころのなかでうずく私がいて。
ほどけすぎてしまうと
人間関係や日常生活に支障をきたしてしまうこと。
「ほどけすぎてるよ、あとは自分でなんとかして」
そう言われて初めて気づく、修正をしていく。
人生そのものだなあと私は感じるんですよね。
とても、大変で地道で面倒な工程ですが、
シューズのひもにしても、こころにしても
この「ほどけかた」をもう少し見つめ直してみたいものですね。
安定や成長の一歩になりうるのかなと思います。
いかがだったでしょうか。
これにて、「靴ひもがほどけていく」を終幕させていただきます。
長いお時間、お付き合いいただきありがとうございました。
また次回、お会いできるのを楽しみにしています。
2022.10.26(水) 律(りつ)
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