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スィング・ボーイ

今日はナチス政権下でのティーンエイジャーたちのお話を。

 ヒトラーユーゲントは日本でもよく知られていると思いますが、実は設立は1926年のワイマール共和国時代で、国家社会主義ドイツ労働者党(略してナチス)はこの頃から少年たちを授業後に集め、スポーツで心身を鍛錬し、集団活動を通じて「民族共同体の一員」となるよう教育していました。しかし、このころはまだ国内での知名度も低く、入会する少年もごく少数でした。

 それが1933年にナチスが政権を掌握してからは少年たちの入会が急増していきます。なぜならナチス政府は他の青少年の集会を禁止したからです。

 1936年にはヒトラーユーゲント法が制定され、10歳から18歳の青少年全員がヒトラーユーゲントに、10歳から21歳の女子全員がドイツ女子同盟への入会が義務付けられました。ドイツ女子同盟というのは健康なドイツ男子を生み育てるための良妻賢母育成組織です。

 この法律の序文には「ドイツ国民の将来は青少年にかかっている。したがって、ドイツのすべての青少年は将来の任務に備えなければならない」とあります。「将来の任務」とは、もちろん戦争のことです。そして「ドイツのすべての青少年は家庭と学校での教育とは別に、ヒトラーユーゲントにおいて国家社会主義の精神に基づき、肉体的、精神的、道徳的に教育を受け、国民と国家に奉仕しなければならない」と明記されています。

 開戦前までに全国の900万人の青少年が週に3、4回ヒトラーユーゲントに参加していたのですが、ここではアーリア人の優越性、他民族の劣等性、愛国心教育といったナチスのイデオロギーの凄まじい洗脳教育が行われていました。学校でも教師から愛国心教育を受け、授業後もヒトラーユーゲントなのですから、この頃にティーンエイジャーであったドイツ人は、ナチスのイデオロギーの影響を最も受けた世代だと言われています。 

 興味深いのは、ティーンエイジャーに対する巧妙な心理作戦をナチス政府が心得ていたことです。

 ドイツでは19世紀後半から若者と大人との間に特異な精神的衝突があったと言われています。「大人は理性的、現実的、合理的な話ばかりで、彼らの保守的な価値観にはうんざりだ。しかし、我々は自然の中にこそ感動と真実があることを知っている。生きる歓びは野山や森が教えてくれるのだ」。これは「自然主義の高揚」と呼ばれ、この頃から若者たちはグループで登山やハイキングを楽しみ、歌を歌い、ワンダーフォーゲルを流行させました。この野外活動は第一次世界大戦後の大恐慌、増加する失業者と経済的に困窮する社会の中でも続きました。ナチス政府は若者が精神的自由を求めて大人に反発し、自然に価値を見出そうとする性格的傾向を見抜き、ヒトラーユーゲントでそれを「継承」させようとしたのです。理解のない大人たちとは別の、我々若者による新しいドイツを築いていこう。自然を愛し、その中に自由と生きる価値を見出そう。こうして年上のリーダーの指導のもと、ハイキング、スポーツ、テント合宿など子供たちとって楽しいプログラムを盛りだくさんにすることで、少年たちを上手に取り込んでいったのです。実際には開戦後は軍隊式行進の練習、戦場を想定したグループ別の野外演習、ナチスの祝祭イベントでのパレードの練習、武器生産のための鉄クズ集めなどが中心となっていったのですが。

 親たちもまた、思春期の気難しい子供たちがヒトラーユーゲントによって躾けられ、無料で合宿に参加できることを喜んでいました。しかし、ヒトラーユーゲントの教育目的が、「両親よりもヒトラーを愛し、ドイツのために闘い、ヒトラーのために死ねる青少年の育成」であると知ったなら、反抗的な息子を家に置いておいたほうがずっとマシだと思ったのではないでしょうか。

 さて、すべての青少年がおとなしくナチスのイデオロギーに染まっていたかといえば、そうでもありませんでした。ヒトラーユーゲントを「ダサすぎてやってられない」とバカにしていた小粋なジャズ愛好家の若者たち『スィング・ボーイ』をご紹介したいと思います。

 当時、ジャズは「ネガー音楽」、「猿のダンス」と呼ばれ、演奏することも聞くことも政府に禁止されていました。そのような中でハンブルク、キール、ベルリン、シュトゥットガルト、フランクフルト、ドレスデン、ハレ、ライプツィヒ、カールスルーエなどの都市には、ジャズを愛してやまない14歳から19歳までの若者たちが密かにレコードを持ち寄っては蓄音機で鑑賞し、ダンスイベントを企画し、ダンスクラブで汗だくになって踊る『スィングボーイ』という音楽活動グループがありました。彼らはただひたすらジャズと自由を愛する普通の若者たちであり、ユダヤ人狩りが始まるまではユダヤ人の若者も参加していました。

 彼らの多くはいわゆる中流以上の家庭の出身で、社交ダンスのレッスンを受けていたため踊ることが大好き、イギリスやアメリカに旅行経験があり、親がリベラルな考えを持つ知識人が多かったために英語もある程度理解していたようです。

 怖いもの知らずの若者たちはやることもかなり挑発的で、例えばダンスホールにある「スィング禁止!(Swing Verboten!)」の看板を「スィング希望!(Swing er-beten)」と書き換えたり、「ハイルヒトラー!」を「ハイルホットラー!(ホットジャズ愛好家として)」、「ジーグハイル!(ナチスの「万歳」を意味するフレーズ」を「スィングハイル!」などと挨拶したり、ヒトラーユーゲントを揶揄する替え歌を作ったりしていました。

 また、彼らは大変おしゃれで、ヒトラーユーゲントの茶色い開襟シャツに黒い半ズボンの制服を嫌い、独自のスィングファッションを編み出しました。なぜかイギリス風のチェックのコート、その下にはダブルのダークスーツ、明るい色のマフラー、コートポケットには英字新聞、手には長い傘とパイプというイギリス貴族風ファッションで、ヘアスタイルだけは長い前髪を後ろに撫でつける1930年代のハリウッド風にシルクハットという出立ちでした。また、スィングベイビーと呼ばれた女の子たちもドイツ女子同盟の茶色いブレザーに黒いスカートの制服を脱ぐとアメリカで流行していた胸の膨らみを強調するタートルネックのセーターと膝上の短いスカートに着替え、三つ編みをほどいて肩までの髪をハリウッド女優風にカールさせました。ドイツ女子同盟が化粧を禁じていたのにもかかわらず、スィングベイビーズは濃い化粧をして赤い口紅をつけ、迎えに来たクールなスィングボーイと一緒にいそいそと出かけていったのです。

 まだ政府が取り締まりをそれほど強化していなかった頃、若者たちは蓄音機を外に持ち出して路上で踊りました。特に橋の下は音が良く響き、遠くからでも聞こえてきます。集合の合図の音楽はフランクフルトではエディ・キャロルの「Harlem」、ベルリンでは「Goody, Goody 」または「Jeepers Creepers 」、ライプツィヒでは「Flat Foot Floogie」と都市によって異なり、音楽が聴こえてくると、おしゃれをした若者たちが集まり、くるくると踊ったのです。

 ヒトラーユーゲントの指導者はスィングボーイを苦々しく思っており、「道徳的堕落」と表現していましたが、スィングボーイはそれを「誉め言葉」と受け止め、自らを「ぐうたら」と呼んでいました。彼らのモットーは「幸せになること、プランを持たないこと」だったと言うのですから、これがヒトラーユーゲントに対する挑戦と取られるのは当然です。

 ナチス政府はこのスィング禁止を試みたのですが、全国何百人もの集会を禁止すれば、若者が政府に反発する危険性がありますから手をこまねいていました。当時のゲシュタポの報告書には「スィングボーイの連中は教育水準が高いため、ヒトラーユーゲントの美辞麗句では容易に騙せないだろう」とあったそうです。事実、彼らはヒトラーユーゲントの軍事訓練には嫌気がさし、リーダーを馬鹿にしきっていましたから、制服を脱ぐと夜な夜な集まってはジャズを聴き、踊り、憂さを晴らしていたのです。

 しかし、1941年にアメリカが参戦すると、スィングボーイ取り締まりが強化されていきます。特に親衛隊トップのヒムラーは、スィングボーイを「ドイツのモラルの破壊者」と嫌悪していました。ハンブルグだけでも300人以上の若者が逮捕され、罰として長い髪は切り落とされ、リーダー格の青年たちは刑務所に送られて拷問を受け、強制収容所に収容されました。

 取り締まりが厳しくなるにつれて、若者たちはスィングボーイをただの「ジャズ愛好家の集まり」から政府抵抗運動へと発展させていきます。ハンブルグのスィングボーイのメンバー3名は有名な抵抗運動グループ「白ばら」のハンブルグ支部と接触を始め、反ナチスのビラ刷りに参加しようとしていたところをゲシュタポに逮捕されました。人民法廷では国家反逆罪を犯したかどで有罪となり、死刑は免れましたが刑務所に収容され、それからすぐに終戦を迎えてイギリス軍によって解放されました。この3名はまだ17,8歳でした。

 かつてスィングボーイだったというお年寄りのインタビュー番組を観たことがあります。

「当時、シャレた格好をしていたのは、おまえたちとは違うんだという自己主張だね。それに何と言ってもジャズが好きで好きで仕方なかったんだ。カウント・ベイシー、ルイ・アームストロング、イギリスのナット・ゴネラを聴くと、今でも踊りだすよ。スウィングジャズで踊ってる間だけは自由だったんだ」


『スィングボーイ』の青年たち


ヒトラーユーゲントとドイツ少女同盟の制服を嫌い、おしゃれをしてダンスを楽しんだ1940年の若者たち

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