1914年、私、マックス・シュルツは、東プロイセンと隣接する港町、自由都市ダンツィヒ(現在のポーランド領グダニスク)で生まれました。もともと信心深い家庭に育ったわけではありませんが、ギムナジウムがプロテスタント系だったこと、堅信礼クラスでの授業を通して聖書を学んだことで、より深く神学を学びたいと願うようになりました。抽象的ではなく、具体的な行為で「愛とはなにか」を説いたイエス・キリストに深く感動し、私は牧師となって御言葉を伝える献身の道を歩む決意を固めたのです。 1932
第二次世界大戦のドイツ兵捕虜について調べているのですが、私の義母の父フーゴが書いた戦争捕虜体験記は胸に迫るものがあります。 第二次世界大戦中、捕虜になったドイツ兵は約1100万人、そのうちソ連領の収容所には推定320万から360万人が収容されたと言われています。そこでの生活は陰惨を極め、100万人以上が飢え、寒さ、病気、拷問、射殺等で亡くなっています。 捕虜同士の連帯感はなく、とにかく飢えを凌ぐことで精一杯、配給されたパンの大きさで殴り合うことも日常茶飯事でした。食糧の配
恒例のベルリン・ライニッケンドルフ郷土史勉強会で、高齢者から思い出ばなしを伺いました。 ①1940年生まれの男性 戦争は終わったけれど、私たちの遊び場は瓦礫と廃墟で危険がいっぱい、突然壁が落ちてきたりガラスの散らばるところで転んだり、怪我が絶えなかった。通り過ぎる大人たちに「危ないからそこはダメだ」とよく叱られたけれど、隠れて廃墟の中を探検するのはスリルがいっぱいでワクワクした。 ②1944年生まれの女性 私はソ連統治地区に住んでいたが、よくアメリカ兵が汽車に乗っているの
恒例のベルリン郷土史勉強会で、再びベルリン在住の方々から思い出話を聞いてきました。テーマは「西からの小包」。ほんわかした話で心癒されると思いきや、結局、今も昔も国民は国家のイデオロギーに翻弄され続けてきたのだと思い知らされることになりました。大変興味深いエピソードが聞けましたので、紹介させてください。 まず、「西からの小包」とは何だったのか、歴史的な背景を踏まえながら、簡単に説明します。 1961年のベルリンの壁の建設によって、東ドイツ人は西ドイツの家族、親戚、友人を
月曜日恒例のベルリン郷土史勉強会に再び参加してきました。今回も興味深い話ばかりでしたが、特に東ドイツ出身の方の話が印象的でした。 ①男性H氏 1952年東ベルリン生まれ 小学校5年生の時、チューリンゲン州でのクラス合宿に参加した。夢みたいに楽しい三週間はあっという間に終わり、再びバスでベルリンに戻って来た。その時、西ベルリンの国境に銃を持ったアメリカの国境警備隊がいてとても怖かった。彼らは容赦なく撃ち殺すと噂があったので、みんなでバスの中に身を沈めて隠れた。大人になってから
月曜日は恒例の「ベルリン郷土史勉強会」に行ってきました。今回はベルリンの話ではありませんが、ベルリン在住のお二人から伺ったお母さんとの旅行の話が大変興味深い内容でしたので、ご紹介したいと思います。 ①男性、1952年生まれ、西ベルリン出身 母は東プロイセンのマリエンブルグ(現在のポーランド領マルボルク) の出身で、終戦直前に追放されて19歳で難民になった。ドイツ統一後に初めて母を連れてマリエンブルグを訪れたが、中世の要塞を持つマルボルク城はユネスコ世界遺産にも登録されてい
ベルリン市の私の住む地区には郷土博物館があり、そこでは毎週一回、歴史研究家を囲んで無料の郷土史勉強会が開かれています。私も参加しているのですが、私以外の参加者はほとんど70から90代の高齢者ばかりで、これがまた最高におもしろいのです。皆さん、話好きな方ばかりで、昔話を競い合うように聞かせてくれます。昔の話をしてくれるお年寄りは人類の宝ですよね。特に最高齢者のB夫人は1935年生まれですから、生まれた時から10歳まで、どっぷりナチスドイツ時代に浸かっていたことになります。こんな
ライプツィヒを歩いてたら、こんなブロンズ像に出逢いました。いったい何を意味しているのでしょう? まっすぐ伸ばした右手はナチス式敬礼、右脚は前方に突き出した兵士の行進、左手は拳を握った社会主義のシンボル、左足は赤いラインの入ったソ連軍将校の軍服です。足も手も勇ましいのですが、なぜか頭は胴体の中に埋もれ、胴体の中心は切り裂かれています。 作品のタイトルは『世紀の歩み』。これは戦争や独裁者や社会主義政府のイデオロギーに翻弄され、モラルや哲学や人間性を踏み躙って歩んできた、思
ナチス高官の多くが動物好きであったことはよく知られています。あのナチスNo.2だったゲーリングにいたっては、百獣の王ライオンに憧れて、ライオンの赤ちゃんをベルリン動物園から借りてきては来客に見せびらかし、大きくなりすぎたために、再びベルリン動物園に戻すという無責任な動物愛護っぷりでした。 ヒトラーは正真正銘の愛犬家として有名でした。彼の愛犬の名前はブロンディ、メスのジャーマン・シェパードです。側近からのプレゼントだったそうで、よく躾けられた賢いブロンディを、ヒトラーはど
第一次世界大戦の塹壕戦について調べながら、エーリヒ・マリア・レマルクの『西部戦線異状なし』を読み返しています。今さらですが、やはり不朽の名作ですね。レマルク自身の体験による悲惨な戦地の描写も生々しいのですが、次第に若者たちの意識が一般人のそれと乖離していく「なんとも言い難い距離感」という心理描写に胸がえぐられる思いです。 この続編『還り行く道』は戦場でのトラウマと不安を抱えながら生きる復員兵を描いた反戦文学ですが、日本語訳もあるでしょうか?どちらもナチス時代には「社会的に
933年、ヒトラーは政権を掌握すると、Gleichschaltung (日本語では『強制的同一化』と訳されています)というナチスのイデオロギーに則った政策を進めていきました。これは「一つの民族、一つの国、一人の指導者」というスローガンのもと、すべての国民がヒトラーだけを指導者と仰ぎ、統一的に生き、統一的に考える民族共同体となって団結することを目標としたものです。この『民族共同体』は当然ナチスが理想とするものでなくてはなりません。つまり、政治はもちろん、司法、経済、学校、教会、
今日はナチス政権下でのティーンエイジャーたちのお話を。 ヒトラーユーゲントは日本でもよく知られていると思いますが、実は設立は1926年のワイマール共和国時代で、国家社会主義ドイツ労働者党(略してナチス)はこの頃から少年たちを授業後に集め、スポーツで心身を鍛錬し、集団活動を通じて「民族共同体の一員」となるよう教育していました。しかし、このころはまだ国内での知名度も低く、入会する少年もごく少数でした。 それが1933年にナチスが政権を掌握してからは少年たちの入会が急増して
ナチス政府のプロパガンダを広める重要な手段として、ヒトラーとゲッベルスの演説、メディア、映画、国民への物質的な便宜などが挙げられますが、青少年にナチスイデオロギーを刷り込んでいったヒトラーユーゲントとドイツ少女同盟は、その中でも最も罪深いものであったと言えるでしょう。以下は、2022年4月に東愛知新聞に寄稿したヒトラーユーゲントについての記事です。 ドイツの高齢者の方々に、ヒトラーユーゲントについてインタヴューをしたことがある。皆さん「楽しい思い出しかない」と懐かしんで
1936年ベルリンオリンピックはナチスドイツを語る上では外せない、歴史的に非常に重要な大イベントでした。 今回はドイツが主催国となったいきさつと聖火リレーについて、少しだけ紹介させていただきます。 1931年、IOCは第11回オリンピックの開催地をベルリンに決定しました。ベルリンが選ばれた表向きの理由は、第一次世界大戦に敗れて孤立していたドイツに、国際社会への復帰のチャンスを与えるということだったのですが、実は多額の賠償金支払いを負わされたドイツに対し、戦勝国には罪
今では信じられないことですが、かつてヒトラーは救世主と崇められ、慈愛に満ちた心優しい人物であると民衆に愛されていました。 第二次世界大戦で兵士たちが書いた日記は貴重な歴史的文献ですが、その中にも政府に洗脳された若い兵士たちのヒトラーへの惜しみない賛辞が散見するのは悲しいことです。 将校ヴィルム・ホーゼンフェルトもまた、ナチス特別部隊がワルシャワでユダヤ人を集めて殺害するのを目撃してショックを受け、「ケダモノたちがこんな野蛮なことをしていることをヒトラーが知ったらショックを
この写真は1936年6月にハンブルグ港の軍艦進水式で撮影されたもので、当時はヒトラーを迎えての盛大なセレモニーだったそうです。群衆の中でひとりだけ「あのポーズ」をとっていない男がいます。この男の生涯についての記事が興味深いものでしたので、皆さんにご紹介したいと思います。 男の名前はアウグスト・ランドメッサー、当時26歳。この写真の数年前までは他の国民同様、熱烈なナチス支持者で党員登録もしていました。自身が失業を体験していたため、ナチス政府の失業対策を始めとする経済政策に感