
紀政諮「嫉妬なんかと一緒にするな」後編
男がいつも通り顔をふきながら洗面台から出てくるのを、彼女は、リビングのソファからながめていた。
「ほかえり〜」
およそ在日一世では知り得ないであろう日本語のスラングをなげかけてみると、え? と、しどろもどろになった。普段から彼女は、こんな具合の遊びをよくする。
「ん〜ん。今日もかわいいね笑」
そう場を収めて、テレビの方に向き直る。
それは単なる遊びというだけではなかった。それは、彼女のちょっとした悪戯を「は?」と一蹴せず、素直に困惑を示してくれる男の健気さの確認。犬の調教。
別に、性悪というわけではない。彼女の視界にうつるのは推しではなく、コーヒーテーブルに放置されたオレンジジュース。コップの結露みたいな不安が、彼女の聴覚をとぎすませる。
——다락방에서 그림책을 읽었습니다
오늘은 무엇을 보았습니까?
바람은 어떻게 향했다?
전부 들려준다——
別に、性悪というわけではないのだ。ただ、世間一般のいわゆる女性らしい女性と違う部分を最近、彼女は自覚しつつあった。
——마음이 외롭다 어딘가
너는 숨기고 있다 어딘가
전할 수 없다
둘이 되고 싶다——
寂しさを素直に共有できないことは、寂しさを無意識に共有してしまうことでもある。好きな人のことをずっと考えていて、視界狭窄。だから、今もたれかかっているソファーの後ろの気配に勘づけない。
ふぁさ、と、首に巻きついてきた布。後頭部が、人肌の温度を感じはじめる。びくっとして視界を下に落とす。
好きな人の萌え袖の寝巻き。——バックハグだ、と気づくまで、雑音の類いはホワイトアウトした。静まりかえった心、しかし、温度が上昇し始めた心に、好きな人の声が刺さる。
「僕を、見てよ」
+。+。+。
「なんか……韓流アイドルばかり見てるの、嫌だ。僕のことも見てほし……けど……なんか、ほんとは僕ってゆ、より、韓流が好きで、僕とか、を、恋人にしたのかな、って、ふる……ふ、あん、で……」
言っ……てしまった……
内心をついに打ち明けて、ほっと、脱力してしまう。そのまま、ソファごしに彼女に後ろからもたれかかった。ふわり、トリートメントの匂い。ふいに目を閉じる。
ああ、そこに、居る。
左の耳たぶで、彼女の耳たぶを感じる。頸と頸がふれあって、鼓動がとけていく。
ずっと、こうがいい。
「なんだ、そんなことだったんだ」
そんな、こと?
男は一気に現実に引き戻される。
「いや、安心した。だって、」
彼女がふりかえって、顔を見合わせ、男の顎を手でそっとすくう。
「最近ずっと、ひとりで悩んでる感じしてたから、あんた」
飼い犬は、鼻の奥にほのかなよろこびが走るのを感じた。だって、それは、飼い主が自分を見ていてくれていたということだから。
「それは、あなたもじゃん」
いい流れが来ていた。うちとけるなら、今しかない。
「なんか、僕に隠してることあるでしょ」
テイミングする彼女の手が、少し揺れた。犬の嗅覚をみくびっていた。
「……へえ、わかってたんだ。ただアイドルに嫉妬してるだけなのかと思ってた」
彼女の目尻に笑みがにじむ。
「ただの嫉妬と一緒にしないでよ」
「そっか……」
手が、男の顎から離れる。
と、体ごと振り向いて、すぐさま首に手を回し、抱きついた。ぎゅっ、と、体温の刷り込み。首と首が重なって、互いの顔が見えないのに、心臓はふれている。
紅白の司会の声。
『プロジェクト・ピンクのみなさん、ありがとうございました!』
KPOPは役目を終えたらしい。
「それなら教えてあげる。私が隠してたこと。二つある。まず一つ、びっくりじゃないことから。私、あんたに冷められたのかなって思ってた。ちょっと前まで、嫉妬を割と素直に伝えてくれてたのに、最近は、嫉妬してるくせにそれをぶつけてくれない。だからもう、愛想尽かされちゃったのかなって思ってた。だから最近ちょっと悪戯気味だったんだ。ごめんね」
「それから……」とハグを解いて、彼女は少し上体を起こす。体が離れる。顔はうつむき気味で、表情が見えない。しかし、男はわかった。それが、不安を悟られないための強がりであることを。
「び、っくりなこと、二つ目。えっと……最近、しつこくDM飛ばしてくるネットストーカー、いるじゃん。あいつの正体、ちょっと、心当たりある。けど、愛想尽かされてるかな、って疑ってたからさ……もし、心当たりがあるのに何も対策してなかったってバレたら、もうダメになっちゃうかもなって思って、隠してた」
ショックを受けて束の間、心は自省にとって代わられる。そんなに僕たちの心は断絶してしまっていたのか。そんなに離れていたのか。彼女に、そんな思いをさせていたのか。
嫉妬にかまけて、……いいや、嫉妬から目を逸らして、何もしてこなかった。
「ほら、ちょくちょく、DMの一部をあんたに見せないでこっちで処理してたでしょ。あれは、そのDMを見られると、ストーカーの正体がバレる気がしたから」
「……そっか。それ、どんなDM?」
彼女は顔を上げた。目が合う。犬の目。甘える犬の目ではない。愛する犬の目だった。
「——韓流アイドルが嫌い、かな」
前足が一瞬で携帯を奪う。SNSを開く。DMを開く。見つけた、こいつだ。右上、通話開始ボタン。人差し指を、かざす。
飼い主の方を見遣った。許可を求めた。
すると、彼女はするりとソファからあがって、男の隣に立ち、スマホをもつ手に左手を添えた。右手は、男の腰にまわった。
いいよ、して。の合図だった。
タップ。呼び出し音楽が響く。相手の声をよく聞きたい。音量をあげる。
+。+。+。
彼の部屋は、人が想像するほど思想的ではなかった。ただのよくある土壁とフローリングの床。思想が強いのは本棚だけ。あとは、背伸びしたおしゃれな観葉植物とか、下宿に持ってきたはいいものの置き場に困って机に転がりっぱなしの子供っぽいおもちゃとか。至って普通の人間。ちょっと可愛げのある男子大学生。その認識で、別に何も間違っていない。
今年の紅白は見たくなくて、テレビはつけていなかった。代わりにスマホの画面を見ていた。うん、好きな人の投稿をつい眺めてしまうくらい、普通のことだ。うん、好きな人の推し活の投稿にタグ付けされたアイドルをブロックしておくのも、普通のことだ。きっと、あの彼氏くんもやっている。うん、やっていなかったらオススメしたいくらいだ。精神衛生上、とてもよろし——
しりりり、しりりり、しりりり……
画面が急に薄灰色になって、着信音。電話がかかってきた。相手は誰だろう。
気づいて、心臓は跳ねた。さっきまでうっとり眺めていた、好きな人のアカウントからだ。
喜び勇んで電話に出る、前に、少しだけ彼は考える。
俺の正体……は、どうせバレてるか。
かけてきたのは、本当に彼女か?
たしか、年末年始はずっと一緒にいるとかアイツ言ってたよな。ならアイツがかけてきたんじゃ……
察した。ああ、そうか。ついに「破綻」する日が来たのか。少しばかりの悲しみにふれるように、受話器のマークをはじいた。
+。
「やあ、嫌韓さん。韓国人ですよ」
そんな煽りで会話を切り出したのには、三人ともども深い意味合いを感じ取らずにはいられなかった。電話の向こうから、ため息が決壊するような声が帰ってくる。
『じゃ、もう正体はバレてるか、金田靖志(かなだまさし)くん。……いや、金靖志さん』
「本名と読みまでイサチ済かよ。徹底してんな」
『リサーチ、な。韓国訛りがひどいぞお前』
おそらくは、携帯越しに目と目で火花が散っている。自分を番犬であると思い込む一般チワワとひょろひょろネトウヨ泥棒はなかなかいい勝負をしそうだった。
「残念だよ。君の話、けっこう好きだったのに」
『……どういうことだ?』
本心を打ち明けることで、主導権を握った。
「君の、韓流アイドルへの反感、恨み節、好きだったんだよ僕は。僕が嫉妬している対象を、小気味よく貶してくれる。別に正しくないにせよね。僕はさ、わかってんの。彼らはすごい人たちで、尊敬に値する人たちで、僕なんかがアンチしちゃいけない人たちだって。だって、僕が愛する人が愛してるんだから。……だから、君の話は、僕の代わりに僕のジェラシーを発散してくれる、頼れる必要悪だった。けど、そっか。所詮、君も僕と同じ。嫉妬してただけなんだね」
「あ?」
嗚咽まじりの返答に、犬はさらに吠える。
「好きな子が、知らない奴に熱をあげている。それに嫉妬する。ただ、それだけ。思想? 政治? たいそうなものに縋っちゃって、結局、自分のしょぼい、動物みたいなシンプルな気持ちを優先させてるだけ」
『なあ、黙ってくれ。一回』
怒り。電話越しの、明らかな怒り。一瞬怯んでしまう。チワワはチワワ。
『お前、外国人参政権ってわかるか?』
その隙に、泥棒が反撃する。
『大手新聞の歴史的捏造事件を知ってるか? アメリカでのロビー活動の熱量の差を知って、危機感を覚えたことは? ああ、ないか。「そっち側」だもんな』
知らない。わからない。なにそれ。怖。
『俺は、お前の知らない「政治」の世界を知ってる。もし俺がなにか間違ってるとしてもだ、少なくとも、お前は俺を言い負かせられない。なぜならお前は、知らなすぎる。お前いわく「別に正しくない」俺の言葉より、なにも知らないお前の言葉の方がよっぽど弱い』
知らない世界に足を踏み入れてしまったと、チワワはようやく気づいた。足元が消える感じがする。めまいに似た寒気に全身が震える。
『バカにすんのも大概にしろ。好きな人とか、お前の人種とか、関係なしに俺は韓国がなんかイヤなんだ。これは、俺の根本だ。俺の思想だ』
そして、白飛びするチワワの世界に、挿しこまれる一つの言葉。
『嫉妬なんかと一緒にするな。お前とは違うんだよ』
頭が凍る。目が冷える。耳がちぢれる。あれ、今、僕、負けてる……?
ふ、と温かみを感じた。
左手だった。それに重なる、彼女のてのひらだった。くい、と肩に顎をのせ、体を寄せる。あたたかい。白い世界が、とけて、思い出す。そうだ。知らない世界に足を踏み入れたのは、あっちの方だ。
「——確かに、君の考えは、ちゃんと君の考えみたいだね。わかった。尊重するよ」
電話越しにも、相手の「?」の字が感じられる。
「君のヘイトが正しいことだとまでは認めない。もし僕がガチで政治とか知ってたら、君の言うことは論破できたかもしれない。けれど、それがただの嫉妬なんかじゃなく、君の思想だってことは尊重するよ」
そのまま、なだれるようにたたみかけた。
「けど、どんなに立派な考えでもさ、ここで僕が年越しそばを啜る権利の方が、ここで僕がぐっすり眠る権利の方が、ここで僕と彼女が一緒に洗濯物を干す権利の方が、僕らが一緒に買い物をする権利の方が、僕らが、一緒に、同じものを見て、同じものを聴いて、同じ時間に横になって……! 僕らが、愛し合う権利の方が! 上だっ!」
……っはあ、はあ。と、犬は息を切らした。
飼い主は、「よくやったね、えらいね」の目をして、飼い犬をなでてやった。飼い犬は目をつむった。休息だった。
無防備になっていた。
『お前が、それを言うか』
その声が震えているのは男の口撃をかなりくらったからだ、と気づけたのは彼女だけだった。男の無防備な脳内に、するりと言葉が足を入れ、地雷を踏みぬく。
『韓国人だから好かれてるだけなのに?』
飼い犬の顔を見て、飼い主は、あ、これ以上は無理だな、と気づいた。
『韓流アイドルが好きだから、韓国人に憧れていて、偶然同じサークルにいた在日一世を恋人にしてみた。お前を愛しているようで、実は、お前に重ねた推しを愛してる。自分でもわかってるんだろ? お前なんかが恋人に選ばれた理由だよ。アイドルに嫉妬するのはそのせいだよなあ、お前の場合。いいことを教えてやろうか。お前ら韓国人男性が日本人女性をみんなアイドルだと思っているように、日本人女性もまた韓国人男性をみんなアイドルだと思ってるんだぜ、笑えるよな。……お前、愛だの何だので俺にマウントとってて、虚しくねえの?』
「私がっ‼」
彼女の声。男の崩れかけた精神に、ひとすじ、トリートメントの匂い。
「私が、靖志を好きなのは! かわいいから。かっこいいからじゃない。私が、靖志を好きなのは、素直だから。ミステリアスだからじゃない。私が、靖志を好きなのは、あったかいから。画面越しじゃない。私が、靖志を好きなのは……靖志だからだよ。アイドルじゃなくて、一緒に生きてくれる、一緒に寝てくれる……、今だって、私と一緒に怒ってくれてる、靖志だからだよ」
ぱあん、と鳴ったのは、紅白閉幕のクラッカー。ひらひら、画面に舞うリボンが、男には彼女からの愛の入力に見えた。こっちへ飛んできて、とりかこんで、つつんで、今も僕の心を彩ってくれている。
年が、明ける。
『……あ、そ。じゃ、好きにすれば』
ぽろん、と、通話が終了した。
静かな部屋。残り五分で年明け。見つめ合う二人。ニュースキャスターの声だけが耳に届く。けれど、二人の心の耳には、それとは別のものも、通じ合うようになっていた。
「……ふふ、勉強しよっか! アイツに負けないように!」
そう言って、彼女はリモコンを手に取り、ひょいっと再びソファーに腰掛けて、テレビを見る体勢になった。おいおいマジかよ。ニュースで社会情勢観覧デートして年越しなんて、聞いたことない。
「……ふふ、こんなの、初めてだ」
そうぼやき、隣に腰掛け、男は栄養ドリンクを手にとった。彼女の手に力が入り、リモコンの音量ボタンを押す。
+。+。+。
静まり返った部屋は、もう一つあった。テレビのついていない部屋。いましがた、失恋だった失恋をしっかり失恋にしてしまったストーカーの部屋。
むくり、と、起き上がって、思想の強い本棚の右端に手を伸ばす。とあるアーティストのアルバムだった
パソコンにCDを挿入して、再生ボタンをクリック。音量バーを微調整。 +。+。+。