虫我「サンタ証明の途中式」中編
外は案の定の暗闇だったが、不思議と自分の身体とその前方ははっきりと見通せた。
「では、お気をつけて」
運転手は扉の前でお辞儀をすると、再び戻ってバスのエンジンをかけた。表記は『夢行き』から『回想中』に変わっている。
そうして過ぎ去っていくバスを見えなくなるまで見送ったあと、僕はあてもなく歩き出した。
歩き出して、少し止まって、また歩いた。
ずっと、暗闇。でも、少し前だけは見えている。
「……なんだ。夢の中も、変わんないじゃん」
生まれて、幼稚園、小学校、中学、高校。
で、大学。
「あーあ。どっちが前かわかんねぇや」
雪が降り始めた。手のひらがそれに触れる。夢ということを自覚すると、それはそこまで冷たくないことに気づいた。
僕は手のひらのそれを、じっと見る。そして握りしめたまま立ち止まってしまう。
「せめて、どっちに向かっているか教えてくれよ」
後ろから声がした。複数の子供の声。
「気をつけろよぉ~。殺人サンタが来るぞぉ~」
振り返ると、遠く離れたところにいつか見たことがあるような子供が、三人いた。その三人の周りだけ、自分の周囲と同じように暗闇が晴れていた。笑いながらその台詞を、やじのように飛ばす。誰かを馬鹿にするような声によく似ている。そいつらの顔はどれも雪のせいではっきり見えなかった。
僕がそいつらに向かって一歩近づくと、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「逃げろぉ~。殺人サンタが来るぞぉ~」
茫然と一人、立ち尽くす。
殺人サンタ、そんな恐ろしい存在を示唆するような台詞を聞いて、僕の心を埋め尽くしている感情はしかし、恐怖や不安ではなく、ましてや、困惑でさえなかった。
「……ああ、なんだ」
そんなことか。
忘れていた内容のあっけなさに、またそのなつかしさに、ただ一人、立ち尽くすしかなかった。
僕と、その父について。
小学二年の冬。僕の父は人を殺した。
父はバス会社に勤める運転手だった。ある日、父が運転するバスが歩道に突っ込んだ。それは父の運転ミスではなく、車のブレーキが故障していたことが原因だった。このまま赤信号を突っ切りことよりも、歩道へと車線を切ることを選び取った父の判断は、正しかった。しかし結果として運悪くそこにいた一人の小学一年生が犠牲となった。
非は整備会社にあって、父にはない。誰もがそのことを理解していたが、少なくとも僕の周辺にいた人間たちは納得しなかった。トロッコ問題のレバーを引いた責任を、そしてとばっちりのような非難をともに、父はその身に背負うことになった。
父が人を轢いたショックはもちろんあったが、当然、当事者の方が心の痛みは大きいわけで、引きこもりがちになった父の背中を見ているうちに、そんな父を追い詰めた現実の全てに対して憤りを感じるようになった。
僕へのいじめもその事件をきっかけとして始まったが、父の苦しみに比べれば、語るに足らないくだらないものばかりだ。
殺人サンタがいい例だろう。その頃の僕の同級生は誰でも、サンタクロースの正体に気付いていた。そして僕は頑なに、サンタの存在を信じていたのだ。そのことを周りが揶揄して、殺人サンタが来るぞ、と脅す。僕はそのせいで、サンタと父が同一人物であると認識せざるを得なくなった。
しかし、そんなのはまだかわいいものだった。
未来永劫僕には、本物のサンタどころか、殺人サンタまで来なくなったのだから。
父が自殺したのは、ちょうどクリスマスの一週間前だった。
母は泣き崩れ、僕を抱きしめる。僕は母の腕に手を回すと同時に、目の前から何かが崩れ去ったのを実感した。それはまた同時に、様々なことを僕に痛いくらいに知らしめた。父という存在がもういないことの意味。サンタクロースは子供に向けられた甘い幻想であるということ。
そして、もう僕は、大人にならなければいけないということも。
父が自殺した理由を僕は知らない。周りの非難に耐えかねたのかもしれないし、当時僕より一歳小さい子供を亡き者にした罪悪感がそうさせたのかもしれない。が、どちらも僕の推測の域をでない。
ただ言えることは一つ、
父は誰よりも立派な人間だった。
しばらくして僕は再び歩き出す。
思い出したそれは、今となっては自分の中で解決した問題だった。別にいまさら掘り返すようなものではない。
「…………」
しかし依然と、眠りに落ちる前のもやもやが晴れない。
「……なんで、泣いてたんだっけ」
雪の日。それも大量の雪。
ちょうど、今のような。
気づけば、暗闇が晴れていた。そこは一面、銀世界。と、言うより、やりすぎなくらいの白。ほんの少し先さえ、見えない。これじゃ、さっきの暗闇の方がマシだった。
風が強い。思わずバランスが崩れそうになる。しゃく、しゃく、と雪を踏む。全然前に進めない。それに前なんて。
「……そもそも、どこに行くんだっけ」
ずるり、と右足が流れた。視界が傾き、雪に突っ込んでしまう。
「痛って」
足音がした。
「なあ」
声。
「なにしてんの? お前」
目を開く。そこには、僕を覗き込んでる奴がいた。
「いや、え?」
それは、小学二年生の、あの日の僕だった。
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