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映画44「月」

とりあえず感想

「津久井やまゆり園事件」をベースにした小説の映画化。
一言で表現するならば
俳優を味わう映画。
宮沢りえちゃんを観に行ったのだけれど、
全員が素晴らしかった。
きっと役が終わっても、ずっと考え続けて、
そしてそれはほんとに肥やしになるんだろうって思えた。
それを肥やしにできる人しか出ていないんだろうとも。
そして、みんな見てほしい。

私はあの日のことを覚えている。
独占欲の強い、(当時の私には見合う)つまらなめの男と一緒にいた。
「えぐいわ〜」
と言っていたような気がする。
嫌な記憶が一緒になっている。

その後、家族と旅行に行ってたまたま津久井やまゆり園の跡地を通った。
本当に深い森の奥にそこはあって、
そこに押し込めていた「健常者」の業をも感じる。
しかし、障害者コロニー構想みたいなのがあった時代もあったことだし
すべてのことを現代の価値観で判断をするのは難しいことである。
特別教育を受ける権利が今ではあるけれど
「就学免除」という名のもとに、教育から見放されていた時代もある。
私宅監置(家によっては座敷牢形式だったり)が合法であり
呉秀三博士が

「この病を受けたるの不幸の他に、この国に生れたるの不幸を重ぬるものと云うべし」

と著書に書いた(これは看護学校の教科書から引用)時代もあったのだ。
大きく変化はないといえばないのかもしれないが。
今も強度行動障害を持つ人の受け入れ先は、なかなか見つからないのが現状である。

できないこと

仕事柄、重度の障害のある人と接することがあった。
障害認定をするときには
「できないこと」
にフォーカスして話しがち。
確認していて私はすごく嫌になってしまった。
その人はすてきな絵を描けるし
笑顔はもちろん私よりうんとかわいらしいし
手もつないで私とお話ししてくれる。
私がその人の言語を理解できない、
私の方が「できない」のだと
その時に強く思った経験がある。

言語だけ

言語を獲得しているかどうかで
いろいろなことが変わる。
だけど、オウム返しだけの場合もある。
この場合は言語の獲得と言えるのだろうか。

自分の感情や思考を言語化できることで
進むこともあると思う。
例えば思考は深まり、感情も厚みを増す。
「話が通じない」
のは、受け取る側の心の貧しさじゃないかと最近は思う。
飛びつきやすい平易な言葉にしか反応できないことも
同じで、言葉の外周部にあるものを読むことができない。
空気を読むとはまた違う。

平易が安易を作る

「平易な言葉」と「キャッチーな敵づくり」みたいな
本のタイトルには私はうんざりしている。
そこには何の心も感じられないし、人への悪意を煽る
浅はかな、年齢で言えば10歳くらいのギャングエイジの子どものような
ものを感じてしまう。
子どもならいいけれど、大人がそれにのっかって
優越感やらその他のいい気分になっているのは
私にとっては醜悪に見える。
平易な言葉が安易な思考を作るような気がしている。
だけど、子どもの言葉がまっすぐに心に届くこともあるので
そうとばかりも言えない。
平易な言葉でも、たくさんの人の考えに触れて
そのうえで自分の考えを積み上げていく作業を
面倒でしなくなる、だけかもしれない。
人間は私も含め易きに流れるものだから。

さとくんが、高齢者施設で介護する仕事に就いていたら。
同じような事件を起こしただろうか。
そんなことをふと考えてしまった。

鏡しかない世界

答えなんて、どこにもない。
考え続けることだけが答えだ。

さとくんはきっと、鏡しかない世界に入ってしまった。
他の人の考えに触れることはなく、独善的な、
最近の言葉ではフィルターバブルとやらかな。
すべて、自分。
自分しかいない。

でも彼は、自分は有用だと、なぜ思えたのだろう。
有用な人間であると思えたのはなぜなんだろう。
私は後述のように、有用になる以前に「生きてていいのか?」から
スタートしているせいか、自分が有用で、粛清する側の人間だと思えたのはすごいな・・・と単純に感心してしまう。

無知は差別の母。なのか。

この記事にも書いたように結構な中二病だった私がよく考えたのは
「差別について」だった。

私は「女の子で残念」と生まれた瞬間に言われ
「お前の親離婚してるんだってな」「母子家庭の子とは遊ばないように」
などなど、「そういわれましても」な差別に囲まれていた。
それは事実であるけれども、なんで差別につながるのか、
幼い私は全く分からなかった。
ちなみに今も分からない。
自分と違う人間だからって差別してたら、自分以外はみんな差別することになる。
お前と同じ人間が世界にいるのかよ?
と思っちゃって久しい。
「違う」「知らない」だから「怖い」→差別
なのは、しょうがないのかなあと思いつつも
そこを乗り越えるのが人間の叡智ってものでしょう?と
なったのが中学生なので、ずいぶん友達がいなさそうだ。
今も別に友達がいるわけではない。

マトリョーシカ

しかし、
差別する人を私は馬鹿にしちゃうな・・・となったときに問題がおきる。
私が差別してんじゃん!
叡智を手に入れる努力もしないで平気で人を差別するところに安住している人と同じではないか。
私が私を見下すようになってしまう。
循環小数というか、循環参照(Excel)というか、そこに嵌まり込む。
私はどういう風に立っているのが私の魂のためになるんだろうかと
ずっと考えてきた。
ある日私は、「考え続けることだけが答えだ」と決めた。
何かの事象を見聞きしたり経験したときに、
流したりせずに、その都度、しっかり考えて自分の意見を持つ。
そうし続けるしか、できないと考えたのだった。

人間であるために

考え続けることだけが、私が人間であるための最低限の条件のように感じて
あらそれって考える葦っぽくて、これを言ってたのかな、パスカル。
無学なもので読んでいないから、何とも言えないけど。

言語を獲得した私と、
言語を獲得したあなたと。
理解しあおうと努力し続けること。
これだけが、人間を人間たらしめるものではないのかと
最近の私は思うのだ。

戦争など、している場合ではないのだ。
生命としての人間を愛せる人で、私はありたい。
そんな、人間できちゃいないんだけどさ。




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林田りんだ
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