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映画5・この世界の(さらにいくつもの)片隅に

「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」
「この世界の片隅に」は映画館に観に行って
友達にも勧めて一緒にネットフリックスで観て
更にまた勧めて観てたら「あれ?ながい」というわけで
図らずも観てしまった(さらにいくつもの)。

原作も読んでいたので、ここらへん忠実でいいなあと思いながら。

私は日常の強さというものを何となく信じている。

恋や愛も、例えば結婚してしまうと
日常生活の強さに負けてしまう。
圧倒的な現実なのだ、特に育児をしている最中は。
立ち止まることもできない激流。
逆流なんて無理無理。
浮かれてキラキラ恋愛していた時に「戻る」のではなく
新しいキラキラをふたりで創り上げていくしかない。
それを「ふたりで」できるかどうかが
夫婦生活の秘訣なんじゃないかしらなどと
思ったりもする(できないけど)。

それはともかく「この世界の片隅に」とは
全く別のものだと考えて観た方がいいかなと思った。
心の違うところにぶっ刺さってくるというか。

きっと日常生活って、そういうもの。
人によってぶっ刺さる場所も違えば、ぶっ刺さる人も、そうでない人もいる。
そもそも「丁寧な暮らし」をしている人は、別にそんなこと言ったりしない。
でも「雑な暮らし」ってなんだろう。
そういうようなこと。

朝起きて、ご飯を作って、食べて
働いてお風呂入って寝る。
そういうようなこと。
毎日同じなようで、絶対に違う毎日を
私たちは生きている。
同じだと思いながら。


私達の日常生活は、すごく後になって
「戦時中」になるのかもしれない。
「戦後」がまだ続いてるのかもしれないし、
「戦前」かもしれない。
だけど、私達は毎日をただ過ごしていて
明日も同じように隣にいる人は隣にいてくれる。
と信じて生きている。

恋人を突然死で亡くしたことのある私は
本当は毎日が怖いし
今、私を抱きしめてくれるこの人は明日はいないかもしれないと思う。
いなくなるのが私だったら、その方が苦しくないのに、とすら思う。
遺される苦しみを愛する人に味わわせたくないけれど。

こんな風に考える私にも平等に明日は来る。
生きていても死んでいても、明日は容赦なく。
そして、世界の片隅でこんな風に生きている私もいれば
私の手を握ってくれる人もいる。

世界中に片隅はあって、
それぞれの日常を、
それぞれに生きている。
苦しくても悲しくてもなんででも。
やっぱり世界は嫌いになんてなれないくらいに
美しいな。

おしまい。

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林田りんだ
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