12月12日 聖母グアダルーペの日 (#カトリック歳時記)
子どもの頃、我が家ではクリスマスはサンタさんが枕元にプレゼントを置いてくれる一大イベントでした。
五十歳を超えた今、心が温かくなるかけがえのない子ども時代の思い出です。
ー聖母ー 実はカトリックにとってキリスト誕生を祝うクリスマスに欠かせないのが聖母の存在です。日本でのクリスマスは、商業クリスマスがほとんどですが(離婚するまでの私の人生のほとんどがそうでした)、歴史・宗教の視点から考えるクリスマスの祝い方は、私の心を豊かにしてくれます。高校の歴史の授業で、このようなことをちょっと知る機会があったら、クリスマスの見方も変わったかなぁ、なんて思ったりします。
長いカトリックの歴史には、国や季節によって祭事が盛りだくさんです。12月12日はメキシコで聖母グアダルーペの祝日があります。16世紀に農夫・ホアン・ディエゴが聖母のお告げを受けて数々の奇跡が起こりました。その地、メキシコ市近郊のテペヤクの丘に、グラダルーぺ寺院(Basilica of Our Lady of Guadalupe)が建立されました。2022年の12月12日には1250万の巡礼者が訪れたそうです。サボテンの繊維で作られたマント(Tilma)に描かれた聖母も500年近く健在します。これも奇跡です。描かれた聖母の瞳の中を2500倍で見ると、ホアン・ディエゴが描かれているそうです。これも奇跡です。
科学で証明できない数々の奇跡が重なると、人間には信仰というものが生まれます。大学の街で子供を育てている我が家が通うカトリック教会には、大学で科学の分野を教える教授たちとその家族がミサにきます。天文学であれ、医学であれ、その分野を深く研究する知識層こそ『目に見えない力』の存在を認めているからだと思います。
子供の頃に訳があって短期間、両親が教会に通った時期があり、その時はプロテスタントでした。九州などの地域でしたら、カトリックはそこらじゅうにあると察しますが、東京の地域ではプロテスタントがほとんどです。季節の祭事もクリスマスぐらいしかありませんでした。プロテスタントはキリスト中心の教えですから、聖徒やキリストの両親や従兄弟について学ぶことはほとんどありませんでした。もちろん、私の子供時代の記憶には全く残っていません。
離婚してから聖母の存在を強く意識するようになりました。私の場合、両親両家の家族価値観であった『子煩悩』がしっかり身についてしまっていたので、子供を守ろうとする母性本能が人一倍強かったような気がします。典型的な西洋社会(=うちの場合はアングロサクソン系)での家族形態である、夫を第一優先にしてまわる家族スタイルは、アングロサクソン系の家族で育った元夫には大変苦痛だったに違いありません。そこから夫婦間に信頼関係の歪みが出たのは事実です。若い頃は分かりませんでしたが、今思うと、私のような家族の価値観を持つ母親は、子煩悩が多いラテン系の夫と一緒になるべきでした。それから我が両親を見て思ったのは、彼らだったら絶対にカトリックだった、と確信しています。例えば…ミサの最中に幼い子供が日曜クラスへ移動するのですが、生涯に通った3つのプロテスタント教会ではなかったような気がします。子供と大人が最初からきっかり分かれるのです。ミサでは子供達が日曜クラスへ移動する際に、祭壇へ集まり、神父さんが『皆さん、一緒にお祈りしてください。この子達が神様の庇護を受けますように。』と呼びかけて、みんなでお祈りします。祭壇の前にワサワサ集まった大小サイズの子供たちがなんとも可愛い!ではありませんか。子供たちを見て、私は将来に希望を感じます。このミサの小さなルーティン、この地元の教会コミュニティーが大好きです。
話がそれましたが、聖母について。カトリックでは聖母の存在が多大です。自分が母親になってから、聖母についてよく考えるようになりました。聖母とされる人物は、母性本能のかたまりです。母性本能が強い妻・子供たちの母親をウザがるような男性、私にとっては元夫、彼が私を捨てた理由は、実は運命だったのかもしれない、と近年思うようになりました。今まで、離婚は自分が至らなかったせいだ、かなり長い間、罪悪感に苛まされていました。ある日突然、なんの前触れもなく、重い肩の荷がふっと下りた、とでも言いましょうか。カトリック的に申しあげれば、聖霊(Holy Spirit)である神の使い・天使がパタパタと地上に降りてきて、私の隣に座ったかと思うと、『あなたのせいじゃないよ』と神からのメッセージを耳元で囁いてくれたこと。これは、当時凹んでいた私には、かなり大きかったです。
運命。それは神様にとって、私が大切だったから。神様は、夫よりも子供達が守られなければいけない価値観を持ち続けるべきだ、と私に伝えたかったのかもしれません。だから元夫が離れたのでしょう。なんともがいても私の力ではどうしようもできなかった離婚前の現実。
大人一番の社会で育てられたアングロサクソン系の元夫には申し訳ないですが、短い人生の中で親から授かった家族の価値観、時代を経ても子供や弱者が労ってもらえるような社会でならなければいけない、という価値観を信じていた私に太鼓判を押してもらって本当によかった、と思います。自分が信じる価値観がわからないまま、家族がバラバラになってしまった人生を終える方もいらっしゃる訳ですから。子供を優先に育てるということは、甘やかすこととは全く異なります。親にとってはめんどくさい、自分のキャリアを差し置いて苦渋の決断であったりします。『決定するもの』が、最終的には子どもにとって家族の価値観のコアを築き上げるのに最善策である、という優先順位のことであります。社会福祉も同じです。自己満足のために、社会が寄付するだけではその方の解決になりません。メンタルケア、カウンセリング、職業訓練、見守ってくれるサポートグループの構成と運営があってこそ、どん底から独り立ちをサポートできるのだと思っています。
この社会の意思決定において、本末転倒になっているケースがこの世の中にどんなに多いことか(自分も含めて)。日常生活でも『あれ?もしかしたらこれは潜在意識の中で自分の気持ちを優先させるためだったのではないか?』と思うことがよくあります。よく考えると、毎週必ず1つあります。そうです、同じ間違いを繰り返したり、既存意識に縛られた盲目だったり、何でもないことで人を平気で傷つけたり、人間は所詮は全知全能な神様の前では、ちっぽけな存在で罪深い存在なのです。このような心境に達したのは50歳を過ぎてからでした。だから教会には年配の方が多いのでしょうね(笑)
私にとって毎週日曜日のミサは、神様と対話をする時間、自己反省のメディテーションの時間です。
皆さんは、明日にちょっとでも成長した自分になるため、どんなメディテーションを実行されていますか。
この機会に、カトリックで様々な偉業を成し得た聖徒を、是非読んでみてください。現代の世界でロールモデルが少ない中、きっと開眼することがあると思います。そして『目に見えない力』とは何か、宗教という枠を超えて、じっくり考えてみてください。
🎄メリークリスマス🎄
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