怒りと悲しみの受容について
令和の時代になんだが、伊藤公雄先生などの仰る通り、公的に「男らしさ」のなかに「怒り」が許容されやすく、「女らしさ」のなかに「泣く」が許容されやすい。この文化への知覚が人の行動をそれへと向かわせていると改めて感じる。
前者が強者で、後者が弱者のようにみえるが、強者もまた弱者であり、弱者もまた強者。どちらも元の感情は同根であり、刺激や状況変化に対する「わからなさ」「手の打ちようのなさ」「途方のなさ」の表現に思える。
この怒りや悲しみについて、心理学者のアドラーは、相手の気を引きたい、相手の行動を促したいなどという目的をもって、怒りたいから怒り、泣きたいから泣くという。
では、一人で怒り、一人で泣いていたら?
この場合は、あえて今の自分の状況を把握するため、抱えきれぬ遣る瀬なさを押し流し、カタルシス(浄化)を得るためなどかもしれない。自分のなかに沸き起こる違和を、やりやすい方法で、わかりやすい形に、分類し、認識する。認識が対象にしたがうのではなく、対象が認識にしたがう。私たちは、自分をわからせ、落ち着かせたい。
であるから、この感情表現を手段とし、共感者を求め、危機から逃れようとすることは「悪い」ことなのだろうかと疑問がわいてくる。一般的に「悪い」とされがちだが、「よい」面もある。合理的でもあり、また仕方のないことでもあるのではないか。
ただし、一旦感情のスイッチが入ってしまうと、慣性の法則によって、感情が増幅されてしまう。自分では抑えきれない。誰か私を止めてくれ。心の中でそう叫ぶ。こうなってくると、他者を傷つける可能性も出てくるから慎重にならねばならない。
アルフォンス・デーケンは、悲嘆のプロセスを次の12段階に分けた。もちろんこれは人によって感じ方は異なるし、いくつかの段階が同時に現れたり、いったりきたりもする。
今、自分がこのどこにいるか。怒るでも泣くでもなく、少し離れて自分を見つめられると、感情の暴走が抑えられ、小康へと向かうかもしれない。