ミュージカル『ヴェラキッカ』2022.1.16

あのバルコニーからノラの眺めた荘園は、ノラ自身は見ることの叶わなかった、幻の園だ。

私たちが見せた、ノラがそう望むなら、ノラの望んだことをしてやりたいと思うのは他ならぬ私たちだ。
それは、「愛されたいという望み」に「愛してやりたい」と返すこと。「愛せ」と命じられながら、まぼろしの愛にまどろみながら、ヴェラキッカの一族は「もういないその人」を想う気持ちにノラを重ね、確かに愛していた。

ノラ・ヴェラキッカ 愛の容れ物

感想と言うよりこの舞台をこういうふうに解釈しました、という記録です。
※ネタバレ配慮してないです。
頓珍漢なことを書いているかもしれませんが大目に見てください。
当方TRUMPシリーズ初見、他作品の時系列未履修、隅っこの宝塚ファンです。美弥さんの舞台姿が見たくてお邪魔しました。
噂には聞いていましたが、とにかく伏線回収が面白かったです。そして個人的には、顔のないキャラクターがストレートにストライクなので、ノラの正体が最高に最高でした。それにしてもイニシアチブ記憶消しがち…。

通して、だからシオンが最初にキャンディを迎えに来たんだなあと思います。
シオンだけは、ノラに向ける愛情が他の家人達と違って、ノラを見守ってばかりなので、キーパーソンなのだろうと予想はしてましたが、「命じた側」のシオンにしか、荘園の外に出てたり、外交を行うことはできないってことですよね。
それにしても、あの日屋敷の全員を噛みまくったシオンが壮絶で、かなり苦しそうだったんですが、複数の血を摂取する、または複数のイニシアチブを取ることへのリスクや代償はあるんですかね。単純にお腹いっぱいでグロッキーなだけなんだろうか。噛むだけで吸血は不要なのかな。有識者の方は「これを見ろ!」してください。

おそらくシオンが破綻しかけたとき、ジョーやカイがノラへの愛に不信を抱いた理由は、カイにとって「愛した者を亡くした気持ち」が無く、ジョーには(カイという)「生きてそこにいる人を愛している気持ち」が有るからなのではないかと思います。
「最初からそこに居なかったみたいに!」の解答が「本当に最初からそこに居なかった」事実と過去なのは、意表を突かれました。事実が最も残酷な展開をした、ということがノラ・ヴェラキッカが「愛の幻」に昇華するトリガーでもあって、シンプルに辛い上に、その答えが正解なのも輪をかけて辛さが刺さりました。

だから、ヴェラキッカの屋敷に元々いた人物たちは、外から来た養子たちとは愛の出力が少し違うんですよね。ノラの孤独に対する「愛されたい」と「愛したい」の関係では無く、支配や独占を目的とした愛の形であり、マギーやクレイは「ノラから愛されたい」に固執している。ウィンター含め、元から屋敷にいたために、養子とは別のコンプレックスを持っている者たちというのが理由なのかと思いました。
誰かしらはノラを殺すだろうと考えていましたが、キャラクターの立ち位置に線引きがされている上で動かしていたとは、ようできてんなあ…と感心してました。

あと、設定の作り込みの巧さというか、ようできてんなあ…と思ったのは、「血盟議会に反対しているから、クランには行かせない」という建前。
理由が違うんじゃあないですか…ノラの不在を繭期の養子たちに気づかせないため、イニシアチブの影響から外さないために「クランには行かせられない」ってことですよね。
イニシアチブに距離的なものがあるかはわからないんですが、執ってる側の精神状態がかなり影響するようなので、不確定要素は減らす必要があるかと…あと薬を定期的に接種する必要が…待ってあれなんの薬ですか?本当に抑制剤?有識者の方ー!!


ヴェラキッカ家に集められた孤独な者達が持つ「誰かを愛し、愛されたいと渇望する思い」によってノラの共同幻想は形作られていて、シオンはそれを利用して、多くの孤独による”ノラ”という共同幻想を構築したのだと考えています。シオンにとっての”ノラ”のアイデンティティである「孤独」を集めてノラを作ろうとし、「ノラ・ヴェラキッカ」そのものはそこに存在しなくても、ヴェラキッカの一族がそれぞれに確かに持っている愛の、その欠片の寄せ集めのノラへの「愛」は確かに存在していると言えるのではないかと思います。
ただ、それが良いかどうかはわかりません。

シオンが養子たちをノラを愛する者として受け入れたのは
「もういない人へのさみしさ」を共有できるからかなあと思うんですが、
シオンが好きだった(恋をした)ノラを見、愛せるのは、
シオンの中ではノラと同じ境遇の者たちだったのかなと思います。
ノラが「愛されてみたい」とこぼした言葉には、「シオンはボクを愛してはいないね」と言外にあると、シオンに捉えられかねないようにも思えて、
シオンはそのためにノラの幻想を愛することが自分にだけはできない、という枷がかけられてしまったのかとも思いました。
「自分以外の」多くの人にノラが愛されることが、シオンにとっての望みだったのではないかと。そしてその枷だけだけが、本物のノラがシオンに与えたものでもあって、シオンが自身では外すことのできない理由になると。

「ただ燦然と愛してほしい」という言葉が、シオンを通してみると、
シオンの恋心はノラに全く届かなかったと思っていること、を内包してしまうんではないかなあと思います。ノラは光の中で愛されたかった、光を与えられなかった俺はノラに望まれてはいなかった、というような余白を考えたりしました。

シオン=ノラを失った=失った人への愛=養子たち、というねじれた式があって、シオンにだけは”ノラを失った”というノラ・ヴェラキッカとの断絶があるために、ノラの形に自分の愛をしまうことはできず、他の喪失者たちから、断絶した、失った人への愛の容れ物(宝箱)として、ノラ・ヴェラキッカに永遠の愛が注がれる、というような構図なのではないかと思いました。
ノラへの愛をノラの空白には置くことができないが、ノラ以外への愛で「愛されるノラ」を形作ることはできるという、歪さを感じました。失った人への愛は永遠ですからね。
そして「永遠に荘園を見つめるノラ・ヴェラキッカ」という幻想だけが最後に残った。本物のノラはもういないけれど、シオンがつくろうとしたノラはシオンを愛してくれたのでは、という慰めのような感情が残りました。

シオンとノラの関係性で物語を結びつつ、やっぱり「ノラ」の形を通して数多の愛を具象にする「ヴェラキッカ」の物語であり、ノラ・ヴェラキッカ が主演の舞台だったなあと、反芻すればするほど思います。
1幕ラストの共同幻想に観客を巻き込んできた演出には目をむいたし、
2幕ラストでもう一度夢に引き込んでいくのもたいへん魅せられました。
「ノラ・ヴェラキッカ 」が真ん中にいる物語としての結末は美しかったです。

あの場面がどうとかこのシーンがどうとかもっと書けたらよかったんですが、ひとまずはこの「空っぽのノラ」と「シオンの枷」と「養子たちの愛の確証」の可能性の話がしたかったので、失礼します。まとまりのない文章をお読みいただきありがとうございました。
姿形が変わるし、性別は明言されないし、と言う要素を前半は純粋に喜んでたんですが(好きなので)、誰も本当の姿形を知らないということの完全な伏線だったことに純粋にショックを受けましたし、数多の愛を閉じ込めた、変幻自在の美弥るりかさんそのものでしょうこんな演出は…と天を仰ぎましたね…。美弥さん以外にはできないですよ本当に…。
ナンバーがアップテンポでポップでちょっとタッキーなところは宝塚ではなかなか摂取しないので、新鮮で楽しかったです。
とても良い意味で、複雑な感情が残る舞台でした。

大千穐楽おめでとうございました。
面白かったです!ありがとうございました!


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