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思考パターンと認識能力 (外村江里奈)

外村江里奈
(博士(学術)、東洋大学文学部哲学科非常勤講師、清泉女子大学非常勤講師、一般社団法人社会科学総合研究機構 理事)

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つぎの会話を読んで、どのような感想をもつだろうか。

「民主主義(・・・・)ってどういう意味だ?」
「民主主義というのは人間の権利を守るという意味さ」
「権利(・・)って、どういう意味だ?」
「権利というのは神様がわれわれすべてに与え賜うた特権のことさ―¬つまり人間の生まれつき持っている特権さ」
「たとえば?」
「自由などもそれだ」
「自由(・・)って、どういう意味だ?」
「信仰や政治の自由さ」
「信仰や政治の自由って、どんなことだ?」
「信仰や政治の自由ってのは、われわれが民主主義のもとで享受するものさ」

実は、こうした「考えのすすすめかた」を、極度に警戒すべきだとハヤカワは警告している(1)。なぜなら、これは「高い言語的レベルの抽象からどうしても離れられない考えかた」だからである。
では、何が問題か。ハヤカワによれば、こうした「考えのすすめかた」における問題は、言葉を発した者自身で「言語のどうどうめぐり」に陥って、しかも自分が無意味な音声をはなっているだけだということに気がつかないことが多い、という点である。
つまり、何か内容のあることを言っているときと、そうではないときとの区別が、受け手にできないだけでなく、発信者自身が区別する能力を見失う(見失っている)ということである。ところが、上述のような「考えのすすめかた」をもって、「思考している」と錯覚する場合が、誰しも多分にあるのではないだろうか。
本文では、上述の「高い言語的レベルの抽象からどうしても離れられない考えかた」を起点に、人間本来の思考パターンを検討してみたい。本文が、つぎのような点を確認する契機となれば素敵だ!
(1)一般的だと思われていることや抽象的な事柄に対して、具体的な状況や事例を想定したり、自身の経験と照らし合わせたりして、思考できているか。
(2)反対に、物事を一般化して、抽象化して普遍の原理原則から演繹する思考方法を存分に使用しているか。
(3)さらに、具体と抽象の間を、自在に行き来して、物事を捉え、自身の言いたいことを的確に表現できているか。

人間本来の思考パターンは、抽象的思考と具体的思考のディスクルスス(discursus:駆け回る、右往左往する)である、と中世末期の哲学者ニコラウス・クザーヌス(Nicolaus Cusanus, 1401-1464)は捉えていた。たとえば人間は、「今日のランチは何を食べようか」と具体的な事柄を考えていたかと思えば、つぎの瞬間には「神様っているのかな」と至極抽象的な事柄を考えることができる。
私たちの思考は、無意識のうちに常に具体と抽象の間を駆け回り、ときには行ったり来たりして思い悩み、右往左往している。人生における右往左往と同様に、思考においても右往左往は欠かせない。なぜなら思考における右往左往こそが、事象を明らかにし、論説や論文を産み出すからである。あるいは会話や講演を成立させるからである。論説、論文、講演、談話、会話などの意味をもつdiscourseの語源が、discursusであるのも合点がいくのではないだろうか。
このような人間の思考パターンゆえに、たとえば、抽象的な理論を具体的な事例におとして捉え直すことで、より理解しやすくなる場合がある。反対に、個別的で具体的な個々の事例を抽象度の高い語句でまとめることで、思考がより整理される、というような場合もある。
しかし実際には、抽象度を自在に調整するのではなく、同じ抽象度にとどまり「どうどうめぐり」している場合が多い。そして、この「どうどうめぐり」によって、さらに「二項対立思考」にも陥りやすくなる。自由と必然、心と体、善と悪、陰と陽、特殊と普遍、自由主義と社会主義など、私たちは、事象を二つに分けて把握する傾向にある。こうした事態には、人間の認識能力が関連している。

人間の認識は、感性・悟性・理性という能力の三位一体によって成り立っている。クザーヌスによれば、悟性の本質が、「駆け回る (discurrere) 」ことである。悟性は、分別知や比量的な認識をつかさどり、あらゆる識別の由来である(2)。悟性は、感性を道具的に用いて、感性が混乱のまま感取した粗雑なものを「あれ」や「これ」というように区別する。ただし悟性は、分別はするがそれらの統一的な把握はしない。それゆえ、相対立するものの一致は不可能だとみなす。
 これに対して、理性の本質は「みる (videre) 」ことであり、感覚的なものから解き放たれている(3)。また「理性は唯一、普遍が存在する場である」(4)。理性においては、相対立するものや相矛盾するものを一致のうちに、その関係性を観てとることができる。すなわち理性による認識は知的直観であり、それ自体で事物の不変なる本質を把握することができる。
 近代以降、さまざまな領域で悟性による認識が重視されてきた。このことは、同じ抽象度において、「どうどうめぐり」をする深化しない思考が、あたかも「思索」であるとされてきたことを示しているのではないだろうか。本来、人間は抽象度の高低を行き来しながら、右往左往しながらも思索し、豊かに言葉を選択できるはずである。あるいは、高いレベルと低いレベルの抽象間の相互作用を味わうことができるはずである。
さて、クザーヌスによると、理性の本質である「みる」ことは、「味わうこと、探究すること、慈しむこと、作用させること」である(5)。感覚的なものから解き放たれつつ、いま、ここにある豊かさを「みる」こと、それが今後、懐かしくも新たなコンパスとなりそうである。

【注】
(1) S.I.ハヤカワ(1985)『思考と行動における言語』(大久保忠利訳)岩波書店pp.181-182
(2) (De doct. ign.1, c. 4, n.12=24) Cusanus, N. (1440). De docta ignorantia, Nicolai de Cusa opera omnia, iussu et auctoritate Academiae Litterarum Heidelbergensis ad condicum fidem edita. E. Hoffmann et R. Klibansky, Vol. I, [1932] (1994 山田桂三訳『学識ある無知について』平凡社)
(3) (De doct. ign. 3, c.4, n.205=222)
(4) (De coni. 2, c.13, n.134) Cusanus, N. (1440). De coniecturis, ed. I. Koch et C. Bormann, I. G. Senger comite, Hamburgi, Vol. Ⅲ, [1972]
(5)(De vis. c.5, nn.13-16=29-34) (1453). De Visione Dei, ed A. D. Riemann, Vol. VI, [2000]. (2001八巻和彦訳『神を観ることについて』岩波書店)


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