同じ話も「誰が話すのか?」で同じ話にならない。
悔しい経験とは誰もがするものだ。僕の場合、
「結局のところ結果を出さないと、人には何も言えないんだな」
という現実を目の当たりにした時、「悔しい」という感情になる。これは具体的にどんなシーンかというと、
例えば、普段生活をしていてよくあるのはこれ。
親交のある人と、お酒を飲んだりして、ちょっと深い話になったとする。それで最終的には「人生の本質はこうだよね」的な話になる。
そこで僕は、自分が普段からあたためてきた渾身の論理を披露する。熱量もMAXだ。すると大体こんな感じになる。
・・・あれ?おかしいな。ぜんぜん刺さってねえぞ・・・
口にだしたり、顔に出ていなくても、
人間の機能というのは素晴らしすぎて、
(もう少しここに関しての性能は低くてもいいと思うのだが)
刺さってないのは、なんとなくわかってしまうものだ。
でも、これは仕方がない。いやむしろこういう場面で、「いやいやもっとちゃんと聞けよ!」とマウントをとるような態度は嫌いだ。
人それぞれ置かれている状況も違えば、周りの人間関係も、目指してるところも違う。だからそれぞれの正解があるのだから「人生観」を無理矢理すり合わせるような行為は無意味だ。それは理解している。
「悔しい感情の話」はここからだ。
その飲みの席でのことは僕の心の中にしまうことになる。当然、その自分の中では本質だと思っている論理に関しても心の中にしまうことになる。
そしてその後も、その親交のある人とは、関係が続くわけで、するとこういう場面に出くわすことがある。
「この前、〇〇ってすごい人が、ブログで△△って話書いててさ。なるほど!って思った。君もこの話絶対読んだ方がいいよ。つまりさ〜」
という時の、僕に今教えられようとしている△△の話が
「あれ?それ、この前俺が言ってたこととおなじじゃん…」
という時に、「悔しい」
という感情になる。
つまり、同じ内容の話でも、
僕から聞くのか?すごいと思っている人から聞くのか?
で、全然刺さり方が違うということだ。というより、僕からの話は存在すらしていない。例え、それがどんな価値のあるメッセージだとしても、
それを「誰が」いうのか?
で意味あいは、大きく変わってくるものだし。普段からどういうポジションを取っている関係か?でも違うのかもしれない。とにかく同じ内容でも、受け手からすると全く違う意味に聞こえているというのは確実に存在する。
ということで、話をまとめると、
言いたい。伝えたい。
という内容を、自分が相手に届けるためには、
相手からして、その話をききたい存在にならなくてはダメで、今、そこに自分がいないのなら、今、無理に伝えようとしない。それで相手に聞いてもらえないと悶々とするのではなく、
その存在になるためにはどうすればいいのか?とりあえず、今はそうなるためのことをシンプルにやるだけだ。
という今日のアウトプットでした。
最後まで読んでくれた方ありがとうございました!
※今シーズンの桃パフェ第一号。
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