言葉になるものと言葉にならないもののあいだ(人事制度や個人の変容)
人事制度のコンサルティングの仕事に携わることがある。あくまで自らの体験における一つの仮説を述べてみたい。
人事制度の新設計・再構築のコンサル業務では、セオリーとなる手順、規程類の読み込み、定量データ分析、社員の各階層からのヒアリングについて精緻にまとめてコンセプトや表に落とし込んでいく領域がある。これは主力業務と言える。
一方で、コンサルの対象になっている組織や人が培ってきた雰囲気、言い換えるならば組織における言葉にできない何か(以下では「エネルギー的何か」と呼ぶことにする)がどのようなものを纏っているのかを見立てる領域も鍵になる。
このエネルギー的何かは、創業者・経営者の想い、事業の特性、社員の特性、顧客層、事業のライフサイクルなど様々なものが複合的に混ざっており、実際に言葉に落とし込むことが難しい何かである。
言語化できるものは項目別に言葉に落とし込んでいくが、言葉にならないものや複合的に混ざって生じている何かは、自らの五感(六感も)を活用しながらエネルギー的何かとして見立てている。言葉にならないものをただただ感じ続ける。
制度設計の意図から感じとったエネルギー的何かも変革対象とするのか、活かす対象にするのか、経営者の意図や制約条件を汲み取ることが重要になる。既存事業をベースにした制度改編の場合、このエネルギー的何かを活かすような見立てが多くなる。これらを視界から外して制度の形に拘ると運用で痛い思いをする確率が高まるかもしれない。
言語化された領域と言語化できていない領域のあいだを行ったり来たりしながら、組織にフィットしそうな本質を探っていく。制度設計のケースでは、このあいだの見立てに時間を掛けながら、共通の言葉にできるところまで丁寧に進めていく。当然ながら言語化しないと組織内の共通認識にならないからである。
さて、上記のような流れを個人の変容という領域に横展開するとどう考察できるのだろうか。個人という存在も、一つの側面や時間を切り取れば具体的な存在のように表現できるかもしれない。しかしながら、エネルギー的何かまで視野に入れると個人も一瞬たりとも同じ状態は無く、流動しつづける抽象的な存在と言える。比較して、自動車は移動することを目的とした具体的な存在であり、スペックも数値でも表現しやすい。
抽象的な個人という存在は、自身を振り返ってみてもモヤモヤすることもあるし、不確定な存在と言え、我々は自分に◇◇会社の部長や職業人としてのデザイナーというタグを付けたり、パーソナリティー分析などの〇〇モデル、△△タイプであるという一つのストーリーを付与したくなる。人気がある「しいたけ占い」などもその一つとも言える。(これには興味を惹かれる人や全く興味の無い人もいる)
これはこれで自分に足場ができるし、そこを起点に考察することで新たな経験や情報を肉付けしていくこともできる。
他方でこのストーリーにどっぷり浸かって、思考が停止していないか、自由さや柔軟性を閉ざしてないかなどメタに振り返ることも大切な時間と言えそうである。
自己という存在を言葉にできる安心感を得つつ、言葉にならないけど蠢いている何か(エネルギー的何か)を感じながら、流動的存在として見つめ続けることが必要だと思う。
人事制度から個人変容までやや強引に展開してきた感はあるが、私は個々の人のエネルギー的何かをリーディングという技術を使って見立てることを手掛けている。なぜこれを手掛けることになったのか振り返ると、人や組織は常に変容して流動していく存在であり、それをサポートすることが好きであるということにつきるのだろう。
この記事を書きながら思い出したのは、だいぶ昔の教科書に書いてあった方丈記の一節。無常というよりも、変化によって生命の活力が生み出されるかのように。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」