頭の中心に居ながら雪山を登る
2月中旬に北海道の旭岳にバックカントリースキーに行ってきた。
旭岳を含む大雪山連峰は、カムイミンタラ(神々の遊ぶ庭)と呼ばれることもある。
バックカントリースキーは、時には2~3時間ほどスキーを履いたまま、雪山をひたすら登ることがある。
白銀世界の中を一歩一歩と高度を上げていくことは、身体的にきつくもあり、楽しい行程でもある。
その行程の中、私は自分の頭の中心に居続けることを大切にしていた。
私が実施しているエナジーワーク瞑想に頭の中心に居る(以下、「センターオブヘッド」と言う)と呼ばれるツールがある。
このツールを学ぶ以前に、私は集中して取り組んだ方が良いことを目先に置きながら、過去や未来の課題のこと、後で考えれば良いことなどに思いを巡らして、頭の中心に居るというよりもあっちこっちに思考や意識を次々に飛ばしながら過ごすことが多かった。
結果として、目の前のことを終えるのに予定の2倍、3倍の時間を掛けてしまっていた。要するに非常に効率悪く物事に取り組んでいた。
センターオブヘッドとは何か?を言葉で語るには、説明したことにさらなる補足説明を書き連ねないと伝わらなくなりそうなので、簡単に一つの例として記載してみたい。
あくまで私見であり、本質は体験そのものに宿る。
自分の意識をセンターオブヘッドに据えたまま、他者の想いや思考などによって、自らの頭の中心がどの程度の影響を受けているか、又はこの瞬間の事象以外にどの程度脳の働きが奪われているかという事にメタな状態で気づきを持ち続けることと言える。
忘れずに記載しておきたいことは、他者の思考が自分の中に混じっていることが悪いと言いたいわけではなく、他者からの影響も含めて自らが何を選択して、行動しようとしているかに気づくことが大切だということである。
人間という言葉の通り人と人の間を共に生きる私達は、他者からの影響を受けとめて織りなしていくことが自然なプロセスだと思っている。
ただ、他者の意見や考えにどっぷりと自分のセンターオブヘッドが占められていた場合、自分で選択したことを振り返ると実は自分の喜びや想いからではなく、何かに対する義務や責任から、時には恐れから選択していたという事実に気づいたりする。
現在のコロナ禍の状況を踏まえるならば、いつのまにかに形成されていく集合意識にどっぷりと影響されて、自らの選択が見えづらくなったりする。
全ての選択肢に唯一の絶対的な解は無く、相対的な状態から相対的な解を選ぶことは生きることそのもののように思うので、センターオブヘッドからそれらを見立てていくことが大切になる。
深く考えてというよりも直観的に見立てているのかもしれない。
話を雪山登りに戻すことにする。
センターオブヘッドに居ながら、一歩一歩と山を登る。
身体の筋肉がつらいと伝えてくる。
呼吸が取り込んだ氷点下の冷気によって肺がひんやりしている。
目に映る白銀の色に魂が満たされる。
センターオブヘッドから抜け出して、ラードの浮いた熱々の旭川ラーメンを思い出す。
意識が昨日のラーメンに飛んだことに気づき、この瞬間に戻ってくる。
旭岳の火孔からの水蒸気がモクモクと立ち上がる。
センターオブヘッドに居ながら、ただただ地球の鼓動を感じる。
魂と肉体が透き通る静寂の世界を喜ぶ。
今ここに在る。