溢れた言葉が気づかせてくれること
私の部屋には、至る所に昔溢れた言葉たちが落ちている。
使っていないノートのどこかのページ、メモ帳の切れ端、ルーズリーフ、スマホのメモ帳の奥の方等。
このnoteも公開しているものの軽く3倍ほどは下書きがあり、
過去の自分が殴り書いたままになっている言葉が並んでいる。
私は、定期的に頭のてっぺんから足の指先まで体中が言葉で埋め尽くされている感覚になる。
そんな時に、最も吐き出すのに最適な場所を見つけては殴り書いているのだ。
どこにまとめるとも所属するともない言葉たちは、それでも捨てられずに今日もどこかに身を潜めている。
昔の自分が書いた言葉というのは不思議で、読むたび衝撃の連続だ。
並んでいる言葉の1つも意味がわからないことがある。
言語としては理解できるのだけれど、全く共感できない。
その文字と紙から、これを書いたのは同じ自分だよと言われて少し居心地が悪くなるほどに。
とあるノートには、誰かの名前が頻繁に出てくる。
その人が言っていた言葉を丁寧に書き起こし、それにより舞い上がったり落ち込んだりした感情が1つ1つ描かれる。
毎日毎日、期待して、戸惑って、笑って、泣いて、迷って、繰り返して。
結末を知っている私には、それが微笑ましくて、少し羨ましくて、同時に若干馬鹿馬鹿しい。
「あのね、実は今その人のこともうカケラも思い出さないの。」
スマホのメモ帳の下の方に眠っていたのは、ただただ幸せな記憶。
一緒にいた人たちの名前、一緒にしたことが箇条書きで書かれていて、笑顔に溢れた写真が貼り付けてあって、あとは「楽しかった」「幸せだった」それだけが何度も繰り返し繰り返し書かれていた。
書いた後は満足して笑顔で眠ったことが想像できる。
「会える頻度は減ったけど、その人たちは今でも私に愛情と幸福を教えてくれるよ。」
またあるメモ帳には、「死にたくなるほどの」苦しみが書かれている。
自分の期待を越えられなかった、他人の言動で自分の価値を見失った、ありとあらゆる一喜一憂に疲れた。
けれど、現実にあったこととして書かれる1つ1つの景色が、全く記憶の中に見当たらない。
いつまでも覚えているだろうと思ったのか、ただ単に余裕がなかったのか、省かれた詳細は想像で埋めるしかない。
ただ、そのメモ帳は毎ページ次の紙に跡が残るほど強く、強く書かれていて、そのせいで紙が弱っていた。
「生きることに必死だったことを覚えておきます」
多少簡単になった今の私の言葉など、届かないのだろうけど。
私は未来を知ることができないけれど、過去の私も知らないことだらけだ。
過去に残した言葉は、今を呪うほど幸せだらけでもなければ、悲劇のヒロインになる程しんどいことだらけでもなかったことを教えてくれる。
これからを恐れる必要がないほど、しっかり毎日生きてきたことがどこかに刻まれていることを思い出させてくれる。
だから、今は、今が後から振り返ることすらできないほどのものだなんて気づくことなく生きていく。
気が向いた時に言葉を残しながら。
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