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「十年」

10年前の今日。
あなたは何をしていたか覚えているだろうか。

私は感じたことのない不思議な気持ちでそわそわしながら、生まれた喜びと、緊張と、幸せと、不安に満ちていた。
とびきり最大の光と、果てしなく濃い闇が、一緒になってそこにある。

節目とか、ターニングポイントとかは、後々になってその意味をなしたりする気がする。
でもこの日ばかりは後々などということでもなく正真正銘の特別な記念日で、後にも先にも無いような、最も大切で大きな節目だったと思う。
私という人生の、一番大きな、標。
だと、言ってあげなければいよいよ浮かばれない。
自信を持って、認めてあげて、いいのだと。そして、許してあげてほしい。
ようやくそう思って、生きている。

10年前の今日。
憧れた出版社から、黒田リサという漫画家の「その胸の赤を」という単行本が発売された。

最初の本、そして最後のコミックス。
ありがたいことにたくさんの人に祝福された。
長い長い道の先、やっと目指した場所へ辿り着いた日。
少しは恩返しができただろうか。認められ褒められるような人間になれただろうか。
形になって捲れる頁に、やけに重みを感じた。
産みの苦しみを瞬いて凌駕する感動。
やっとここまで来たんだ、と。噛み締めた日。
それまでもだが、いつもどこかあやうい命であったと思う。
けれど燃え続けるのには、宿命めいた情熱がこんこんと湧いていて、止める術などなかった。
激しさと繊細さが表裏一体となって蠢いていた。
夢を叶えるのには、命をかけるものだと思って疑わずそうでなければ死んだも当然。
そんな過激で破天荒な思想だった。元々それが私の(普通)なのだからおかしなことなど何も無い。
ただ、この頃はそれがピークで、周囲からも思われていただろうし、自分でも後になってみればそうだろうな思ったが、あのまま進めばきっと命を落としていたかもしれない。

それでも辿り着きたかった場所だった。

目標地点はありがちだが何歳までになんとかデビューしなければ…というようなもの。
本が発売した時29歳。激走し滑り込んで夢を叶えた。

その後すぐに2冊の本が出るありがたい予定があり、連載作品の書き下ろしや一冊分の新作(と言うのも、当時の私は作家としては珍しく前のめりで締め切りを守りまくる、というよりは本当に生き急いでいて、その様を見た担当さんが連載と別にまるっと一冊新作でとお話をくだすった。とてつもなくありがたい事である。)を書き終え、残り作業わずかな発売直前で全ての予定が消えた。

初めての本の装丁見本が届いた時、普段そういった感想などを言わないという社長直筆のコメントを頂いて、それを担当さんはとても喜んでくれていた。
私の心の柔さを深く理解し、愛してくれているこの人と一緒に仕事ができていることが本当に救いだった。
昏く長い靄を纏いながらも、お豆腐のように柔らかい心なりに、決心覚悟を胸に地道に歩んでいこうと。

そんなふうに思った矢先だった。

たった一度の記念日。
この本が最後になってしまったことを、ひどく嘆き悔やみ深く悲しんだ日々がこの10年の祝福にはセットになってずっと付き纏っている。
情けない、そんな気持ちに押しつぶされ傷つきながらも、反面どこかでいつか離れる日が来る予感もしていた。それはいつの日か、だと思っていたし、舵を握るのは自分だと思い込んでいた。そうではなかった、それだけのことだ。
力不足や不甲斐なさも絶対にあったはずなのに。それでもみんな優しかった。
優しさが痛かった時もあった。
嫌な言葉も、聞こえてくる。
それでも、頂いた愛情があまりにもたくさんあった。
きっとこんなところで終わらない。
真ん中を延々じっと見つめて変わらないものを確認する、あとは自分がどうするか。
泣いても泣いても、終わらなかった。
何度も消えてしまいたかったが、終わりにはならなかった。
それがきっと答えだった。

時代のせい、そう慰めてくれたたった一人の信頼する担当編集のHさんの、多くの言葉と励ましと寄り添いにはし尽くせない感謝がある。
あの人と出会わなければ、あの人がいなければ、短くも鮮烈だった漫画家時代は存在しない。
良き理解者。信頼する伴走者。そして私のファンだと言ってくれた。
あの人のためにも終わらせるわけにはいかないと思っていた。
周りの同業者からの話を加味してもしなくても、本当に幸せな出会いだったのだ。
その気持ちは微塵も変わらず、ありがたいことに今も大切に繋がっている。

ほんの少しだけ触れ合うことができた読者の方の、言葉と表情と命の輝きを、忘れようとしても忘れられない。
私の紡いだ物語が、誰かの何かになった瞬間を見てしまった。
心から心へ届くものがあると、知ってしまった。

家族も友達も同業の戦友も心の恩師も、今も細々と読んでくれる全ての読者の方々も、本当に本当に感謝の気持ちでいっぱいだ。

それを忘れない、大切な日でもある。

姿、形はかわっても、その意志は変わらない。続いていくことを、泥沼から這い出して誓った日、私はrisa kurodaと名乗ることにした。
この10年は、とてつもなく長く、昏く深い。でも同時に、苦しくて切なくて、計り知れないほどに愛おしい。

その始まりの点、もっとも大切で特別な日が、10年前の今日なのだ。



偶然か必然か、私にとって十の周期は、遡ると自分自身の出自とも重なる。
映画「風の谷ナウシカ」が公開された1984年。
私の物語は始まってしまった。

1994年、もうすぐ10歳になる頃。
作文を書くのか大好きだった私は、小学一年生の頃から拙くも漫画をこそこそと描き始めた。
好きなものもわかっていたしやりたいこともわかっていた、自分の中にあるものに怯えたり確信したりしながらまだ何か手探りで、密かに秘められていた。
揺らぎは波紋になり、ざわめきはじめる自我を抱える。
一方で90年代、世界は不穏だ。
バブルが崩壊したり大きな地震がやってきたり悲劇的な事件がそこかしこで起こる。世界の異変に、異様な足音に、ざわざわとしていた。

2004年、19歳、もうすぐ成人の証が渡されるという頃。
子供とは言えずけれど大人とも思えない。大人とはなんだ。私とはなんだ。世の中が作る枠組みで自分を図れないことを悟り嘆き苦しんだ。
スイートナインティーンブルース、甘く切ないモラトリアム。
でも現実はちっとも甘さなど無い。なんなら余裕もない。
喉を詰まらせるある言葉が脳裏に巣食うも、まだなんとかなっていたし、見て見ぬ振りをしても夜風に紛れて朝が迎えにきてくれた。
昇りたての光に、どこか胸の奥がざわめいて、変な予感がして、だから夜な夜な起きて見張っていたのかもしれない。
まだちゃんと朝が来ている、ということを。

2014年までの十年は、あまりにも様々なことがありすぎた。
ありすぎてとても十年とは思えないような重量を持ち、その10倍くらいのエネルギーを必要とした。
心がばらばらになり、友とばらばらになり、家業がばらばらになり、家族がばらばらになっていった。
ただかろうじて私にはまだ命が残されていて、未来に繋がる路があった。
茨の道を、
ばらばらのぼろぼろになりながらも熱情だけが、今にも壊れそうなやわやわな心を連れて走り続けた。
折れた木からも芽が出るように、破壊と再生をひたすらに繰り返しながら、求めてたどり着いた場所で漫画家のような人間になった。

のような、などという言い方をすると自信もなく情けない思いがずっとあったことがバレてしまう。
それでも真実であったことを、ようやく10年経って許せた気がする。

本になったそのたった一冊が発行された2014年、生涯どれだけの命をかけても得られないような、そういうものを手にすることができたと思う。

あれから十年。
2024年の夏を前に、信じられないくらいありがたい新たな表現を展開することができた。
それまでには、やっぱり重くて立ち上がれなくなるような膨大な時間と、整理のつかない感情と、目まぐるしい紆余曲折があった。
筆を置いて、トマトをもいだし。
珈琲を学び菓子を創造した。
何度も特別な出会いがあり、その度になぜだか(あなたはそのままでいればいい)と、この情熱を消そうとする人はいなかった。
2014年より前も、その後今日までも、結局私は私であり続けていた。
それを信じ許してくれた人たちのおかげで、死にぞこなってありがたくも今も生きている。

2024年が、どんな姿になるかなんて、想像もしていなかった。
でも少なくとも、生きて、続けていたらちゃんと点はやってくるみたいだ。
今も変わることなく、いのちとか心とかたましいとか家族とかの物語を紡ぎながら、悲しみを見捨てることができず、愛おしさと切なさを抱きしめて表現者なんて自分のことを呼んでいる。

それはもしかしたら物心ついたあたりからずっと変わらないことかもしれない。
幼い頃抱いた、漫画家という夢を一度は叶え、世界がどんなに変わろうとも、表現し続ける人なんだという感覚は今もなお変わらないのだから。



前橋文学館で詩人、杉本麻維子さんの展示を見た時、とても驚いたことがある。
二十歳の彼女を絶句させた言葉に、よく似たものを私も高校の担任から渡されたことがあるからだ。

よくよく考えれば、そういった外側からの予期せぬ反応で自分の輪郭が浮き彫りになったりする。
自分が思っている以上に、(違うこと)を祝福されていたのではないか、と。

言葉には力がある、その力は神秘でもありまた脅威でもある。
それを知っていると前に記したが、それを経験した一つはまさにこの高校の担任の言葉のことだ。

言葉は武器だ、不器用で、不確かで、不愉快な方ばかりがこべりついて残ろうとする。
厄介なのはその不愉快な方はいつまでもいつまでも空でいえるほど鮮明に残っては、心を抉りつづける。
それなのに素敵な記憶や感動的なシーンで心を満たした言葉は、多くは残らずまたメモでもしておかないと忘れ去られたりする。
失くすという意味ではない、幸せは自分自身の一部になってしまうから消えたように見える。
そこに悪意があろうがなかろうが、悲しみや痛みは、いつまでも目が合っている、その視線が、心を殺めることもある。
ところが言葉は、救うこともある。本当にだ。
だから私は、不愉快なそれを忘れてやったりしないかわりに、更に紡いでは掲げていく。
誰かの心から、言葉を見ることができるようにして。
そうしてそれが、なんでもないものの中で、誰かの心にだけ辿り着いて、救ってくれればいいのにと、想っているのだ。

担任は無愛想で無頓着のようなふうをして、慕われていなくても別にかまわいないさ、というような人に見えた。
生徒に興味もなさそうなその人が、一年も三年も担任なんてツイてなさすぎると思ったが、それでも選択授業ばかりでほぼ絡むこともなく、芸術コース専用の別棟に入り浸りクラスのある本校舎では基本一匹狼の顔をしていた。
そんな私は、担任からなんて到底わかりづらいやつだろうと高を括っていた。

トラウマになった言葉は、高三の進路が決まった後、本校舎と反対側の薄暗い階段の上から見下ろされて言われたのを、今もよく覚えている。

現実18歳の自分だって100%納得した進路ではなかったが、それ以外その段階ではベストな回答がなかった。
何度となくその言葉に反抗するよう虚勢も張ったが、自分の正解なんて自分しかわからないはずなのに、どうしてあの人は私にそんなことを言ったのだろう…と何度となく喉を詰まらせた。

ただ、思い起こせば一年の面談の時に、担任はトラウマと真逆の意味のことを言っていた。
あの人は不器用なのだ。
触れた時間や距離ではなく、私という人間の臨む未来に、期待していたのかもしれない。

簡単に消化などできないし、易々と許してしまえるようなものではない。
だからこそ漫画家という夢に追いついた時、やっと納得できた気がする。
言葉に苦しめられながらも、それすらも教えのように、どちらの言葉も私の輪郭の一部になっている。


「君の夢は、たくさんある、それは素晴らしいことだ、けれどそれのどれか一つが大きな幹であった方がいい、その木が揺らがないほどの大きなものであれば、いくらでも枝葉を伸ばしどんなことも叶えることができる。」

先生、私の木はあなたの期待を超えて、大きく育っているだろうか。



禍によるニューノーマル、情報の飽和と歪み、過酷な気候変動。世界は変容の渦の中でみな溺れて酔ったまま、それでもここで生きるしかない。
世界は変わってしまった。
でもこれを崩壊ですませるわけにはいかないのではないか。
良くも悪くも、変わる前というのは大きな揺らぎがある。
均衡を保とうとする働きの前では、無傷ではいられないのかもしれない。

2019年は、ひどく息苦しく重かった。
少し晴れたように見えた霧は、なぜかより濃く深い。
しかしその中から何かが動き出そうとして暴れて揺れ、何かから抜け出そうと足掻いて目を回していた。
そういう気配の、時だった。

近年は雨の降りきらない梅雨が多いが、らしい長雨が続くとあの頃を思い出す。

その年は異常に梅雨の雨が長く、青空を連日全く見られない、そんな初夏だった。
湿気を含んだ空気がじとっとのしかかり、身体の髄まで圧力を捉えていた。なにより、心模様は空とシンクロしたかのように重たく薄暗かった。
まだ、何かが動き出したばかりで、手の中にあるものも目の前に現れたものも、生まれたてのように半信半疑で幻のようであった。
来た道を見ても、先の方を見回しても、道があるようで無いような。
ここで冷たい業火に焼かれてしまうんじゃないかという、命の呻きの中に自分自身のたましいはいた。

せめて、空だけは晴れてくれ。

そう願う日々の朝は、杞憂と絶望がなんてことない顔をしていつもそこにいた。
少し懐かしいこの感覚。
何度も喰らいながら見てきた景色と重なったが、そういう時の耐え方は少しは上手くなったと思う。
振り返ればこの年は、溺れていたような感覚ばかりだった。

仕事を変えたがその目的が空中分解した。となると一体何のために…志が溺れた。
思えばいつも、ひとりだった。
それは決して悪い意味ではなく、戦士として孤高で、プレイヤーとしてひとりである方が目的地にたどり着くことが多かったからだ。
けれどただ孤独なだけでは何にもならない。
信じる人たちが変わっていく、コミュニティに溺れた。
ひとりでいると、何がいいかというと決断までに無駄な時間がない。答えはいつも自分の中にあるとわかっているから。
目的地は空白ながらも、現在地に潜む情熱は変わらない。その炎は密やかに道を導いてくれていた気がする。
けれど、未来に溺れた。それはつまり、今という現実に溺れた、どうりで重いわけだ。

長い梅雨に嫌気がさし、湿度250%くらいの世界から脱したくて仕方がなかった時、ひょんな事から山を登ることになった。
本格的な登山というよりは、豊かな自然に触れ散策するくらいのものではあったが、その日の記憶は今も大事な点になっている。

上高地、という地は、両親が登った事のある数少ない山だ。
お互い歳を重ねた。最後かもしれないと思って初めて一緒に登ることにしたのだ。
突然の誘いだったのだが、なんだか運命を感じ導かれるように山へ向かった。

高速に乗って家族3人だけの長い時間、ほんの少しの緊張と安心。
この状況と自分の内省とが絶妙にないまぜになる。
重い雨と風を含んだ曇天の中を走り続ける。このまま遠くへ飛んでいってしまいたくなる。

私の願望が神様に届いたのか、長野に入ってトンネルを抜けた先に飛び込んできた空は、全てを拭ったような晴れた空だった。
上高地へ近づくとまた雲行きが怪しくなるのだが、その一瞬の間に見た青空の、青の鮮明さは、それまで生きてきた中で一番の青だった。

山の天気は変わりやすい。
移ろいは生きている証拠だ。
山へつくと白い雲が森を覆うものの、見た事のないような美しい世界がそこにあった。
少し残る雪と雲の白。
雨を抱いた深緑。
濡れた土と木陰の黒。
湧く水の紺碧。
空気の遥かなる透明。
神秘と幻想に抱かれて、ここは現世ではないようにすら感じる。
静かな雨で鎮まっていく脈動を感じながら、命の森をいく。

白透明の合羽のとんがり帽まで被った両親が、森の精のように見えて可愛らしかった。
明神池の淵で無邪気に笑い合うふたりの姿を、少しだけ離れた木道から写真に収める。
後悔は決して先には立ってくれないが、今幸せでいようとすることに立ち向かうのには、優しさと強さが必要だ。
それを持つふたつのとんがり帽が、ひどく愛おしい。

何も聞かないし、何も言わない。
でもいつも味方だった。

土砂降りの森を抜けて、森にいる命と一つになった私の心は、少し軽くなって洗われて喜んだ。
重苦しくしか感じられなかったそれらが、慈しみ深く思えた。

帰りに立ち寄ったラーメン屋の海老そばが、その頃しばらく弱っていた胃腸を優しくあたためる。
久々に感じる美味しいという感情に生きた心地がした。
こういう味は生涯忘れないのだと思う。
命を繋いだ食事だからだ。

これがまるで何かの導きであったかのように、その後色々なことが起こって続くのだか、だからあのとき山に呼ばれたんだな、と後々思う。
色々ややこしい人たちの集まりだが、ちゃんと確かめあえた、あの時のその作業は私たちにとってとてもとても大切だった。
それがあるかないかで未来が変わってしまうような、そんな出来事になったと思っている。

長く重かった梅雨が開け、夏が来て、晩夏の頃に、大きな台風がやってきた。
川が氾濫し、新しく勤めた職場が水没し、町が溺れることになった。
荒れた環境を無闇に戻そうとする時、人間の非力さをまざまざと知ることとなる。同時に不測の時こそ本性に触れることになりその人が一体誰なのかがわかる。
そのおかげで見えた世界の人たちもやはり、とても優しく強く、懸命だった。

綺麗なだけが、美しい姿ではない。
それを私たちは本当に知らなければいけない。

何かの力で攫われ導かれ荒波に溺れながら、一縷の光を追って、確かであるものを確かめる日々。
ちゃんと生き始めた、呼吸が始まった、戻ってきた、あれは再生の合図のようだったなと今思う。



ある漫画家が言っていた。敬愛するかの巨匠もだ。
自分の経験、自分の中にあるものでしか描けない。 
フィクションだがフィクションではないと。

至極納得できた。
似せ物はすぐにメッキが剥がれる。
自分の中に無いもので表現などできない。
つまりそれは身を切り売りし命を削りながらの作業なのである。

それは自分に蓄積された膨大な懐かしさを、ちぎりながら泣きながら怒りながら口ずさみながら微笑みながら、寂しさと切なさと痛みと愛おしさと尊さと悲しみと憎しみと喜びと恥と絶望と希望を、子供たちと子供だった自分たちのために残そうという行為なのだと。
だいたい行き止まりだし、孤独だし、万一光に見えているのならその向こうに膨大な闇があって。
それらと共に生きていかなければいけないから、その術のひとつでもあるのかもしれない。

新しいものが、湯水の如く湧き、もはや残像すら偽造できてしまう世界において、こんなちっぽけな瞬きなような人生から吐き出された物語にどんな意味があるというのだろうか。
だけどもそれは、生きていくことそのものなのだと、ようやくわかった今の私はこの懐かしさを堂々と愛して並べようとしているのだ。

その一つがこれなんじゃないだろうか。自分という現象がここに表現されている。
そんなことを思いながら綴る新しい形の物語。
ようやくここまで辿り着いた。
やっぱり間違ってなんかいなかったな。



作品を生み出している時、いつも音楽がそこにある。
音楽とも色々あったが、結局ずっとそばにいるやつ、みたいなところだ。

言葉を紡ぐ時、展示の準備中、気持ちが高まるアーティストやモードを呼び起こす楽曲をリピートで流したりする。
物語の時は作品とリンクする1曲に偶然にも出会うことが多い、逆にその楽曲にインスパイアされて生まれてきたりもする。
なんにせよ自身の作品には大体これと決まったテーマソングがあるのだ。

十年前、本になった作品の執筆中はジミーサムPさんのAfterglowという曲が作品の1話目と自分自身にびたりとはまってから、永遠に聞いていた。
iTunesのその再生回数はとんでもない数字を残している。
音楽の力で作品の温度や輪郭が浮き上がって、そこに生きる人の鼓動に触れられるようになるのが好きだ。

今聞いてもあの頃のことを鮮明に思い出す。その時の視線とシンクロして作品とも記憶とも気持ちとも重なって火傷しそうになる。

これは決して、作品に触れる人にまで共有したいものではない。
あくまでも創作する私の世界の話だ。
それぞれにそういう楽しみ方があったらいいなと思う。
(とはいえAfterglowは本当に名曲なので興味がある人は聞いてみてほしい。)

変わらないものの中に、あの頃の心が鮮烈に残り、また今しか生まれない感情がある。どちらにせよ変わらず存在することで過去と今に出会えるのだと思うと、音楽や物語の存在意義は大きい。

一方この10年で明確に変わったことが私にはある。
それは(生活)だ。
ちゃんと生活をしているな、と今は思う。

そんなふうに言うと破綻しただけの暮らしの中で作品作りをしていたように思われるだろうが、そんなこともないのだが。
何というか、食事にしろ睡眠にしろ、ただそれをしただけでは生命に繋がらない、ことがあるように思う。
そういう意味で、ちゃんと生活をしていなかったのだ。

失ったものがあれば、得るものもある。
失ったように見えて、実は頂いていた、ということもある。

作品作りの時にハウスを見せてもらったトマト農家さんで働かせてもらった事で、主人公の真のような気持ちになって畑で泣きそうになったことがある。
少し年上のお兄さんのようなトマト農家さんに、(無理や無茶はせず、細く長く頑張ればいいんだよ)と言われた。
あれは農作物だけではない、命そのもののことのような気がしてはっとした。

トマト農家での時間も、友人とのお店をやろうかという奇妙な流れも、料理に向き合える時間が持てたことも、個人で営みに挑戦している人たちと触れ合えていることも、どれも自分で描いたはずの作品の追体験をしているようで不思議な10年だ。
そこにはいつも(生活)があって、とても人間らしいのだ。
それはもしかしたら、私が一番救われた出来事かもしれない。
失ったと思ったものたちから、自分から生まれたものから、教えられた大切な事のような気がしている。



むせかえる暑い夏。
夕立が熱せられた大地と風を少しだけ静める。

深夜を寝かしつけながらペン/筆を走らせる時間が結局一番深くて心地いい。
けれど今日までのお陰様で、深夜以外とも仲良くやれている。
大切な人たちやお店や、特別な場所でも私はちゃんと生活して、ちゃんと創造している。
一見変わったように見える作業は、何も変わっていないのかもしれない。

光と影が、同時に存在して、そしてそれが私を導き突き動かす。

ずっと書いている。
ずっと描いて、ずっと紡いで、ずっと想ってずっと表現して、ずっと命を燃やして残すことに注ぐ。
ようやく終わった時の遺言のようであれ。
誰も彼も忘れても、果てしなく続く物語のようであれ。
私の宿命は、変わらず私であり続けること。
それは私の命を許すために。
どこかの誰かを、救うために。

これからも続いていくはずだ。

2024年7月の満月。ごらん、光で満ちているよ。