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無題②

初めてツインレイセッションなるものを受けた時、何を話していいのか全く分からなかった私は、こうやって出会って、とかその時に彼の孤独が入ってきたとか、その後の泣けて仕方ない気持ちとか、夢で抱かれて宇宙が見えた、だから怖くなった、とかとにかくまとまりもなくしゃべった。聞いているほうも訳分かんないとこがいっぱいあったと思う。

私の話をひとしきり聞いた先生は、彼を、みた。

そうしてすぐに先生は、これは彼をサポートしてあげて、と言った。

それが、私に伝えられた、第一声だった。
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この人は、つらい景色を見てきた人だ、って、私には、なぜか分かった。

ろくに話もしないうちから。

その後、彼は話してくれて、私は彼の抱えているものを知るように、なる。それは、当初私が感じたよりも、もっともっと重いものでもあった。


そして私は、彼の抱えているものを、少しでも軽くしてあげたいと思った。

私だったら、彼をもう少しラクにしてあげられるんじゃないか、幸せそうにしてあげられるんじゃないか、って、なぜかそう思っていたのだった。


今なら、分かる。

私が彼に見た孤独は、私の孤独でもあったのだと。


そして、もうひとつ。

目の前に、傷付いた自分の魂があるならば、それは、救いたい、助けたい、傷を癒やしてあげたい、と思うのは、至極当然のことだっのだ、と。

自分の魂でもあるんだもの。

傷付いてるとこも、どうすれば癒やされるかも、分かっちゃうんだもん。



仮に私がそうすることで、彼が、絶対に幸せになる、というのであれば、私は、今すぐ死んだって構わない、とまで思ったことがあった。

私はもともと、いろんなことに、執着しない性質だったから。


昔の歌。岩崎宏美の「聖母たちのララバイ」という歌がある。

「あなたの母になって私の命さえ差し出してあなたを守りたいのです」

私もまた、彼を守れるのであれば、守りたいのだった。


その後、瞑想中に、私はふと、彼以外の人の幸せのためであっても、私は死んでもいいような気がした瞬間が、あった。

それでも、別に構わないような気がした。


宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」でもあったかもしれない。

うろ覚えだけど、本当の幸いのためなら、僕の体なんて何百ぺん焼かれたって構わない、だったか。

自己犠牲とかでなく、本当に、ただの愛から思えたことなのであれば、それは、幸せなことなのかもしれなかった。











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