余剰次元の先を越えて
1 旧友からのメール
前から音信不通であった大学時代の友人である時任から突然メールが来た。“事情は知っている、お前と愛理を救えるかもしれない”という件名のメールだった。普段なら迷惑メールだとすぐさまゴミ箱に放り込むのだが、私はそのメールの送り主が確かに時任であるという確信があった。私はメールを開いて文面を見た瞬間、時任の文章だとはっきり理解した。
“突然の連絡で申し訳無い。急に君達の前から消えたと思ったらまた急にメールを寄越すなど通常であれば全く失礼だと思われるだろうが、僕にも事情があったんだ。その為にはどうしても知り合いとの関わりを絶たなければなかった。その所為で今日まで誰とも関りを持てなかったのだ。本当は愛理の葬式にも参列したかった。君に直接会いたかった。本当に申し訳無いと思う。だが、この不義理の代償で得た物は間違い無く僕を更なる智の深奥へと誘ってくれるし、あらゆる人々を救う力となるだろう。その中には勿論君と愛理も含まれている。
僕は愛理の身に何が起こり、君が今どうしているか断片的ではあるが把握している。何故君達に接触する事無く君達の事情を知り得たのか。その理由は失踪の代償で得たある知識と技術を活用したからだ。僕はこの偉大なる知識と技術が人類にとって非常に有用であると認識している。これがあれば愛理を取り戻す事も可能かもしれない。だが、今のままでは不可能であると言わざるを得ない。
そこで君に協力を願いたいのだ。君の持つ確かな実験の腕前が必要だ。知っての通り僕は不器用だ。僕が得たこの知識と技術を活用するには薬品の調合が欠かせないのだが、僕が調合した薬品は当然ながら悉く失敗作で十分な成果を得られていない。君と愛理の事情もそれ程把握出来ている訳では無い。君が協力してくれるなら間違いなく十分な効果を持つ薬品が調合されるだろうし、その薬品を使用すれば愛理を取り戻す事が可能になる筈だ。
非常に胡散臭い話に聞こえるかもしれない。以前の僕だったら一笑に付すだろう。だが、僕はある超常の体験をした事でこの知識と技術を活用する者達を目の当たりにした。僕がこの知識と技術について君に教えるのは君と愛理という友人への情けだ。僕は友人付き合いが決して良い方ではないと自分でも思うが、それでも数少ない友人である君たちが不幸のどん底へと落ち込み、破滅していくのを黙って見ていられる程薄情では無いつもりだ。
もし僕の話を信じるのなら、或いは少しでも興味を持ってくれるのなら返信して欲しい。直接会って話そうじゃないか。僕の得た知識と技術について、僕が体験した超常の現象について具体的に話したいと思う。そうでなくとも君の力になりたいと思っている人間がここにも居るという事を覚えておいて欲しい。久々に君に会える事を願っている。“
明らかにおかしな内容ではあるが、確かに文章は時任のものだ。それに時任は悪ふざけをする質では無い。少なくとも失踪していた二年の間に何かあったのは確実だろう。その何かが時任の精神状態に何かしらの影響を与えているのかもしれない。生憎、心理学や精神医学は専門外だがそれ位は想定出来る。とはいえ文面からは時任の精神が異常であるとは到底思えなかった。自身の体験を客観的に見て異常であると言っている事から、あくまで精神状態は正常なのかもしれない。どちらにせよ直接会わなければ何も判りはしないだろう。それに時任は何故か私の事情を知っている様だった上、愛理に何が起こったのかも知っている様だ。その上で時任は愛理を取り戻すと言った。どうにもこの言い回しが引っ掛かって仕様がない。私は時任の話を聞く気になっていた。例え与太話に担がれようと今の私には行動する理由が欲しかった。
2 婚約者の死
長い引き籠り生活で鈍った思考を回復させる為にも今に至る経緯を思い返す必要がある。だが、もう一度あの辛い思いを追体験したくは無い。それでも、私はこの痛みを現実のものとして抱えていかなければならない。それに、時任がどこまで私の事情を把握しているのか確認しなければならない。私は覚悟を決めた。
婚約者である愛理が失踪した。時間間隔が定かではないが、多分一か月程前の話だと思う。愛理との付き合いは大学時代からだ。同じサークルで同級生として過ごしていく内に交際に発展した。比較的ありふれている話だと思う。社会人になってからも交際は続き、同棲を経て婚約に至る。然程面白味もドラマ性も無い恋愛だと我ながら思うが、私達は確かに幸せだった。
愛理が失踪した日を思い返す。その日愛理は何の連絡も無く私達の部屋に帰ってこなかった。その時の私はただただ不安でしかなかった。愛理は何かあれば必ず連絡を入れてくれたから、連絡も無く帰ってこないというのは異常な事であった。私は何度も愛理に連絡を入れた。メッセージアプリのチャットで、通話で、メールで、あらゆる手段で愛理と連絡を取ろうとした。朝まで待ってみたが、愛理から連絡が来る事は無かった。私は徹夜で精神状態がおかしくなったまま出社した。私の様子が尋常でない事を見て取ったのかもしれない。上司が声を掛けてきたが、私は多分大丈夫だと返したのだろう。その時の事はよく覚えていない。午前中に何をしたのか、昼休みに何を食べたのか一切記憶に無い。
午後一時か二時位だったと思う。愛理の母親から愛理が出社していないと連絡が来た、と電話が掛かって来た。会社に何の連絡も無いのだと言う。私は最悪の状況を想定してしまった。その場で私は愛理の母親に警察に相談すべきだと言った。だが愛理の母親は警察に行く事を渋っていた。大事を嫌ったのか、世間の迷惑になる事を恐れていたのかは分からなかった。しばらく私は愛理の母親と警察に相談するしないで押し問答になっていた。突然、電話が代わり愛理の父親が電話に出た。愛理の父親は警察に相談する事に賛成してくれた。相談は親族がした方が話は早いだろうと愛理の父親は言った。私は愛理の父親に一切を委ねる事にした。何かあれば必ず連絡すると愛理の父親は言ってくれたのだが、それでも不安を拭い去る事は出来なかった。今日までずっと愛理と暮らしてきた部屋で、愛理の帰りを待ちながら浅い眠りを繰り返してきた。日中もあまりの眠気でほとんど仕事になっていなかったと思われる。当時の記憶は非常に曖昧で、何をして過ごしていたのか全く覚えていない。
愛理が行方不明になって一週間程、彼女が見つかったと連絡が来たのは、出勤途中の駅のホーム上だった。電話の相手は愛理の父親だった。愛理が生きているのか尋ねてみたが、電話向こうの愛理の父親の口調は明らかに深刻なものだった。愛理の父親から、愛理が遺体で見つかったと聞かされた。私は指先の力を失い、スマホを落としかけた。愛理の父親の声は電話越しでも分かる位震えていた。私は愛理の父親に、愛理が今どこにいるのか尋ねた。私は未だ愛理の死を現実だと受け入れていなかった。それでも私の声も震えていた。愛理の父親が教えてくれた場所は私と愛理が住んでいた都内ではなく、C県F市の警察署だった。愛理の地元はI県である為、私が直接迎えに行く事は難しいだろう。愛理の両親は電車で向かうと告げた。私達はF市にあるターミナル駅で待ち合わせる事を約束した。
通話を終えると、丁度電車が到着した。ドアが開き降車する人々が私の横をすり抜けていく。私はただぼうっと立っていた。私を無視して人々は乗車していく。アラームが鳴り、ドアが閉まる。そのまま電車は発車する。電車が去り、プラットホームがすっきりと空間が出来た事で私はようやく思考を働かせる事が出来た。会社に連絡しなければ。有給休暇はほとんどとっていないし、今は急ぎの案件も無いから取れる筈だ。私は力の入らない震える指先で会社の電話番号をタップした。口を開いた途端、今にも泣きそうな位声が震えていた。電話口の若い男性の声が平然と対応している事に、私はどうしようもない断絶と孤独を感じた。誰かが死んでも社会は問題なく動いていくのだと理解してしまった。ここが外でなければきっと私は泣いていただろう。何か少しでも吐き出しておかないと私の精神は決壊しかねない位、激情で溢れていた。私が有給取得を申し出た時も電話口の男性は冷静に対応してくれた。滞りなく有給は通った。私は震えながらはい、とだけしか答えれらなかった。お大事になさってください、という男性の声が妙に突き刺さった。電話向こうの彼は私の状態をどの様に思ったのだろう。私の漏れ出た激情をどの様に解釈したのだろう。いつまでも突っ立っている訳にはいかないと、私はF駅へ向かうルートを検索し始めた。
少々面倒な乗り換えを経て、私はF駅に到着した。愛理のご両親に連絡しなければ、と私は電話を掛けてみようとした。だが乗車中に掛かってはいけないと思い直し、愛理の両親が乗ってくるであろう路線のホームの近くで待つ事にした。愛理の両親とはメッセージアプリを通じたやり取りは一切していない。電話番号とメールアドレスは知っているが、この状況でメールした所で気付くかどうか分からない。何かあれば向こうから連絡してくるだろう。正直に言ってじっと待ち続ける事は苦痛でしかなかった。愛理の死が私をひたすら陰鬱な感情へと塗りつぶしてくる。何も考えたくなかった。無理矢理別の事を考えても、浮かぶのは愛理の事ばかりだった。
スマホが振動した。愛理の父親から電話が来た。丁度F駅に着いたと言ったので、私の現在地を伝えた。愛理の両親と合流した私は挨拶もそこそこにタクシーを捕まえて警察署に向かった。タクシーの中で私達終始無言だった。運転手が重苦しい空気に辟易していたのがバックミラー越しに見えて申し訳ない気持ちになった。
警察署でタクシーから降りた時の足取りは異常に重かった。前に進む気が一切起きなかった。多分愛理の両親も同じ気持ちだったのだろう、ただただ立ち尽くしていた。立番をしていた警察官が声を掛けてくれなければ、動く事は無かっただろう。署内で受付をしながらも、どこか私は現実感が無いままでいた。愛理の失踪は全て夢の中の出来事なのではないのだろうか。ちゃんと現実では私と愛理はいつもの様に同じ部屋で暮らしながら結婚式やらの相談をしているのではないのだろうか。そう思えば思う程今私が感じている強烈な不安感と身体の気怠さがこの状況が現実であると叩きつけてくる。だというのに地に足がつかない感覚が常にするのはどういう訳だろう。受付を終え待つ間も私達は無言だった。制服を着た女性警官に呼びかけられ、私達は愛理の元へと案内された。重い足取りのまま霊安室と記されたドアの前まで来た。入りたくなかった。中に居るのが愛理であって欲しくなかった。女性警官に促され霊安室に通される。白い布に覆われた遺体がろうそく型のライトに照らされていた。女性警官が遺体の顔にかけられた白い布をめくる。
確かに愛理だった。肌に赤みは無く、所々青い痣の様な物があるが確かに愛理だった。
愛理の母親が嗚咽を漏らしながら崩れ落ちた。愛理の父親は呆然と膝をついた。私は何もしなかった。何も考えていなかった。ただ真っ白になった愛理の顔を眺めているだけだった。次第に視界がぼやけてくる。愛理の母親の嗚咽が遠ざかっていく。多分今の私は地に足がついていないのかもしれない。自分が夢を見ているのか起きているのか分からなかった。
どうやって帰宅したのかは覚えていない。愛理の両親とどういうやり取りをしたのかも覚えていない。気が付いたら私は自室のベッドの上にいた。窓から朝日が差し込んでいる。いやに冷たいベッドから起き上がる気力は無かった。それでも喉は乾くし、尿意もある。体に力が入らないまま、私は照明を点けキッチンに向かう。コップを取り水道水を注いで飲む。ぼんやりした頭のままトイレに行く。そして、部屋のカーテンを開けて初めて、私は愛理の死を実感した。声を上げて、泣いた。膝から崩れ落ちて、声を上げて泣いた。もう、この部屋に愛理がいる事は永遠に無いのだ。
どれ程泣いたかはわからない。気付くと、スマホが鳴っている事に気付いた。鼻をかみ、涙を拭いてから私は電話に出た。相手は上司からだった。かろうじてコールが切れる前に電話に出る事が出来た。上司は私が何の連絡も無く出社してこない事から連絡してきたのだろう。ようやく私が絞り出せた返答は涙声で酷いものだった。上司はしきりに私の状態を質問してきた。私はしばらく出社出来そうにないと言った。上司はただ黙って聞いてくれた。
有給は承認された。上司との電話を切ると、無力感と虚脱感に襲われた。手伝わなければ、愛理のお葬式の準備を手伝わなければ。心が焦っても体が動かなかった。しばらく私はソファーでぼうっとしていたが、手に持っていたスマホの振動で我に返った。メールが届いていた。相手は愛理の兄だった。愛理のお葬式の件でこれから動くとの事だった。私はすぐにそちらに向かう旨を返信した後、愛理の実家に向かう為の荷造りを始めた。
それからの事はよく覚えていない。何かしら作業の没頭する事で心の穴を埋めていたという事しか記憶に無い。気がつけば諸々の手続きや準備は終わり、告別式が行われた。そういえば、この時まで涙を流した事があっただろうか。はっきりと覚えているのは、お焼香の列が終わり、参列者が全員席に着いている時に隣から愛理の母親がすすり泣く声が聞こえてくることだけだった。だがどうにも、この期に及んで私は愛理の死に現実感を持てずにいた。
ぼんやりとしたまま告別式を終え、ぼんやりとしたまま出棺し、ぼんやりとしたまま火葬場へ向かい、ぼんやりとしたまま納骨を終えた。私は愛理の実家のソファーに倒れ込む様にもたれかかっていた。何もかもが終わった、そう自覚した時初めて目が潤んだ。もう何もかもが過ぎ去ったのだ、戻って来る事は無いのだと頭の中で言葉がリフレインする。その度に目の奥が熱くなる。声は出なかった。ただただ涙だけが溢れてくる。全て終わってから初めて愛理の死を実感するなんて。後悔やら情けなさやら、とにかく複雑な自責の感情が私の中で渦巻いていた。この時点で私の中で何かが千切れたのだろう。私は出社出来なくなり、日常生活すらまともに送れなくなってしまった。昼と夜の、夢と現の区別がつかなくなってしまった。
現在は会社の方で休職扱いになっている。だが遠からず辞表を提出する事になりそうだ。どれくらいこの生活を続けているのか定かでは無い。多分体重は相当落ちているし、髭も伸びっぱなしだろう。最近は鏡を碌に見ていないからわからないが。
そしてたった今、時任から妙なメールが来た。ここに至る経緯を整理している内に私は時任に会う気になっていた。だが問題がある、自分の体が動くかどうかだ。ずっと部屋に引き籠ったままだったから、外出するハードルが高くなっている。その事を正直に時任に話すべきか。いや、時任は私の事情を多少なりとも把握している。ならば今の私がどういう状態なのかもある程度理解している筈だ。むしろ外で会う約束を取り付けておきながら、直前で外出出来ない事になったらそれこそしつれいではないだろうか。私は正直に外出が困難である上で会えないかどうか時任に返信する事にした。
時任へメールを返信し終えた時には、私は少し前向きな気持ちになっていた。愛理以外の事を考える事になったからだろうか、さっきよりも体がほんの僅かに軽くなった様な気がする。お陰で今の状態がとんでもなく悪い事に気が付いた。髭や髪は伸びっぱなしだし、部屋は掃除されていないのか妙に臭う。取り合えず動ける所から片付けていった方が良い。私はまず髭を剃り、シャワーを浴びる事にした。久々に鏡で見た自分の顔はやけにやつれていて目も落ち窪んでいた。動いている内に何だか腹が減ってきたので、何か食べようと冷蔵庫を開けてみたが、何も無かった。外で何か食べるか買うかのついでに髪でも切りに行くか、と思いスマホを手に取るともう時任からの返事が来ていた。時任は私の部屋に来てもいいそうだ。私はその提案に甘える事にした。正直、まだ気力と体力が心許無い。食材調達と散髪をしたらそれだけで相当な疲労が溜まりそうだ。私は時任に感謝の意を返信した。送信し終えた所で、いつ会うのかを決めていなかった事に気が付いた。久々にまともに思考した所為か上手い文面が思い浮かばない。そうこうしている内に時任から返事が来た。返信内容にはちゃんと日時を確認する文言があった。出来れば私の気が変わらない内に時任とは話がしたかった。時任の都合次第ではあるが、明日にでも会いたいと思った。私はその旨を書いてメールを送信した。達成感と共に一つ大きく息を吐くと、やけに空腹感が腹に突き刺さった。早く何か食べなければ。私は財布を引っ掴むと近所のコンビニに向かった。
コンビニで買った弁当を食べ終えると、時任からの返事が来ている事に気付いた。文面を見るとどうも時任も時間が有り余っているらしい。今日にでも会えるそうだ。ならば勢いのままに任せよう。私は時任に今日にでも会って欲しい旨を書いたメールを送ると、髪を切りに行く覚悟を決めた。髪を切ったら部屋を掃除しよう。真っ当な食事をした事で何とか体力が戻ってきた気がした。単に勢いだけかもしれないが。
勢いに任せて髪を切り、部屋に掃除機をかけたら急な運動の所為かひどく疲れてしまった。だが久しぶりに人間らしい行動が出来た事に私は爽快感を覚えていた。私はソファーに思い切り倒れ込んだ。そういえば時任から返事は来ているだろうか。私はスマホを開いてメールをチェックした。時任からの返事は相当前に来ていた。午後六時から七時くらいにそちらへ向かう、との事だった。現在の時刻は午後四時四十分位だ、何か用意しておこうと思ったが、急に眠気が襲ってきてしまった。疲労の所為で眠気に抗う気力も体力も無く、私に意識はあっという間に朦朧としていった。
3 時任の2年間の休暇
インターホンの音で私は跳ね起きた。まだぼんやりとする視界と思考のまま私は時計を見る。午後六時半位だろうか。もう一度インターホンが鳴らされる。時任か、と思った瞬間私は慌てて玄関へと向かった。急いで玄関の鍵を開け、ドアを開く。そこには時任が荷物を持って立っていた。
「中々出ないから心配したよ」
私は今の今まで寝ていた事を詫びた。
「気にするな、色々あったんだろう?」
時任は私の非礼を気にする事は無かった。その事が私の緊張をほぐしてくれた。
「ずいぶん綺麗にしているじゃないか」
部屋に上がるなり、時任は感心する様に呟いた。さっきまで掃除していた所為で寝ていたとは言えなかった。
「無理させてしまったか?」
どうやら時任にはお見通しだったようだ。私は照れ臭そうに再び詫びた。時任は手にしていたバッグから酒やらつまみやらを取り出した。
「飲めるかい?」
酒には強くないし体調も心配だったが、飲みたい気分だったから時任の提案に乗った。
「取り合えず腹に入れるものは買ってきた。ゆっくり飲もう、僕の話は結構長くなるから」
そうだ、時任に会うのは時任が見つけたという知識について聞く為だった。メールの内容は荒唐無稽そのものだったが、今私が見ている時任の様子は異常どころか、全くの正気であるとしか思えなかった。
「取り合えず軽くやろう」
時任に促され、私はスパークリングワインが注がれたグラスを手に取る。軽く乾杯してグラスに口を付けた。結構口当たりの軽いワインだと思った。
「色々と聞きたい事があるだろう。だが、最初に一通りこの二年間に僕の身に何があったのかを聞いて欲しい。質問は後にしてくれると助かる。正直この話を聞いて僕の正気を疑うかもしれない。だがこれは僕が間違いなく体験した話だ」
時任の真剣な口調と表情に、私は思わず身構えた。
「楽にしてもらっていい。出来る限り簡潔に話すつもりだが、何しろ二年間もの話だし、相当強烈な体験だ。色々脱線してしまうかもしれないが勘弁して欲しい。少なくとも時系列に沿って話す様心掛けるよ。
「さて、二年前に何があったかから話させてもらう。当時の私の状況は研究者として生きていく事が困難だと思われていた。というのもポスドクの席が全くと言って良い程開いていなかったからだ。当然座して待つなんて事はしなかったさ。教授の伝やあらゆる求人に片っ端から応募したさ。だがどうにも運が無かったね、箸にも棒にもかからなかったよ。お陰で随分と精神的に追い詰められていた。幻覚や幻聴の様な現象も起こっていたよ。その幻覚幻聴なんだが、どうにも妙な感覚がしたんだ。妙と言うのは、言わば僕の記憶をまさぐっている様な、掘り起こしている様な感覚なんだ。幻覚幻聴の内容も、僕の過去の記憶にあったものから引用されている様で気味が悪かったよ。精神医学は専門外だが、過去の記憶をそのまま再生する幻覚幻聴なんてあると思うか? まるで何者かが僕の記憶を再生して観ているんじゃないかって思えてきたよ。うん、確かに精神状態は相当悪かったね。ただ、異常なほど思考が冴えてもいたんだ。そのおかげで幻覚幻聴の原因を掴む事が出来たんだ。恐ろしい事に本当に僕の記憶は何者かに覗かれていたんだ! 僕はそいつを覗き返す事に成功した。全くの偶然かもしれないが、それ(、、)を捉えた事で僕の価値観は大きく変化したんだ!
「僕が接触したそれはある種の霊体の様なものだった。近い言葉を探すなら、生霊かアストラル体かな? それは自身をイース人のA3N0と名乗った。イース人と言うのは言わば宇宙人だと思っていい。A3N0という名前は僕が認識出来た形でのそれの個体名だ。イース人は種族存続の為に精神だけを時間移動させる技術を持っていて、その技術を駆使して、あらゆる時空での知識や技術の収集を行っているという。また、精神を交換する技術も持っていて、その技術で何度も肉体を乗り換えながら種を存続させ続けているとの事らしい。A3N0は精神交換の対象として僕を選択したらしく、その準備の為に僕の記億を閲覧していたそうだ。そしてひょんな事から僕はA3N0と相互にコンタクトを取る事が可能になったんだ。
「まあ、確かに信じられないのはわかる。僕も最初は信じられなかったしね。それは向こうも同じだったそうだ。何しろ初めて精神交換対象がイース人を認識してきたそうだ。どうもその事がイース人の知的好奇心を刺激したのか、イース人の存在に懐疑的だった僕を精神の時間旅行に連れて行ってくれたんだ。具体的な事をここで上げていくと、時間がいくらあっても足りなくなる。だが、僕は本能寺の変の真相やピエール・ド・フェルマーの書斎、138億光年以上先の宇宙や物理定数の異なる別の泡(ボイド)宇宙を覗いたりしたんだ。これが僕の妄想で無い事は証明しようが無いが、だが僕が君達の事情をある程度把握している理由にはなるだろう? 僕は精神の時間移動で君達に何が起こったのかを見ていたんだ。とはいっても僕の時間移動の技術はイース人に遠く及ばない。肝心な事は判らず仕舞いだけどね。
「話を戻そうか。知っての通り僕の専門は宇宙論だ。天文学からM理論まで勉強したが終ぞ進路には恵まれなかったけどね。イース人がもたらした時間移動という経験は僕の宇宙観を粉々にしてくれたよ。何しろ不可能と思われていた時間移動が可能なのだから! 僕はA3N0に時間移動技術を教えてくれる様頼んだ。A3N0は渋っていたよ。確かに、僕が時間移動を悪用しないとも限らない。それに時間移動は危険な行為だ。イース人であっても許可を得る為に厳しい条件を満たさなければならないそうだ。ましてや僕は部外者だ。そう簡単には教えてくれそうになかった。だが粘り強い交渉の結果、精神交換後に課せられた業務を全うすれば空いた時間に独学しても構わないという事になった。僕はその条件を受け入れ、A3N0と精神を交換した。
「これが二年間失踪していた理由だ。いくら僕の記憶を見たとはいえ、ボロが出たら面倒な事になりかねなかったから、A3N0には知り合いとの関係を一切立つ様に指示していたんだ。そして僕はA3N0の肉体に宿り、イース人に協力しつつ時間移動の技術を学んでいたんだ。そして半年程前に僕とA3N0は再び精神を交換し元の体に戻った。その間に僕は自分で時間移動を試した所断片的に君と愛理の事情を知ったという訳だ」
酒の所為か、話の内容の所為かは判らないが私は正直時任の話を理解しきる事が出来なかった。私は一体何を聞かされていたのだろうか。
「まあ、信じられないだろうな。こればっかりは直接体験しなければならない話だからな」
だが、辻褄は合う。突然の失踪も、なぜ愛理の死を知っているのかも。まるで探偵小説の脇役になった気分だ。全容の掴めない難事件の推理を聞いているのかと錯覚してしまう。時任は時間旅行の技術を手に入れたという事なのだろうか?
「そうだ、この二年間で僕はイース人の持つ精神時間移動の技術を学び取ったんだ。それだけじゃない、イース人の科学を学んだ事で僕は画期的な万物の理論への足掛かりを掴む事が出来たんだ!」
時任の声と表情から興奮が滲み出し始めていた。
「窪塚、この技術があればお前は過去に愛理に何があったかを知る事が出来る。その上で過去の自分と精神交換する事で愛理が死ぬ事の無い様立ち回れるんだ」
時任の提案は私の心を強く揺さぶった。時任の言う時間移動技術が本物なら時任の言う通り愛理を救い出す事が出来る。だがそんな技術が本当に存在するのだろうか。そんな都合の良いものが、丁度良いタイミングで私の目の前に現れたというのは妙に不自然ではないのだろうか。仮に時任が私を担ぐ目的で近づいてきたとして、何故訳の分からない作り話を作る必要があったのか。余りにも分からない事が多すぎる。
「まあいきなりこんな事言われても信じる気にはなれないよな」
時任は私の困惑を見透かした様だった。
「なあ窪塚、確かに今の話は誰が聞いても異常だと思うだろう。僕がいくら事実だ経験した事だといっても証拠を提示しようが無い。その上で言う。僕が学んだ時間移動の知識があれば愛理を救えるだろう。その為には窪塚の協力が必要だ。頼む、僕に力を貸してくれ。僕は真理の探究の為に、窪塚は自分と愛理の人生の為に、その条件で協力して欲しい。この通りだ」
時任は私に向かって頭を下げた。時任の態度は真剣そのものだった。手先も人間関係も不器用な時任がここまで高度な嘘がつけるだろうか。時任は本気だ。本気で時間移動が出来ると確信している。例え時任の精神が異常をきたしていたとしても、どの道私は立ち直る切欠を求めていた。ならば時任の話に乗ってやろうじゃないか。時間移動出来なくても、この実験が私を変えてくれるならきっと意味はある筈だ。私は時任に協力する事にした。時任は何度も何度もありがとうと言った。本来なら感謝するのはこちらの筈なのだが。だが、この時点で少しだけ気が楽になったのは確かだ。私達はもう一本スパークリングワインを開ける事にした。
4 余剰次元
二人揃って酔い潰れて夜を明かした翌日、酔いが抜けきってから時任は私を実験場へと向かった。車での移動だったが、時任の運転は昔と変わらずひやひやするものだった。
「A3N0とは相談して避暑地のコテージを借りてそこを拠点にしたんだ。僕とは縁のない避暑地ならただの変わり者の新参者として扱ってくれるからね。色々と都合が良かったのさ。A3N0は上手い事資産運用をしてくれたみたいでね、実験に必要な材料やらなんやらを調達するのに必要な資金は十二分にあるんだ」
東京から車を走らせること数時間、それなりに避暑地の中心街から離れた所に時任の拠点があった。目立たない外見であったが、コテージの中は清掃が行き届いていた。コテージのリビングダイニングで時任は私に実験について説明すると言ってテーブルに着かせた。
「窪塚にやって欲しいのはここに書かれている薬品の調合だ」
時任が渡してきたコピー用紙に印刷されていたのは古めかしい手書きのアルファベットで書かれた文章だった。余りに不可解な品に私は思わず時任に文書の正体を質問していた。
「『デ・ウェルミス・ミステリイス』というグリモワール、魔導書の一部だ」
時任は一体何を言っているんだ? 魔導書だと?
「日本語に訳すと『虫の神秘』だったかな、そもそも日本語訳が無いからなあ。どう訳したら正確なのかは誰にも分からないのさ」
思わずこの本の出所を尋ねていた。聞きたい事は山ほどあるが、上手く言葉に出来ない。片っ端から口に出すしかない。
「僕がこの体に戻ってきてからのこの半年間はずっと実験に費やしていたんだ。実験に必要な機材や道具、薬品の材料といった物を買い集めて、僕自身の手で薬品を調合していたんだ。結果は失敗だったけどね。この『デ・ウェルミス・ミステリイス』のコピーもそうさ。あるルートを利用して手に入れたんだ。詳しい事は言う訳にはいかない。それで古いドイツ語で書かれているこれを何とか翻訳して薬品のレシピを探り当てたんだ」
時任はテーブルに並べられた魔導書のコピーを指で叩きながら、誇らしげに説明した。
「窪塚にやって欲しいのはこの薬品の調合だ。翻訳したレシピを渡すから、それを基に薬品を調合して欲しい。材料はこの棚に保管してある」
時任は新たなコピー用紙を私に手渡し、私の後方の薬品棚を指差した。私は時任が翻訳したという製法を読んだ。書き起こした原文とされるアルファベットの文章の下に時任の翻訳文が記されている。単語を無理矢理繋げた様な拙い翻訳文だが、何とか意味は読み取れる。読み取れるだけに不可解だ。私を担ぐにしても手が込み過ぎている。まさか本当に時任はあの奇妙な体験をしたとでもいうのだろうか。私は翻訳したレシピにざっと目を通した。記された材料を示す単語は漢字しかなく、中には私も聞いた事のある様な漢方薬が書かれていた。
「それはだな、『デ・ウェルミス・ミステリイス』によると元々この薬品は中国で開発された物らしいんだ。『デ・ウェルミス・ミステリイス』には古代中国の道士か仙人と言われる遼という人物が開発したものらしい。一説によるとかの老子も服用していたらしく、道(タオ)という概念はこの薬品を服用した事で得たそうだ。あくまで『デ・ウェルミス・ミステリイス』に記述されている内容に依ると、だけどね」
だから材料が漢方薬ばかりなのか。
「どうもそうみたいだね。化学(ばけがく)出身の君から見てこれをどう見る?」
漢方はよく知らないから詳しく調べてみない事には判らない。だがこの黒蓮の蓮肉というのは気になる。わざわざ花の色を指定するなんて余程重要な物に違いない筈だ。
「同感だね。黒蓮の蓮肉はこの薬品の主原料ともいえる漢方だ。結構値が張ったけど、大量に仕入れる事が出来たから心配はしなくていい」
それは間違いなく心強い情報だった。私は薬品の製法が翻訳された紙から顔を上げた。そういえば薬品を調合している間、時任は何をするんだろう? 結構な不器用である時任がまともに家事が出来るとは思えない。結局の所身の回りの事は私がやった方が良いだろう。それは時任も分かっている筈だ。コテージの中を綺麗に掃除するのに一体何度体をぶつけたのだろうか。私は時任に製薬中の行動について尋ねた。
「僕は製法の原文が無いかどうか探ってみるつもりだ。今の所何の手掛かりも無いけどね」
この魔導書を手に入れたルートは使えないのだろうか? 蛇の道は蛇というだろう。
「あのルートを使えたのは目的の物が判っていたからさ。今回の探索は全くの手掛かり無しの状態から始めないといけないから使えないよ」
何の為に原文を求めるのだろう。私は時任に疑問をぶつけた。
「ああ、僕が原典を探すのは保険の様なものだ。効果はある事が分かっているし恐らく使用しても問題ない筈だ。原典があればより効果を高める方法が見つかるかもと思っただけさ」
私はもう一度翻訳された製法を読み込んでみた。漢方には全く詳しくないが、化学(ばけがく)を学んだ身としては明らかな疑問がある。この薬品は一体何の為に使用する物なのだろう?
「最もな疑問だ。それについて説明したかったんだがどう説明したものか悩んでいてね」
好きな様に話していい、と私は時任に伝えた。
「それならそうさせてもらうが、精神の時空移動を説明するには超弦理論と発展形であるM理論、並びに膜宇宙と場の量子論、そして近代オカルティズムについて語る必要があるんだが」
随分とめちゃくちゃな話になりそうだ、と私は身構えた。
「なるべく分かり易く説明する事を心掛けるが、何分現代物理学というものは人間の素朴な世界観に反する様な宇宙を想定しているからね。何処で君が躓くのか僕にはわからない。遠慮なく質問して欲しい。
「さて、君に作ってもらう薬品の効果から話す事にしよう。その薬品は人間の精神を可換可能な時間次元に接続出来るという効果を持っている。記録によるとこの薬品の服用者は過去を見るパターンが圧倒的に多いそうだ。これには理由があると思う。それは薬品の効果が服用者の時空に対する認識に依っているんじゃないかと仮説を立ててみたんだ。時空という概念の歴史には二つの大きなターニングポイントがある。アイザック・ニュートンとアルベルト・アインシュタインだ。それまで全く別の概念と考えられてきた時間と空間が、ニュートンによって運動方程式という一つの式に纏められた。そしてアインシュタインの相対性理論によって時間と空間は一つの時空という概念に纏められる事になった。だが、君は時間と空間を同じ様に扱うなんて想像出来るか? それこそアインシュタインの相対論を、ローレンツ変換を学んでいなければ現代人だって想像もつかないだろうな。また、未来を見たパターンが少ないというのも、未来というものが想像し辛い概念だからかもしれない。或いは未来を見た結果が悪いものだった場合を恐れて無意識の内に未来方向に背を向けているという仮説も考えられる。
「さて、話を進めよう。時間と空間は同様の概念として取り扱う事が出来る様になった。しかし、時間と空間は依然として異なる振舞いをする。1次元の空間を考えてみてくれ。1次元空間は言わば線だな。この1次元空間は無限の長さを持つと仮定しよう。この1次元空間のある一点から移動するとなると、移動方向はいくつある? そうだ、ある方向とその逆方向の二つだな。この空間を2次元、3次元に拡張しても同じだ。ある方向に移動してもその方向とは逆方向に移動する事が出来る。だが時間はどうだ、過去から未来に移動出来るが、未来から過去に移動出来ないだろう。厳密には量子力学において時間の逆行現象は起き得るんだが、非常に低確率だから人間が認識出来る様な時間の逆行現象は起きないと思っていい。要するにだ、時間は空間と異なり一方通行の運動しか出来ないと思っていい。亜光速度で移動し続けたとしても、相対時間を遅らせるだけで過去に遡る事は出来ない。そう、物質は時間を逆行出来ない。ならば物質でなければ時間を可換可能な次元として認識出来るのではないか?
「その答えをイース人と遼何某はそれぞれ発見したんだろう。それぞれアプローチは異なるが起きている現象は同じだ。可換可能な時間次元にアクセスする。物質では可換可能な時間次元を認識出来ないから精神のみを対象とする。そもそもそんな時間が存在するのか? 世界は3次元空間と1次元時間だけじゃないぞ。カルツァ=クライン理論では電磁気学と重力を統合する方法として第5の微細な円形の余剰空間を始めて導入している。また超弦理論を包括するM理論は10次元時空から26次元時空まで拡張した余剰次元を11次元まで纏めている。余剰次元は微細構造だけではないぞ。ブレーン宇宙論では我々の4次元時空を高次元時空の一部分の膜、ブレーンではないかと仮定する事で物理学上の問題を解決する試みもある。次元というものは内側にも外側にも拡張可能な概念となったのさ。ならば我々の4次元時空ブレーンの外に可換可能な時間次元が存在していてもおかしくは無いだろう? こうした余剰次元を認識出来る様になれば時間移動だけでなく、3次元の世界胞体を観測するだけでなく、観測不可能な異なる波動関数が観測された世界を認識出来る様になるかもしれない! 所謂エヴェレットの多世界解釈が解釈ではなくなる訳だ! 全ての事実は観測され、全ての可能性は検討される。その中から好きな様に世界を選択出来るんだ。素晴らしいと思わないか? この実験に成功すれば君は愛理の死の真相を知り、愛理が死なない様に立ち回る事が出来るんだ!」
私には現代の物理学の事などほとんどわからない。せいぜい大学で取った物理化学くらいしかわからない。それでも時任の説明は確かに私に希望を与えてくれた。私はいつの間にか身を乗り出して時任の説明に耳を傾けていた様だ。私は姿勢を正すと、再び時任の説明に意識を集中させた。
「ここからの話は毛色が変わってオカルティックになる。時間移動の対象である精神の話だ。そもそも精神とは何か。心だ気力だ魂だ何だと人によって異なる答えが出てくるだろうが、ここでは知性体の認識、意思、判断、記憶の総体として扱う事にする。自我や自意識と呼んでもいいかもしれないな。ルネ・デカルトは実体を物質と精神に分類し、心身二元論を提唱した。デカルト以前にも肉体と精神を分けて考える思想はあった。世界各地のシャーマンは神々の世界へ精神の旅をする事であらゆる知識を人々にもたらしたとされている。古代エジプトでは人間の生命は肉体に宿るものと精神に宿るものに大別出来ると考えていた。インドだけでなくケルトにも輪廻転生の思想はあり、肉体の死と精神の死は別と考えられていた。死者が生者にメッセージを伝える話など世界を見渡せばどこでも見つかる。そして死と再生の物語はあらゆる神秘思想の根幹になっている。例えば聖杯伝説、大国主の神話、エレウシスの秘儀など色々あるぞ。近年ではエドガー・ケイシーとアカシックレコードの例もある。詰まる所人間を構成しているのは物質的な肉体だけでなく、精神的なものも含めて人間と言えるのだろう。
「そもそもだ、僕達のこの意識というものは科学的に考えれば神経系に走る電気信号でしかないのだろう。だが、ただの電気信号なら容易く再現出来ると思わないか? ときたま自我を持ったAIの話が出てくるが、あそこまで到達するのに一体どれくらいの時間がかかるだろうね。もしも自我を持ったAIが誕生したら我々はそれを生命と見なすのかな。科学というものは学べば学ぶ程何も分からない事が判ってくるというのは君にも経験があるだろう。精神というものも現代科学でも定義出来ない謎の一つだ。そうした謎が我々の知る科学的な方法ではなく、全く異なる魔術的ともいえる方法でしか解明出来ないと言われても何ら反論出来ないだろう。
「ある意味ではイース人の持つ技術の数々は魔術的と言えるよ。彼らの本質は肉体ではなく精神にある。遥か昔からイース人は精神を宿した肉体が絶滅しそうになったら他の種族と精神を交換して生き永らえてきた。他の種族と一時的に精神を交換して知識と技術を収集し、自らの種族の糧にした。過去にも未来にも精神を飛ばしてイース人という種族は存続し続ける。彼らのアイデンティティは間違いなく精神にある。
「イース人が時間移動を可能としているのは間違いなく長年に渡って続いてきた精神の研究によるものだろう。彼らの技術は全て精神の力を存分に行使する為にあるといってもいい位だ。僕が学んだのはあくまでその一部に過ぎない。しかもその技術はイース人の様な強固な精神の持ち主でなければ扱えない代物だった。理論構築には役には立ったけど、実践するには地球人類は精神と肉体の結び付きは強すぎる。自身の精神を永遠の物に出来るのはごく限られた精神的超人だけさ。そうした超人達は決して死を恐れないだろう。数多くの宗教的指導者のエピソードがそれを教えてくれる。彼等超人達が行使する奇跡は彼等の強靭な精神が為せる業なのさ。魔術や超能力というものは精神によって引き起こされる現象なんだよ。勿論、時間移動もそうさ。正しく魔術的だよ。でも、決して解明出来ない謎じゃない。
「僕達がやろうとしている事は、肉体と精神を遠ざけ、精神を可換可能な時間次元に侵入するお手本の無い行為だ。無論、僕達の精神が超人的なものであるという保証は無い。その為に薬品が必要なんだ。精神力を増強し、精神と肉体を分離し辛くする。かつ精神を肉体から解放する事で時間移動の安全性を高める薬品が。世界中に似た様な薬品がある。魔女やシャーマンが薬品を使ってトランス状態になる事だってある。古代ギリシアのディオニュソス教団は葡萄酒で酩酊する事で神憑りの様な状態になったと言われている。北欧の狂える戦士達は出陣前に薬酒を飲む事で戦闘の恐怖を麻痺させていたと聞く。現代だってそうした魔女の薬は取引されているんだ、殆どが違法だけどね。そんなに怯えなくていいよ、言ってしまえばこの薬品は幽体離脱を誘発するだけだよ。神智学的に言えばアストラル投射を補助する為の物さ。差し詰め僕等が行くであろう可換可能な時間次元はアストラル界を構成している次元の一つだったりするのかもね。であれば未来視も過去視も出来てしまう理由にはなるな。
「イース人が使っている時間次元が神秘思想家や神智学者がアストラル界と呼ぶものなのかは僕にはわからない。僕が時間移動を可能としたのはあくまでイース人の技術によるものであって、僕自身が意図的に時間移動した訳じゃないからね。周囲を観察する余裕も無かったよ。初めて行った実験でも周囲の状況を上手く把握出来なかった。僕自身が不器用だからかもしれないけど。だからこそ君の手先が必要なんだ。結構熱を持って話してしまったけど大丈夫か?」
正直、時任の説明の半分も理解したとは言い難い。M理論や神智学など私にはさっぱりだ。だが、時任に担がれようと時任は本気で時間移動が出来ると確信している様に見える。こうなったら最後まで突っ走ってやろうじゃないか。私の中に活力が溢れて来ていた。そういえば、時任はどれくらい原文の探索に費やすのだろう? 私はその事を時任に尋ねた。
「取り合えず明日から一週間、心当たりのある場所を虱潰しに探してみる。それで駄目だったらすっぱり諦めるさ。今のレシピで実験を行う事にするよ」
薬品が完成するまで約1週間程かかる。丁度いい期間かもしれない。
「車を置いていくよ。僕は電車で移動する事にしよう。行きと帰りだけ僕を駅まで送ってくれれば後は自由に使ってもらって構わない。生活費は駅で渡す事にするよ」
私は時任の申し出を拒否した。ここまで世話になる気は無い。
「いいんだ、これは僕なりのけじめだ。君を変な話に巻き込んでしまった事へのね」
5 虫の神秘
結局その日は生活費を貰う貰わないの押し問答の決着は着かなかった。翌日、私は時任を駅まで送っていった。少し待ってくれ、と時任は私を駅前のロータリーに留め置いた。数分後に戻ってきた時任は十数枚ほどの一万円札を裸のまま私に渡してきた。やはり受け取れないと、しばらく昨夜と同様の押し付け合いを続けていたが、電車の時間が近くなった途端、時任は勢いよく私に一万円札の束を押し付けると逃げる様に駅へと向かっていった。暫く私は呆然としていたが、いつまでもこうしているわけにはいかないと十数万円をダッシュボードに挟んで車を発進させた。
道中スーパーで食料品や日用品を買い込み、昼食を済ませてから時任のコテージへと戻った。結局時任が渡してきた金には手を付けなかった。午後から私は早速薬品の生成に取り掛かった。製法や工程自体は何ら複雑ではない。小中学校の理科室にある様な実験道具があれば十分事足りる。それこそ今の時代なら100円ショップで道具を揃える位訳ないだろう。幸いにも時任は品質の良い道具を用意してくれた様だ。ありがたく使わせていただこう。
薬品の作成自体は何ら滞りなく進んでいった。だが、この薬品の生成法は奇妙としか言い様がない。一度炒ったものを水に浸したり、かと思えば水に溶かしたものを沸騰させて水分を飛ばしたり、まる三日暗所に寝かせたりとよく解らない工程が延々と書き連ねていた。おまけに待ち時間が非常に長く、手持ち無沙汰になり易かった。私も辞書を片手に文章の内容を確かめて見たのだが、時任の翻訳以上の成果は得られなかった。
時間が空いた時に私は家事以外に時任が残した翻訳された魔導書のコピーを読み込んでみた。原文の書き起こしと翻訳文が併記されたコピー用紙は相当な分量があったが、暇を潰すには丁度良かった。魔導書なんて見るのも初めてだから何が書いてあるのかわくわくしながら読んでみた。端的に言って時任の拙い訳文を抜きにしても悪文としか言い様がなかった。冒頭の著者の来歴からしてしょっちゅう時間が飛んで話が脱線しているし、時折挟まれる謎の単語や図像の説明は殆どされていない。格調高さを演出しようとしたのか回りくどい言い回しをやたらと使っているが、その所為で話がこんがらがっている。とはいえ決してつまらないという訳ではなく、むしろ何故か引き込まれる魅力があった。読んでは戻り、読んでは戻りを繰り返しながら薬品の生成と並行して私は魔導書を読み込んでいった。特に他にやる事が無かったからかもしれない。それとも魔導書を読んでいる間だけは愛理を喪った悲しみを掻き消してくれるからだろうか。
魔導書に気になる一節があった。今作っている薬品の生成法が書いてあるページのすぐ後ろにある部分だ。そこには精神の時間移動をする際の注意点が書いてあった。何でもこの宇宙には我々が認識している時間とは異なる時間が幾つも存在するらしい。その内のある時間に棲むという存在が妙に引っ掛かった。その時間を魔導書では『ティンダロス』と呼称されていた。いや『ティンダロス』はその時間の中に存在する都市だったかもしれない。その『ティンダロス』に棲んでいるという『猟犬』という存在はどうも我々の時間を憎んでいるらしい。『猟犬』は他の時間に直接干渉する事は出来ないそうだが、『ティンダロス』の時間に接触した個所から別の時間に侵入して周囲の生物を捕食するらしい。『ティンダロス』の時間に接触するには、精神での接触と接触者の周囲に2π/3ラジアン以下の角度の存在があって初めて『猟犬』は別の時間に干渉出来る様になるそうだ。著者は実際に『猟犬』を見た事は無いそうだが、『猟犬』の犠牲者は見たと書いてある。『猟犬』の餌食になった哀れな犠牲者には悪臭を放つ青黒い粘液が付着していたという。目立った外傷は見当たらず、まるで突然発作を起こしたかの様な遺体だったそうだ。だが、その遺体は妙に軽く、何か内臓が抜き取られているのではないのだろうかと筆者は記述している。
もしこの記述が正しければ、私達が時間移動している時に『ティンダロス』に接触する危険があるという事では無いのだろうか。あくまで魔導書の記述が正しくて、時任が本当に時間移動を経験しているのならば。その事を今すぐにでも時任に確認したかったが、どうにも話を切り出す為の連絡を取る事が出来なかった。そしてあっという間に薬品が完成する日が来た。その日は時任が帰ってくる日でもあった。
午後四時頃、完成した薬品を錠剤状に加工し終えた直後だった、時任から連絡を受け私は駅まで向かった。一週間ぶりの時任は疲労の所為か少しやつれて見えた。益々『ティンダロス』の『猟犬』について聞き辛くなってしまった。取り合えず私は時任に探索の成果を尋ねた。
「いいや、空振りだ」
時任は力なくかぶりを振って答えた。相当疲れているのだろう、それ以上口を開こうともしなかった。私が薬品の感性を報告しても時任はそうか、と小さく呟くだけだった。取り合えず今日はゆっくり休ませよう。時任が十分回復したら改めて聞けばいい。結局その日は時任とはほとんど会話する事は無かった。翌日、薬品が生成し終えた事も相まって私は思う存分惰眠を貪っていたが、流石に昼前になると空腹が辛くなる。リビングダイニングに出てみたが、時任はまだ寝ている様だ。時任が起きてきたのは私が起きてから一時間半後位だった。丁度私は朝食兼昼食を摂っている所だった。随分長く寝ていた所為か、時任の目線も足取りもはっきりしていなかった。案の定時任はテーブルの脚に足の指をぶつけていた。時任が体のあちこちをぶつけるのは日常茶飯事と言ってもいい。案の定時任は何事も無かったかの様に水を飲んだ。
「悪いが、今日の日中は休ませてくれ」
時任の提案に私が否を唱える理由は無かった。この実験を主導しているのは時任だ。奇妙な事に私はこの実験の全容をまだ把握出来ていない。時任がいなければ私は何も出来ないのだ。その日の午後は互いに干渉する事無く過ごした。私はまた時任が翻訳した魔導書を読んでいた。他に読むものが無かったし、これを読んでいる時だけは精神が安定するからだ。パズルを解く様に悪文に挑んでいる時だけが今の私にとってのライネスの毛布と言えた。毛布と呼ぶには趣味の良いものではないと我ながら思うが。
夕食後、時任から実験について話があると言われ、リビングダイニングに留まった。時任は薬品棚にある鍵の掛かった引き出しからクリアファイルを取り出すと、その中身を私に見せた。それは日本語の文章ではあったが、未知の単語ばかりで構成された文章の羅列としか思えなかった。そういえば一週間程前にも同じ様な目にあった気がする。
「時間移動の際に発生する危険から防御する為の方法が書かれた文献のコピーだ。『デ・ウェルミス・ミステリイス』にも一応言及されているが、又聞きの所為か情報があやふやな所があるんだ。勿論一次資料を当たったよ。それがこの紙だ。『ナコト文書群』と『エルトダウンの粘土板群』の記述をコピーしたもの、それに加えてイース人の元で学んだ知識を僕が加筆修正したものだ」
加筆修正ということは、時任は正確な情報を持っているという事だろうか?
「意外な事に『ナコト文書群』と『エルトダウンの粘土板群』はイース人が記述したものだったのさ。僕が学んだ時間移動技術の関する部分だけしか比較検討は出来なかったけど」
まさかその二つの文書はイース人が記述したとでもいうのだろうか?
「そのまさかさ。イース人はかつて地球に存在していた時期がある。その時の簡易的な情報の纒書きが『ナコト文書群』と『エルトダウンの粘土板群』だったのさ。この二つの資料は一部の考古学者が名前だけ知っている様な非常にマイナーな資料だ。最もこれらを研究対象にしている学者はいないだろうね。何しろ歴史的や考古学的に有用な情報は何も無いと言ってもいい位だ。但し、魔術師や僕の様に科学を越えようとする者に限っては非常に有用な文献に早変わりさ」
時任はどのようにして裏付けを取ったのだろう? まさかイース人から直接だろうか。
「そういう事だ。これから行う防御法もイース人が実際に行っているのを見たし、『ナコト文書群』と『エルトダウンの粘土板群』にも同様の記述があった。恐らく間違いは無い筈だ」
その方法で防ぐのは『猟犬』からの襲撃だろうか?
「『デ・ウェルミス・ミステリイス』を読んだな? 別に責める気は無いさ。むしろ話が早くて助かる位だ。読んだ気分はどうだった?」
随分と気が楽だった、悲しみに浸らずに済んだから、と私は答えた。時任は眉をひそめて考え込んでしまった。私の回答の何が引っ掛かったのだろうか。思ってもみなかった反応に私は呆気に取られた。それは向こうも同じだったのかもしれない。
「いや、体調に問題が無ければいいんだ、別にいい。話を戻そう。君の予想通り『猟犬』に対する防御は必ずしなければならない。時間次元同士は絡み合っていてどこで『猟犬』の時間と接触しているか分からないからね。その為に僕達は時間移動中この図形の中に居続けなければならない」
時任が指し示した先にあったのは正五角形だった。いやただの正五角形では無い。正五角形の各辺の外側にはそれぞれ異なる文字の様な記号が書かれている。正五角形の中は対角線ではない五本の直線と二つの円と僅かな一本の曲線が不規則に並べられている。ファンタジーの魔法陣の様だ。結界でも張るのだろうか?
「正しく、これは結界さ。『猟犬』を通さない様にする結界だ」
私の冗談は事実となってレシーブエースを決められた。
「イース人は自身の精神に必ずこの図形が含まれている。だからイース人は自由に時間を移動出来るのさ。だが我々地球人類は違う。精神構造にこの図形が無いから必ず肉体をこの図形で囲わなければ、精神を『猟犬』に嗅ぎつけられてしまう。『デ・ウェルミス・ミステリイス』を読んだのなら理解してくれると思うが、必ずこの工程は省いてはならない。放射線を扱うのに鉛で遮蔽する様に、劇薬を扱う時はビニールの手袋や防護服が欠かせない様に、身を守る為に必要な措置だ」
非常に馴染み深く解り易い説明だった。
「僕も描いてみたんだけどね、この有様さ」
時任が学会発表用のポスター入れから取り出したのは四畳半の部屋を埋め尽くせそうな程巨大な模造紙だった。模造紙には例の正五角形が所々歪んでいながらも描かれている。
「お察しの通り僕の手書きさ。態々黒板用の巨大なコンパスや定規を買ったんだぜ」
これを私が書き直すのだろうか? 綺麗な線の方が効果が高いのかもしれないし。
「ぜひお願いしようと思っていた所さ。防御性能はあるにはあるみたいだが、どうにも不安が拭えなくてね。実験は書き終わり次第僕の部屋で行うからそこで書いて欲しい」
時任は私を実験場である時任の部屋に案内するとポスター入れからまっさらな模造紙を取り出した。それからクローゼットから巨大なコンパスと定規を取り出した。私は早速お手本を片手に正五角形の書き出しに着手した。鉛筆で下書きと補助線を引き、正五角形とそれに付随する文字や線を油性マーカーで描いていく。ものの三十分で図形は書き終えた。
「やっぱり僕よりも綺麗に出来ているな」
時任はやや自嘲気味に笑みを浮かべた。
「さあ、そろそろ時間移動を始めようか。薬品を持ってきてくれ」
私はリビングダイニングの薬品棚から完成した錠剤と水を入れたコップ二つを持って時任の部屋に戻った。時任は私が書いた正五角形の結界を床に敷き、その上にゲーミングチェアを二脚用意していた。ゲーミングチェアの横にはサイドボード代わりのスツールが置かれている。ゲーミングチェアはロープと金属棒でスツールや家具と結び付けられ、結界の外に出ない様固定されていた。私は時任に促され、薬品と水をスツールに置きゲーミングチェアに座った。いよいよだ、いよいよ愛理を救う事が出来る。私は錠剤とコップに手を伸ばした。だが時任が私の手を制した。
「時間移動を始める前に再度確認する事がある。必ずしておかないと危険な状態になりかねないからだ。というのも、これから僕達は肉体を離れ精神体として活動する訳だが、我々が向かうのは1次元時間と3次元空間ではなく、より高次元の世界だ。そこでは僕達の今までの認識が通用しないと思って欲しい。下手をすれば精神が錯乱し、取り返しのつかない状況になりかねない。予め言っておくが、自分の姿を想像しない方が良い、3次元空間の肉体を高次元で表現したらどうなるか分かった物じゃない。この点はイース人達からも再三に渡って警告されている。また高次元を認識するのに地球人類の精神では処理スペックが足りない可能性がある。君の目的は愛理の死の回避だろう。その為には愛理の死の真相を突き止め、対策をする必要がある。単に時間次元を移動するだけなら問題無いと思われるが、波動関数の収束条件の数だけ存在する並行世界を果たして処理しきれるのか? 1プランク秒、或いはそれよりも細かい時間単位毎に全宇宙、138億光年よりも広いであろうこの宇宙だけでなくカオス的インフレーション理論によって存在するであろう物理定数の異なる泡(ボイド)宇宙に存在する全量子の波動関数の収束条件を全て掛け合わせた数だけ存在するであろう並行世界をだよ?」
正直想像もつかない数だ。だが、どれだけ果てしない作業だろうと既に私の腹積もりは決まっていた。私は時任に強く決意を表明した。時任はそうか、とだけ呟いた。時任が私に何を思ったのかはわからないが、お互いにもう止まらない事を理解してくれた筈だ。
「それでは、始めようか」
時任がコップと錠剤を手に取る。私も同様にする。
「僕は万物の理論の解明の為、君は愛理を死から回避させる為。お互いに目的が異なる以上、ここでお別れになるかもしれない」
時任のお陰で私は希望を見出す事が出来た。だから悲しむ必要はなかった。
「最初は拡張した空間と時間の移動を体験し、自由に移動する術を身に付けてもらう。それが出来る様になったらお互いの目的を果たすとしよう」
私達は錠剤と水を口に含み、一気に嚥下した。薬効が出るまで時間があるかと思いきや、直ぐに眠気が襲ってきた。
「逆らわず、そのまま眠るといい」
時任に言われるがまま、重みを増した瞼を閉じた。
6 高次元時空
すぐに私の意識は薄れていく。落ちていく様な、浮かんでいく様な、どちらとも言い難い無重力を感じる。何かに包まれていく訳では無い、何も無くなっていくという方が近い。何故か意識は薄れていきながらも途切れる事は無い。眠い筈なのに意識が眠らない。肉体と意識が全く異なる反応をしている。
「窪塚、聞こえるか?」
時任の声がする。だが、馴染み深い時任の声では無い様な気がする。声色と言うか響き具合と言うか、とにかく何かが違うのに声の主が時任であると認識している。妙に不快な気分だ。
「肉体と精神が十分に離れた。4次元空間を観測出来る様になったぞ。目だ、目を開く感覚だ。それで何が見える?」
私は目を開く様意識を働かせた。私は3次元を俯瞰していた。私と時任の体が正面も側面も背面も同時に認識出来る。不思議な感覚だ、だがこの感覚に酔って不快な気分になる訳では無い。むしろその事を当然の事と受け入れている自分がいる。私の意識はすっかり4次元に慣れてしまった様だ。
「窪塚、気分はどうだ?」
問題ない、最高の気分だ。そう言った私の声も妙な声色になっていた。
「視点は変えられそうか?」
私は視点を移動する様意識を働かせてみた。視点は私達の肉体から離れ、コテージの全景を映し出す。屋根も壁も窓も戸も一度に見渡せる。私は問題無い事を時任に伝えた。
「どうやら動ける様だな。時間の流れに乗る方法を教えよう」
どうも動画をスクロールするみたいに時間が動かせる様な、何かを感じると時任に伝えた。
「やってみるといい。僕もそれを時間次元だと思っている」
私は時間次元を移動してみた。前に進んで風にそよぐ枝をよく観察してみる。そして時間を後退してみる。枝の動きが逆再生される。動ける、動けるぞ! 時間を自由に動ける!
「どうやら問題ないようだな」
時任と思しき声は満足気な声色をしていた。
「それじゃあ、ここからはお互いの目的の為に分かれる事としよう」
そうだ、時任にも私にもそれぞれ別の目的がある。名残惜しいが仕方ない。
ありがとう、時任。頑張って来るよ。私は感謝で満たされていた。
「こちらこそ感謝するよ、窪塚。幸運を祈る」
時任は高次元へと向かい、私は過去へと向かった。向かう時間は愛理が失踪した日時。恐らく帰宅途中に何かあったものと思われる。愛理の帰宅している様子を伺う為に退社時から順に追っていく事にする。
途中、私は『猟犬』と思しき物体と遭遇した。それは青黒い流線型の粘液の塊としか見えなかった。その粘液の塊は生き物の様にぶるぶると震えながら何かを嗅ぎ回る様に徘徊していた。『猟犬』の軌道は直線的であり、常に鋭角で折れ曲がりながら移動していた。私はびっくりして体が硬直し縮み上がってしまったが、『猟犬』はこちらに気付く事なく徘徊を続けていた。どうやら正五角形の結界は正常に機能しているらしい。私は安心して愛理の行動を追う事にした。やがて愛理が橋に差し掛かる。この川から流されていれば愛理が発見された場所に辿り着く。可能性としてはここで何かがあったに違いない。橋にはライトが備えられていて切れていたりもしない。橋の欄干は愛理の腰の位置より十分高く、誤って転落という事も無さそうだ。橋を渡ろうとしているのは愛理だけだ。近くに人はいない。この状況で愛理に何が起きたというのだろうか。
私の近くに『猟犬』が寄ってきた。私は思わず避けたのだが、『猟犬』はその場で静止した。突然、『猟犬』が激しく震えだした。『猟犬』は向きを変えた、愛理がいる方向にだ。私は『猟犬』の行動が一瞬理解出来なかった。どうすればいいのか判断する前に『猟犬』は愛理に向かって突撃した。私が制止しようと動く前に『猟犬』は3次元空間に侵入し、瞬く間に愛理に衝突した。『猟犬』は愛理を跳ね飛ばし、青黒い粘液を撒き散らしながら川に叩き落とした。同時に愛理の魂が『猟犬』に喰われた事も見て取った。
私は絶叫し、時間を停止した! 私が、愛理を死なせる切欠だった! 『猟犬』は未だ3次元空間にいる。戻れ、戻れと念じながら時間を巻き戻す。『猟犬』は逆走し、愛理の魂が愛理の肉体に戻る。だが『猟犬』は3次元空間の外に出ていかない。何度時間を戻そうとしても『猟犬』が3次元空間に侵入した瞬間から戻らない。焦燥が私から冷静さを奪っていく。落ち着け、原因は必ずある。その為にも仔細隈なく観察してみなければ。3次元空間だけじゃない、他の要素が絡んでいるかもしれない。すると『猟犬』の移動した経路に何やら青黒い線の様な物が有る事を見て取った。私はこれが『ティンダロス』という時間次元なのだろうと確信した。『ティンダロス』は折れ曲がった針金の様にぐねぐねと軌道を常に変化させている。既に3次元空間と『ティンダロス』は『猟犬』の位置で接触していなかった。愛理を死なせない為には『猟犬』と『ティンダロス』が完全に重なり合うしかない。現在の時間から愛理に衝突するまでの間にその瞬間が訪れるタイミングを探るしかない。だが、それがいつになるのか、ひたすら待つ事しか出来ないのかと途方に暮れるしか無かった
ここでふと時任との会話から、この状況を打破出来そうなアイデアが浮かんだ。そうだ、時任が言っていた。多世界解釈に依れば起きうる全ての事象は宇宙として存在するかもしれない。ならば愛理が生き残る宇宙を選んでいくしかない。その為には時任が目指した様により高次元へと自分の精神を拡張する必要がある。3次元空間と『ティンダロス』の接触パターンを余す所無く観測出来る程の高次元に行かなければ。時間を俯瞰出来る様に時間次元を一つ増やして全ての可能性を観測出来る様にしなければ。それだけじゃない、我々の宇宙が有する空間次元の全てを観測する為にも更に認識出来る空間次元も追加しなければ。
意識が更なる次元を捉えていくのが解る。虹色と黒と白のマーブルが高次元の宇宙だと認識出来る。この色の具合こそが拡張された次元の形状であり、性質なのだろう。極彩色のマーブルは多次元の球体が複数固まって出来ていて、無彩色のマーブルの中で生まれ、大小に変化し、消えては増える。時間が線となり、空間を編み込みながら枝を構成しているのが分かる。枝同士は触れ合う事なく隔てられ、交わらぬ様更に枝を伸ばす。時間の最小単位毎に枝が生え、枝の一本一本に世界が瞬間で記録されている。さあ観測しよう、愛理が死なない様に済む世界を。『猟犬』は3次元空間に侵入した時点で静止させている。ここから愛理に衝突するまでに何としても『猟犬』を『ティンダロス』に戻さなければ。途方も無い数の世界を観測しなければならないが、今の私には時間を気にする必要は無い。愛理が死なない世界を見つけなければ。
高く、高く次元を拡張させていく。極彩色のマーブルはよりはっきりと認識出来る様になっていく。歪な真球で構成された極彩色のマーブルがその姿を露にする。いや、私は昇っているのでは無い、あの極彩色のマーブルに引き寄せられている! あれに近づいてはいけない! 本能が警告してくる。だが、あれには強大な重力が働いている。あれから逃れられるものなど無い。宇宙に存在するものは悉くあれと繋がっているのだと理解してしまう。あれは全てだ、宇宙の全てだ。宇宙の全てが一つに纏まったものだ。全てを繋ぐものだ。たった一つのものだ。あれは振動している。あれは静止している。あれは全てを分類する。あれは物事を区別していない。あれは知性を有している。あれは反応を返さない。あれは全てを含んでいる。あれは空っぽだ。あれは全知だ。あれは忘却だ。あれは全能だ。あれは無為だ。あれは始まりだ。あれは今だ。あれは終わりだ。あれは外側にある。あれは内側にある。あれは境界にある。あれは境界そのものだ。あれは境界を無くす。あれは愛している。あれは憎んでいる。あれは関心を持たない。あれは真実だ。あれは虚構だ。あれは理想だ。あれは現実だ。あれは無限だ。あれは有限だ。あれは――
「窪塚!」
時任の叫び声がする。私よりも先に時任は、多分あれが時任の精神体なのだろうそれが極彩色のマーブルに吸い込まれていく。時任の精神体が引き延ばされ、渦を巻きながら極彩色のマーブルの一部に組み込まれ溶けていく。ばらばらに分解されながら、一つに結合されていく。粘土かミンチ肉を捏ねるような柔らかい湿った音がする。木の枝か針金を折る様な細かい破裂音が鳴る。管楽器か弦楽器の様な緩く伸び切った音が断続的に響いている。時任の絶叫は甲高く、野太く変化していく。最早時任だと認識出来そうな要素は見当たらない。
「これが全てだと! これが宇宙だと! なら僕は何の為に――!」
遅かれ早かれ私も時任同様になるだろう。だが、これで愛理と一つにはなれる。