鵜飼い
長良川で見た鵜飼い
長良川という言葉からまっさきに思い浮かぶのは五木ひろしの長良川艶歌であろう。そしてその次に有名なのは鵜飼いではなかろうか。筆者は2023年10月に長良川に行く機会を得、鵜飼いを見てきた。まずはそこから話を始めたい。
長良川は岐阜にある。岐阜城のある金華山のしたを流れている。岐阜は昭和から時間が止まっているかのような街であった。名古屋の通勤圏であるために再開発の必要がないのであろうか。岐阜駅から長良川の長良橋までは岐阜バスである。SUICAもPASMOも使えなかった。長良橋に着くとそこが遊覧船乗り場であった。
長良川の鵜匠は宮内庁に所属している国家公務員、式部職鵜匠だ。明治に国家の庇護を受けるために宮内省に働きかけ、成功した。世襲で男しか継げない。長良川の鵜飼い見学は、この鵜匠のトークから始まる。
鵜匠の衣装の話から始まり、鵜の首結いのデモンストレーションがあった。鵜の首を適度な強さで紐で縛ることで、小さい魚は鵜が飲み込み、餌となる。大きい魚は吐き出させ、人間の食べ物になる。Win-Winの関係である。
このトークが終わると乗船だ。
乗船後、船はやや上流の鵜飼い場所へ移動する。その間が夕食の時間で、各自持ってきたものを食べる。
そして花火を合図に鵜飼いが始まった。
鵜匠はかがり火をたいた船にのってやってくる。もちろん鵜も一緒だ。鵜匠が一人で何羽もマネージしていた。
かがり火が水面に映える。非常に幻想的な風景であった。
鵜飼いはいわば火を使った妙技ではなかろうか。かがり火に驚いて活発になった魚を鵜が狙い、飲み込む。タイミングを見計らって鵜匠が引き寄せ、飲み込めなかったサイズの魚を吐き出させる。
火というすべてを焼き尽くすエネルギーから派生する光の力を使うのが鵜飼いなのであろう。
火の祭典は続いてゆく。火の力を間近で感じることができた。
鵜飼いの歴史と日本人の気質
鵜飼いは稲作とともに支那から伝承した説とわが国で発生した説があるが、いすれにしても鵜飼いを表現した埴輪が出土していることから、古墳時代にはすでに行われていたとみられている。長良川では7世紀から行われていたと言われており、1300年という長い歴史がある。明治になり、宮内省の庇護を得るために、皇室専用の御猟場を設定し、そこで漁をする鵜匠の設置を願い出た結果、認められて安定した地位を手に入れた。なかなかの政治力である。鵜匠は世襲で男しかなれないが、逆に言うと男が生まれる限り、その家は安泰であろう。
鵜匠が行う首結いは重要な技術である。大きな魚が首で止まり、小さな魚は首を通って鵜が食べられるようにしなければならない。これはリソースを独り占めしない日本人の気質ともいえると思う。八紘為宇というわが国の建国の精神に通じる、奪えば足りなくなるが分け合えば余るという考えは、人間のみならず、動物との関係でも古代からあったのである。
(Oct/2023)