【世界遺産×音楽】アントニン・ドヴォルザーク
今回はチェコ出身の音楽家、アントニン・ドヴォルザーク(以下ドヴォルザーク)について☺️🎶
チェコから世界へ。彼自身、生まれ故郷のボヘミアを愛していました🇨🇿
そして世界中から愛される音楽を数多く生み出した、ドヴォルザークと世界遺産について綴ります😊🎻
アントニン・ドヴォルザーク(1841-1904)
ドヴォルザークはチェコのボヘミア地方、ネラホゼヴェスという村で、宿屋・肉屋を営む両親のもとに生まれました🇨🇿
父や親戚の影響で、幼少期から音楽に触れながら育ち、小学校の校長からヴァイオリンを教わったことで音楽の才能が開花しましたが、実は両親から家業を継ぐことを強く期待されていました…
その後、転機が訪れます。
彼が肉屋の修行のために通っていた学校で、ドイツ語を教えていたリーマン先生がドヴォルザークの音楽的才能に気付き、彼の両親を何度も説得したのです!😌
その結果、ドヴォルザークはプラハのオルガン学校へ通うことになり、音楽家の道へと進んでゆきます🎹
困った時には、手を差し伸べてくれる人が現れ、「ここぞ!」という時にチャンスを逃さない…そんな人生だったと思います。よく「温厚だった」と言われる彼の人格も、素敵だったのでしょうね☺️👼
🔻世界遺産のエピソードに続く
アントニン・ドヴォルザークと世界遺産
『プラハの歴史地区』
チェコ共和国の首都、プラハは『プラハの歴史地区』として世界遺産に登録されています🇨🇿
前述のとおり、ドヴォルザークは16歳でプラハのオルガン学校へ通うことになりました。その後いくつかの学校で音楽教育を受け、卒業後はヴィオラ奏者・作曲家としての活動を本格的に始めました🎻
その後、またいくつもの転機が。
「チェコ国民音楽の父」といわれるベドルジハ・スメタナの影響を受けながらも、ドヴォルザーク自身の音楽を作り上げていきました🎼
そのほか、彼がプラハに住んでいた時代に、ドイツの音楽家ヨハネス・ブラームスや、ロシアの音楽家ピョートル・チャイコフスキーとも出会い、親交を深めていました。
※スメタナやブラームス、チャイコフスキーについても、それぞれ主役の回を設けて、記事を書きたいと思います🥰🇨🇿🇩🇪🇷🇺
『自由の女神像』
世界遺産に登録されている『自由の女神像』は、1886年、アメリカ合衆国独立100周年を記念してフランスから贈られました🗽
ドヴォルザークは、ニューヨークのナショナル音楽院の創設者から熱いオファーを受け、音楽院の院長として教鞭をとるため1892年に家族で移住しました。
(愛する祖国チェコを離れるのを惜しみ、何度かお断りしたそうです。)
1892年当時はまだ、「摩天楼」と呼ばれる高層ビル群も建設されておらず、現在のニューヨークの姿よりも、更に『自由の女神像』が目立っていたと思います🗽
ドヴォルザークはドイツのブレーメンから汽船に乗り、ニューヨークへ渡ったそうですが、船から見えた景色は彼の目にどう映ったのか、そしてどう想ったのか、とても気になりますね😌🗽🇺🇸
代表作
彼の代表作から、今回は『交響曲』第9番「新世界より」を紹介します🇺🇸🇨🇿
ニューヨークに住んでいた頃のドヴォルザークが、アメリカから故郷のチェコを想い、この曲を作ったと言われています。
※「新世界」とは、ヨーロッパの国々にとってのアメリカのことです🇺🇸
そして「新世界より」第2楽章は、日本人の私たちもどこかで聞いた事のあるメロディだと思います。
私は、夕方のイメージがありますね🌆🐦⬛そして一言で表すなら「ノスタルジー」です。
因みに、彼は鉄道オタクでもあり、よく鉄道を見に行っていたそうです🚂
「新世界より」第4楽章の冒頭部分は、鉄道の音をイメージして作られていると言われています🚂
また、当時のアメリカはまだ人種差別も激しかった時代ですが、ドヴォルザークがナショナル音楽院で教鞭をとっていたクラスに、黒人の学生が在籍していました。平等に音楽を学べる、貴重な環境だったと思います🎼
三角貿易でアフリカから奴隷として連れてこられ、過酷な強制労働をさせられていた人々の「黒人霊歌」や、迫害を受けていた先住民「ネイティブアメリカン」の要素(民謡・旋律など)を、ドヴォルザークは取り入れました。それが彼の音楽に反映されています🇺🇸
※黒人霊歌(ニグロ・スピリチュアル)についても、いずれ記事を書きたいと思っています😌
是非、ドヴォルザークの想いを感じながら『交響曲』第9番「新世界より」を聴いてみてくださいね😌🎶 ※全部で4楽章構成となっています
おまけの小話
実は本日、5月1日が彼の命日💐今年2024年で没後120年を迎えました。
これからも、彼の素晴らしい音楽が沢山演奏され、鑑賞され、愛され続けることを願っています😌🎶