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《映画感想》罪の声

 久しぶりに映画を観れたので感想文を残します。

 観ている最中、最初思っていたのは『声に罪はあるのか』という事。犯罪に子どもだった時の自分の声が使われていたら。自分だったらどう思うか。自分の子どもの声だったらどう思うか。
子どもの声なんて特に、どの子もそんなに大差ないと思う。店内で「ママー」って呼ばれる声は全部我が子の声に聞こえる程、聞き分ける事なんて出来るだろうか。そんな声が犯罪に使われた事でここまで罪悪感や、人生の絶望に苛まれるだろうかという事。
 でも、物語りが進み、事件に関わった人たちにより少しずつ事件が紐解かれていくうちに、そこには多くの人たちが関わり、そしてその誰もが胸の奥底にしまい込んで忘れてしまいたいけれど忘れることの出来ないシコリとして燻らせていたことがわかる。
 30年も前のことなのに、つい最近のことのように語る。それ程までに何度も記憶の深淵を覗き、見てはダメだと現実に戻ることを繰り返してきたことがわかる。

 主人公は偶然テープを見つけるまでは、何も知らずに、ただ幸せな生活を送っていたにも関わらず、その存在を知ったことにより不安と不幸に打ちのめさせるが、事件を追うことにより、自分が何も知らず幸せに過ごしていた間も辛く苦しい生活を送ってきていた罪の声の主の存在を知る。
そしてその事に罪悪感を抱く。
どこかの歯車が違えば、自分がたどるはずだったかもしれない。

 人生は一つ一つが決断で、分かれ道で、誰かと誰かが関わる事で未来は大きく変わっていく。
その分かれ道はその時には気付かないほど小さなズレだが、先に進むほどに大きく別れ、全く異なる場所に進む事になる。

 自分の分かれ道がどこにあるかなんてその時にはわからない。いつか振り返った時に、あの時ああしておけば。あのひと言を言っていれば。こうしなければ。なんてきっと後悔したり、何度も思い返したりすることもあるだろう。

 その時その時で自分の中では最善の選択をしているつもりなのだ。主人公の叔父である事件の主犯格とされている人も、その時できる最善の選択をしたつもりだったのだろう。

 社会に一泡吹かせてやりたい。鬱々としている皆んなを代表して正義を貫いてやる。
 犯罪に巻き込まれそうになっている女性と子どもたちを逃した。ヒーローだ。

 そんな満足感の中で自身の生活に戻ったつもりだったのだろう。でも実際は違った。
 ズレた基線はもう同じ場所には戻らずに、思わぬ方向にどんどんと進み始めてしまっていた。知らぬ間に人の人生を変え、壊し、苦しめていたと後から知ったこの人はどうなったのだろう。
 阿久津という記者は、真実を突き付けることでこの人の基線を今までの生活からズラした。そこに意味はあったのか、無かったのか。
知らない事を知った事で、主人公もこの叔父も決して幸せにはなっていない。一方で、真実が明らかになった事で社会的地位を取り戻し母子が再会できる事になった家族も存在する。
幸せと不幸の立場がバランスを保つように逆転した。


人の人生に関わることは怖い。小さな関わりの結果がどう変化していくかは分からないから。
でも人は人と関わらずには生きていけない。
関わりの方向がより良いものになるように。

誰も傷つけない人生なんて無いけれど。
自分のせいで自分には見えないところにいる誰かを傷つけることもきっとあるのだろうけれど。
それが社会というもので。人生というものなんだろう。

ズラしズラされた線の先にどんな未来があるのか分からない。
ズラさないズラさせないことを頑張るよりも、進んだその先をより良い場所にしていくことが大切なんだと思う。


実際の事件を元にしたフィクション映画でしたが、事件の頃に産まれた身で事件の事は名前しか知らなかったので、改めて事件のことを知り、考える機会となりました。
少しずつ紐解かれ、最後に解決まで至るのは映画を観ている者としては納得感があるものでしたが、実際の事件は未解決ということを知り、現実には未だ喉元に燻るものを抱えている人がたくさんいるのだろうと思うと、色々と考えてしまいます。

俳優陣の演技が素晴らしく、観入ってしまいました。ありがとうございました。

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