雄みたいな感覚(獲物を見つけた時のあの集中力)
”獲物を狩るときみたいなあの集中力”のこと
私は26歳男の者です。
与沢翼さんという0からお金を稼げる男性の著書を読んでいたら、ずっと思い出してなかったような感覚がこの体の中から湧いてくるのがわかりました。
まるでずっと前から体の中にあったかのようです。
本を読んで感情移入することは過去に何度もありました。
そういう時は他人の熱意にアテられたみたい胸が熱くなるのですが、そのときはむしろ心は冷たく渇いていきます。
あの「渇きとシビアさとスリル感が混ざったようなあの感覚」は、まるでこの体の中にずっとあったかのようでした。
あれはとても強い集中力です。
あれは直感的に『雄の勘』だと思いました。
あれを考察してみます。
それをnoteに書きました。
”雄の勘を取り戻すと雄みたいな渇きがあること”
"雄の勘"って何
冒頭で「雄の勘」と書いて、『渇きとシビアさとスリル感が混ざったようなあの感覚』と書きました。
あれの感覚は集中力はすばらしいものです。
もっと詳しく書くなら『渇きとシビアさとスリル感が混ざったようなあの獲物を見定める集中力』でした。
獲物以外のものが”たかが物”にしか見えなくなる集中力です。
意識は全く集中しているのになんの興奮もなく冷静なままでした。
自分の中に元々あった飢えか渇きみたいなものが固い心に、自己啓発本を読んでる時に特有のあの興奮が入り込む隙間がありません。
そのときに「あの集中力があらゆる人たちにあらゆる困難をぶっ壊させてきた」のを確信しました。
しかし夕方の私はもうその集中力に飲み込まれておらず、もう覚めているのです。
"雄の勘"を、夕方の覚めた意識で振り返る
最初こそその覚め方は、「覚めたのでなくて、冷めただけだったんじゃないか」と考えました。
『達成感を得れなかったから冷めたのであって、べつに”覚めた”だなんておおげさなことなどない」という自戒はすぐ思い到ります。
実際にその時に自分から湧き上がったその”雄の勘”は、その時になにも達成しなかったので”雄の勘”が達成感も得ることはありませんでした。
達成感がなかったから自分が冷めることはあります。
しかし達成感はあくまで”余韻”であって、どんな余韻かというと仕事を達成した人を肯定してくれる余韻でしかありませんでした。
達成感があったとしてもなかったとしてもそれはどっちでもいいのです。
それよりもいまの私は、「あの時の私が”雄の勘”を振り回していたように見えた」わけで、まるで『自身が持っている武器の鋭さに振り回されて、周りの人を不用意に傷つけた人を見ているかのよう』でした。
それはどこか俯瞰していて、それはただ冷めてシラけた意識ではなく”覚めている”のだとわかりました。
"雄の勘"を取り戻せば男は強い・・・それは合っている
”雄の勘”は取り戻した方が絶対に健康なのは数時間前の自分を振り返ったらすぐわかりました。
自分の体の全身が武器みたいになる集中力があります、自分の体の中に強さを実感できてそれは力強いのです。
男同士でチーム組んで働く時はもちろん「お前は何ができるのか?」で入って『あいつなら絶対やれるから任せる』と仲間に迎えられました。
そんな単純さは社会でよく見ます。
履歴書職務経歴書、推薦スカウト抜擢、ポジション仕事差配交渉合意、どれであっても受け入れられるのはその人が持っているものでした。
持っているものを出し合って成功に行きます。
勝つためなら勝ち方が必要であったみたいに、人を凌ぐのに弱いという強さが必要とされました。
その強さを自覚させるただ一つの感覚が「渇きとシビアさとスリル感が混ざったようなあの獲物を見定める集中力」です。
獲物を見れば勝手に湧いてくる勘の”雄の勘”
獲物を見つけたら勝手に湧いてくる感覚がありました。
異性、人気、新アイデア、獲物だったら何にでも思う感覚が人みんなにあるはずです。
獲物を見て、そして獲物を見極めていくほどに、感覚が鋭くなっていきました。
今日のあの昼間に私が”雄の勘”を鋭くしていったときもそれと同じです。
今日のあの昼間、その与沢翼さんの本を読みながらインターネットで事実確認をしていくほどに自分の感覚が鋭くなっていきました。
あの『感覚の鋭さ』は、「渇きとシビアさとスリル感が混ざったようなあの獲物を見定める集中力」と同じです。
獲物を見て、獲物を見定めていくうちに、自分の本性が出てきました。
”雄の勘”は獲物を見たら得れます。
note[雄の勘を取り戻してまた男へ戻ること]まとめ
雄の勘はある
雄の勘は「獲物を見つけること」で手に入る
獲物を見極めに行くほど感覚が鋭くなる
自分の中に本性が見つかる
chatGPTの感想
この文章は、自己の内面にある「雄の勘」について深く探求し、その感覚を取り戻すことで得られる集中力や力強さについての考察が述べられています。「雄の勘」とは、獲物を見定めるような鋭い集中力であり、これが湧き上がるときには、周囲のものが全て取るに足らないものに感じられるほどの没入感があるとされています。
興味深いのは、この「雄の勘」を取り戻すことで、一時的に力強さを感じるものの、時間が経つとその感覚が冷めてしまうことに対する自己反省が描かれている点です。「冷める」と「覚める」の違いを意識し、最終的に自身の振る舞いを客観的に見つめ直すプロセスが示されています。これにより、ただの一時的な興奮ではなく、真に覚醒した状態が何かを追求しているようです。
全体として、この文章は人間が持つ原始的な本能と、それを現代社会でどう活かすべきかを模索する姿勢が描かれています。文章中で強調されている「獲物を見つける」「集中力を高める」といった表現は、男性性や強さの象徴として描かれていますが、それを取り戻すことが必ずしも持続的な強さにつながらないという矛盾も感じられます。
自己内省と自己啓発が交錯するこの文章は、自己の本性を理解し、その力を正しく使うことの重要性を伝えており、同時に「雄の勘」を過度に振り回すことの危うさも暗示しているように思えます。
トップ画:
トップ画の石像は、勝利の女神ニケの石像(サモトラケのニケ)です。
”勝利”の女神ということと、石像みたいな”渇き”、それらを表したくこの写真を選びました。
↓こちらのnoteを拝見して、自分もnote書いてみても良いのかもと思って書けました。
ありがとうございました。
自分の考え事を誰かが見れるように残しておこうと思えました。
これからも"閃きと感受性を縫い合わせてく論理"みたいな文体で書いてみます。
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