円安から円高へ。相場がガラガラと崩れ去る音が聞こえる。161円時点にてアメリカが利下げするらしいぞという情報、S&P500が今年末までに25%も価格が落ちるという予想。日銀が利上げするらしいぞという情報の錯そうから永遠に続くと思っていた円安から円高方面に振れてきた。
相場に苦しめられることほど無駄なものはない。人の示した指針に振り回される人生を演じたくなければ自分自身を信じるしかない。これまで徐々に上がり続けていたオルカンやS&P500、金インゴットなどの含み益がゴソっと音を立ててなくなっていく。
幻の利益は露と消える。相場も信頼できない。通貨も信頼できない。新札に変わったばかりの日本円は中国の技術革新によってすぐに3Dホログラムはコピーされた。技術革新のスピードが速い現代においてコピーされない技術を保つということは不可能なのではないかとさえ思えてくる。信用するとしたらブロックチェーンにうらうちされた仮想通貨くらいだろうか?いやしかしDMMビットコインでは480億のビットコインが消えたばかりだ。
世の中何を信頼したらいいかわからないから、スピリチュアルや陰謀論、宗教や経済に依存する。円が強かった、日本が強かった時代はそれだけ信じていればよかった。しかし、日本の衰退だけが原因ではなく、グローバル化が世界の格差を広げてその波に日本が乗れなかったということだと感想だ。
確固たる信じる者がない現代において何を信じて歩んでいけばいいのか。はっきりしているのは「自分」である。自分は考え行動している。自分がここにいることこそがはっきりしている。デカルトの「我思う故に割れあり」の言葉の通り、自分がいるということ以上にはっきりしたことはこの世の中にありはしない。
ほかの人が本当に要るのかどうかもあやしい。そこまで疑う必要はないが、屋久杉のように何が来ても倒れない巨木に身を預けて安心したい。基本的に安心したいのだと思う。安心のホメオスタシスが形成されたらその習慣は強烈に変化を拒む。どうしたら、安心できるのか?というテーマが日本人、世界を生きる人類のテーマとして現代に立ちふさがっている。いや、もしかしたら、シュメール人の時代から「安心」を人は追い求めて人生を全うしてきたのかもしれない。
どうか、このnoteを読んでいる方がいらっしゃたら安心してほしい。「永久の安心」などない。「安心」を求めて人間の人生は紡がれてきた。それが命の宿命でもある。下がり相場に資産が減っていたとしても、明日を生きる希望がないとしても、独りぼっちだとしても、人類史上誰もがその「安心」を欲して人生を送っているという事実がある。
安心じゃないことに不安を抱く必要はない。安心ではないということは普通のことであり、それ自体は正常な反応なのだ。
ではでは。
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