「大正生命主義」から考える生命論

この文章は京都大学哲学研究会における提起に用いたレジュメの全文です。私の意見や思想を論じる論文や批評とは異なり、私の関心に基づいた要約といった主旨で書かれています。

はじめに

 今回の提起において取り上げるのは、「大正生命主義」と呼ばれる大正期前後の思潮にみられる「生命」の概念を重視する傾向についてである。近代化や工業化が進んだ明治大正期においては、自然や人間を機械論的にとらえる科学主義的な価値観が広まっていた。そうした状況において、スペンサー、ヘッケルらに代表される生物学や進化論を基礎とした生命論の拡がりを下地にして、キリスト教スピリチュアリズムやあるいはベルクソンら生の哲学などの西洋思想によってもたらされた、生き生きとした内的な生命とその発現というアイデアは広く普及することとなった。そうした近代日本における「生命」についての言説史がここでは「大正生命主義」と呼ばれるものである。

 後に詳しくみるように、生命主義は最初人間の生の力を肯定的にとらえる開放的なものであったが、日本が軍国主義へと向かっていくにつれて民族や国家の生命を称揚する全体主義的な論理に変貌してしまった。内的な生命を肯定する思想にはこうした両義性がある。

 このような生命についての言説が広まる事態は、当然大正期の日本に特異な現象というわけでもないだろう。機械論的な決定論に還元されない、内的な生命の発露を賛美する傾向はロマン主義を筆頭に、近代においていたるところで見出される発想だ。そして、「大正生命主義」という概念の提唱者である鈴木貞美が述べるように、遺伝子工学の発展や、核や環境汚染の脅威、リプロダクションをめぐる技術や言説など、20世紀末においても「生命」はキーコンセプトとなっていた[1]。

 以下では、大正期の生命観の単なる紹介にとどまらず、思想史的な連関や現代との関係にも留意して記述を進める。記述に当たっては、「大正生命主義」の動向についてまとめられた論文である鈴木貞美「「大正生命主義」とは何か」及び前川理子「近代の生命主義」(『岩波講座宗教』第7巻)に多くを負っている。

1. 「大正生命主義」という語の使用について

 最初に断っておかなくてはならないのは、この「大正生命主義」という語は、当時の人々が自らの思想や、同時代の思想潮流を指して使用した言葉ではないということだ。(後に見るように、「生命主義」という語を用いた論者はいたがここで述べている「大正生命主義」と必ずしも同じ意味であるとは言えない)この語は、近代文学研究者である鈴木貞美が、「生命」の語を好んで用いた大正期の文学や思想の特徴を言い表すために用いたものである。初出は比較的新しく、1992年に企画された『文藝』における特集「1910年代思潮を読み直す」に見られる。この「生命主義」という日本語は、鈴木によるとvitalismという西洋語からの借用であるという。(vitalismは生気論とも訳される語である)

 鈴木らによる「大正生命主義」をキータームとした大正期の文学や思想の読み直しの成果は例えば彼が編者を務めた『大正生命主義と現代』(1995)などでまとまった形で確認できる。また、「生命」という語からの近代日本をめぐる研究のアプローチは一過性のものではなく、近年においても「大正生命主義」という語をタイトルに冠した論文が多数執筆されている。このことからも、「大正生命主義」の語は既に鈴木の手を離れ、広く普及したものであると言える。

2. 「大正生命主義」とは何か

2. 1. 「大正生命主義」の定義

生命主義とは何であるか、鈴木による説明を引いておこう。

「生命主義(vitalism)」とは、思想一般において、「生命」という概念を世界観の根本原理とするもので、一九世紀の実証主義に立つ目的論・機械論による自然征服観に対立する思想傾向をいう。
科学思想においては、「機械論」が、「生命」を無機物質に還元できる、言い換えれば物理化学で解明で
きる、とするのに対して、無機物質に還元できない「生気」を、生命現象の根本に
想定するものを「生命主義」と呼び、古来、このふたつの説が対立・交替を続けてきた、とされている。(強調は引用者)

鈴木貞美「「大正生命主義」とは何か」『「大正生命主義」と現代』、、三頁。

以上の鈴木の記述は生命主義一般に当てはまるものであるが、「大正生命主義」とはこの「生命主義」が大正期に大きな広がりを見せたことを示す言い方であるとひとまず見てよい。もっとも、この語で言い表されている思潮の内実は多様なものであり、本来十把一絡げに語ることは本来できないものだろう。しかし、「大正生命主義」というタームを用いてなされている分析とは、個別的な思想の読解というよりも、より巨視的に思想史を考察することを目的としたものであると考えるべきだ。

 さて、上でみたような生命主義は大正期の日本においてどのように現れただろうか。鈴木は自身の研究の先駆を田邊元に見る。田邊は「文化の概念」において、生命主義(Biologismus)という語を用いて、当時の文化のあり方を論じている。(田邊の生命主義は鈴木が用いる語と日本語の上では同じであるが、鈴木がvitalismの訳語として用いているのに対し、田邊は通常生物学主義とでも訳されるBiologismusの訳語として用いているのであり、同じ単語ではないことに注意)

 田邊によると、文化という概念には四つのものがある。第一は自然科学によって我々の生活を改善するという意味での文化。第二は、心身の活動を阻害するものを取り除き、文化を創造する活動のことであり、これが生命主義と呼ばれるものである。第三は批判主義的文化主義といわれ、文化をアプリオリな価値原理の実現として見る立場だ。そして最後に、形而上学的文化主義を田邊は掲げる。これは、普遍的妥当的な価値を持つ道徳と宗教に立脚した文化のことだ。このうち第二の意味での文化、すなわち田邊のいう「生命主義」だけ詳しく見ておこう。

 田邊は文化を物質的生活を豊かにするものとしてする考え方を、自然の内にある人間が自然の他の部分を自己の利益のために犠牲にする自然の征服という文明観に基づいており不正義であると批判している。これが第一の文化主義であるが、人間をただ苦痛を避けて快楽を求める存在としか考えていないのであり、人間の生をただ生存のためだけのものに還元してしまっていると言える。

 そこで次に考えられるのが「生命主義」としての文化である。物質的生活に対する自然の利用に限らず、「広く精神的物質的の両面にありて我々の生活内容を豊富にし、心身の活動を阻害するものから之を解放して、自由にその要求を満足せしむる内容の創造を文化とする[5]」場合である。こうした生命の創造的活動を称揚する傾向、自己形成を重んじる文化主義が、田邊の時代の潮流であったとされる。

 ところが、この第二の意味での文化が第一の意味よりも深いものであることは認めつつも、田邊は「生命主義」も退ける。自由な活動を妨げるものを排除するということ、すなわち社会的不正義からの解放ということだけでは消極的なものに留まってしまう。自由な創造自体に価値があるのではなく、価値のあるものを創造するからこそ価値があるのだとされる。「唯自由に生きることが問題なのではなく、如何なる目的に向かって自由に生きるかが問題なのである[6]」そして、ただ解放を目指すだけでは闘争は避けられないのであり、人が人をあるいはある階級が他の階級を犠牲にしないようにするためには、法的状態が成立していなくてはならないという。

2. 2. 「大正生命主義」の性格

 前川は「近代の生命主義」において生命主義の基本的な性格を四つ挙げている。

①内在性の原理〈目的論〉

生命体のオートポイエティックな性格。〔中略〕この内在性の原理は、すべてを物理化学的要素に還元してしまおうとする機械論的思考に対して、すべてがある目的に沿って展開しているはずだと考える目的論に通じている。〔中略〕「生命」の論理はここでは、決定論と目的論の相克を克服する世界観を提供するものである

前川、一五一頁。

②自然の根源性の原理〈超自然的自然主義〉

生命主義は機械論的自然主義への対抗思想として出発しながら、同時に近代科学の足場を持たずにはいられないという両面性を持つ。〔中略〕ことに人間を他の装飾物と同じ生物の一種とみる生物学的人間観、人間を自然界内の一存在と捉える連続的自然観の定着は重要である。人間は「内なる自然」=生命に内潜することで、外界-自然界と交流ないし合一できるというヴィジョンもここから生じてくる

前川、一五二頁。

③無限発展の原理〈生長進歩観〉

生命体は自己保存・自己調律しながら「生長」していく。この「自己生長」するイメージは、ロマン主義的な「無限」への憧憬と響き合って生命主義の第三の特徴となる。「生命」の無限発展の原理は、ダーウィン流の生物進化論よりはラマルク主義の「進歩」的生命観によって支えられている。ダーウィニズム(外的要因で淘汰される生命観)に対し、ラマルクやド・フリスらは進化の要因を生物に内在的に認めようとする内発的な進化、内部因子を説き、進化論にありがちな外的決定主義の色調をゆるめる。〔中略〕ラマルク主義が導き出すのは、修養や教養による人格陶冶という徳目である。人間の主体的な自己形成(教育や倫理)が、抗いがたい自然の題法則の前に意味のない抵抗でしかなくなるダーウィニズムに対して、ラマルク主義は内的進化をみとめて人間の意志や努力の可能性をすくいとるのである

前川、一五三頁。

④調和の原理〈有機体論〉

諸部分が互いに連関しつつ全体を成り立たせているという有機体論は、原子論ではなく全体論を支持する。部分、全体がそれぞれ何に対応するのかは、生命の座をどのレベルに照準するかによる。個人の生命に照準すれば、たとえば精神と身体の調和、理性と行為の統合といった価値が引き出されよう。「生命」は人間の全体性を称揚し、その感情や「潜在意識」にも注目、身体・物理性を退けずに実際性を重んじることになる。
 また生命の座を家族や共同体、さらにはより大きな大自然とか国家や民族といったものに照準させれば、家族や共同体の和合、自然との調和、社会や国家の構成員としての自覚や責任といった理念が引き出される。このばあい、全体に資するために「我」をなくすことがしばしば称揚される

前川、一五三‐四頁。

3. 「大正生命主義」を読む

 鈴木自身が述べているように、「この「生命主義」の思想は、「宇宙の生命」につながるものであり、この一面が拡大されると、神秘的観念の色彩を帯びる。また、ここに出発して、本来的な「自我」の在り方を追求することにもなるから、内向すれば求道的になるし、外部の変革に向けば、社会改造の運動に加わることにもなる」

 求道的神秘主義的な思想家としては、「見神の実験」(1905)などの論文によって自身の神秘体験を綴った綱島梁川などが挙げられる。綱島は神秘体験において実際に神を見るということを信仰の基盤とし、神を因習的偶像や抽象的理想とすることを批判した。また、綱島の「実験」に影響を受けていた内村鑑三は無教会主義を唱え、宗教活動をキリスト教や仏教など宗教宗派を超えたものとしてとらえていたが、その根底にあるのは普遍的な大生命との感応に宗教経験の本質を見る考え方であった。こうした考えは例えば西田幾多郎の『善の研究』などにもみられる。「宗教的要求は自己に対する要求である、自己の生命についての要求である。我々の自己がその相対的にして有限なることを知覚するとともに、絶対無限の力に合一してこれによりて永遠の真生命を得んと欲するの要求である」「神と宇宙との関係は芸術家とその作品の如き関係ではなく、本体と現象との関係である。宇宙は神の所作物ではなく、神の表現manifestationである」

 さて、社会運動についてはどうか。「生命」の観念は、例えば女性解放運動などとも無関係ではなかった。『元始、女性は太陽であった』で知られる平塚らいてうも神秘的生命主義の持ち主であった。「生命」の発現とは社会秩序や道徳に対抗するエネルギーとしてとらえられていたのである。らいてうは先述の梁川にも影響を受けており、自己の内を掘り下げて実在の神そのものを見たという自身の神秘体験を自叙伝でつづっている。

 以下では具体的に当時の文献を見て行こうと思うが、多くの思想家や作家を詳細に扱う余裕はないので、提起者の関心によって二人の思想家(北村透谷、大杉栄)を選んだ。それぞれ短い論考一つずつをできる限り引用によってその要点を抑えようと思う。

北村透谷

 ここで言われる「生命主義」にあたる思想は、大正期以前にもいわば前史として姿を見せている。そのうちのひとつが明治26年(1893年)の北村透谷「内部生命論」である。

 透谷は、人間は絶対的実存を知りえないとするスペンサーの不可知論や、適者生存などの外的な要因によって規定される人間観に反発し、また道教など東洋の伝統も踏まえつつ、外界から独立した人間の内的な生命を重視した人間観を主張する。

 透谷は当時の思想界について「生命思想と不生命思想との戦争」と評価している。つまり、人間に地上的なものを超えた生命を認めるか、機械論者のようにそうした生命を認めないかという対立のことだ。そのうえで、透谷は生命思想の立場に立ち次のように述べる。

宗教を説かざるも生命を説かば、既に立派なる宗教にあらずや、哲学を談ぜざるも生命を談ぜば、既に立派なる哲学にあらずや、生命を知らずして信仰を知る者ありや、信仰を知らずして道徳を知る者ありや、生命を教ふるの外に、道徳なるものゝ泉源ありや

それでは、生命を説くとはどういうことか。

内部の生命は千古一様にして、神の外は之を動かすこと能はざるなり、詩人哲学者の為すところ豈に神の業を奪ふものならんや、彼等は内部の生命を観察する者にあらずして何ぞや〔中略〕、然れども彼等が内部の生命を観察するは、沈静不動なる内部の生命を観るにあらざるなり、内部の生命の百般の表顕を観るの外に彼等が観るべき事は之なきなり、即ち人性人情の Various Manifestations を観るの外には、観るべき事は之なきなり。観は何処までも観なり、然れども此の塲合に於ては観の中に知の意味あるなり、即ち、観の終は知に落つるなり、而して観の始も亦た知に出るなり、人間の内部の生命を観ずるは、其の百般の表顕を観ずる所以にして、霊知霊覚と観察との相離れざるは、之を以てなり。霊知霊覚なきの観察が真正の観察にあらざること、之を以てなり。

哲学者も詩人も内部の生命を解釈するものである。詩人を哲学者から分けるのは一瞬の冥契(言葉によらず心を通じ合わせること)すなわちインスピレーションであると透谷は言う。インスピレーションとは彼によると以下のようなものである。

 畢竟するにインスピレーシヨンとは宇宙の精神即ち神なるものよりして、人間の精神即ち内部の生命なるものに対する一種の感応に過ぎざるなり。吾人の之を感ずるは、電気の感応を感ずるが如きなり、斯の感応あらずして、曷いづくんぞ純聖なる理想家あらんや。

 この感応は人間の内部の生命を再造する者なり、この感応は人間の内部の経験と内部の自覚とを再造する者なり。この感応によりて瞬時の間、人間の眼光はセンシユアル・ウオルドを離るゝなり、吾人が肉を離れ、実を忘れ、と言ひたるもの之に外ならざるなり、然れども夜遊病患者の如く「我」を忘れて立出るものにはあらざるなり、何処までも生命の眼を以て、超自然のものを観るなり。再造せられたる生命の眼を以て。

大杉栄

 アナキストである大杉栄はニーチェやベルクソンなどの影響を受け「生の拡充」という言葉を唱えた。大杉は「生」が近代のキーコンセプトであることを精確に見抜いていた。

生ということ、生の拡充ということは、言うまでもなく近代思想の基調である。近代思想のアルファでありオメガである

そして、大杉は生の拡充について次のように続ける。

生には広義と狭義とがある。僕は今そのもっとも狭い個人の生の義をとる。この生の神髄はすなわち自我である。そして自我とは要するに一種の力である。力学上の力の法則に従う一種の力である。
力はただちに動作となって現れねばならぬ。何となれば力の存在と動作とは同意義のものである。したがって力の活動は避け得られるものではない。活動そのものが力の全部なのである。活動は力の唯一のアスペクトである。
さればわれわれの生の必然の論理は、われわれに活動を命ずる。また拡張を命ずる。何となれば活動とはある存在物を空間に展開せしめんとするの謂に外ならぬ。
けれども生の拡張には、また生の充実を伴わねばならぬ。むしろその充実が拡張を余儀なくせしめるのである。したがって充実と拡張とは同一物であらねばならぬ。
かくして生の拡充はわれわれの唯一の生の義務となる。われわれの生の執念深い要請を満足させるものは、ただもっとも有効なる活動のみとなる。また生の必然の論理は、生の拡充を障礙せんとするいっさいの事物を除去し破壊すべく、われわれに命ずる。そしてこの命令に背く時、われわれの生は、われわれの自我は、停滞し、腐敗し、壊滅する。

そして、征服階級による支配が最大化していると考える大杉は、彼の時代において生の拡充は反逆と破壊によってしか実現されないと結論付ける。

そして生の拡充の中に生の至上の美を見る僕は、この反逆とこの破壊との中にのみ、今日生の至上の美を見る。征服の事実がその頂上に達した今日においては、階調はもはや美ではない。美はただ乱調にある。階調は偽りである。真はただ乱調にある。
今や生の拡充はただ反逆によってのみ達せられる。新生活の創造、新社会の創造はただ反逆によるのみである。

4. 全体主義へ

「大正生命主義」は関東大震災によって終わりを迎える。鈴木は次のように述べる。

このように多様な展開を見せた「大正生命主義」は、関東大震災後に支配体制と反体制運動の両方から切断された。
大正12年(1923)年10月に発せられた『国民精神作興の詔書』は、大正期の風潮を「享楽主義」とし、それを戒め、新たなステイト・ナショナリズムの編成を呼び掛ける。また民衆思想の内なる「生命主義」は、それがアナキズムやサンディカリズムと結びついていたことから、科学的社会主義を標榜する「マルクス主義」によって切断される。
そして、大正生命主義は、都市大衆社会とそれに根差した文化のなかへ拡散的に展開していった

鈴木、前掲書、十三頁。

 この引用文で言及されている『国民精神作興の詔書』とは大正天皇の名において後の昭和天皇である裕仁が発したものである。このみことのりは関東大震災からの復興のために、「道徳ヲ尊重シテ国民精神ヲ涵養(かんよう)振作(しんさく)スル」ことを説く内容となっており、まさしく関東大震災の打撃が大正期の自由な雰囲気を変容させたことがうかがえる。

 その後の日本は全体主義に傾いてゆくが、そうした全体主義においてキーワードとなったのは「民族の生命」という語であった。例えば西田や田辺、和辻哲郎なども生命有機体の考察から民族・国家をとらえた思想家であるが、これらの流れを「大正生命主義」の中に組み込んだうえで、宇野邦一は『非有機的生』において以下のように述べる

このように「生命主義」は警戒すべき思想でもありうる。もちろん警戒すべきなのは「生命」ではなく、そのような適応や発送を強いる有機的発想の方であり、それに支えられ、それを支える強制力や関係なのだ。人間の生死を決定する権力という意味での「生政治」があると同時に、生命有機体をモデルとして、あたかも政治さえも生物学的必然性であるかのように理解させようとする別の「生政治」がある。そのように政治を非政治化するかのような「生政治」があって、それもまた第一の生政治とともに合体して機能するようなのだ

宇野邦一『非有機的生』、講談社メチエ、二〇二三、三九〇頁。

宇野はこのように、国家有機体説的な権力の理論と、「生きさせるか死の中に廃棄するか」というような生政治との共犯関係を指摘している。

5. まとめ

 ここまで我々がみてきたのは、実証主義科学が想定するような物理学的な必然性に支配された機械論的自然観における、生命の質的な部分を剥奪された生命観への抵抗であり、活動性や創造性を押し出し、果ては自然との合一という宗教体験にまでいたる生命主義の軌跡であった。しかし、こうした解放的な生命の思想は、民族の生命であるとか、「国体」といった抑圧的な全体主義の思想へとなり果ててしまったのだった。人間の生をないがしろにする機械論的世界観への抵抗から、「御国のために」という全体主義に至るまでを貫いているのは、ただ生きることよりも重要な価値をもつ「生命」を求めることだったのだ。機械論的な生命観も実際に生きられた生をないがしろにするが、生命主義も有機体のイメージを呼び起こし、個を犠牲にしかねないのである。

人名・用語解説

主に『岩波 哲学・思想事典』からの抜粋・要約である。


スペンサー1820‐1903……イギリスの哲学者。進化論に基づく一大体系の構築者。『社会静学』1851を刊行し、社会有機体論に立脚する社会思想を展開。スペンサーの思想の基本は、科学による知の総合を目指す実証主義的なものである。その際に彼は生物学から学んだ進化の概念に向かった。

彼は〈同質的な状態から異質的な状態への移行〉である進化が諸現象すべてを律しており、宇宙や生物の発達だけでなく、制度や労働の細分化を進めている人間社会の発達もこの過程に他ならないとした。この過程は決して目的論ではないが、異質化は、構造化のより進んだ統合状態への移行でもあり、秩序への過程である、とされた。特に社会論においては、社会が構成員個々の個性をますます生かしつつ、同時に〈適者生存〉のメカニズムによって、全体として、より良き共働の状態へと自ら進んでいること、それゆえ、その過程に例えば政府が人為的に介入してはならず〈自由放任〉を旨とすべきことが主張された。

明治期の日本にもスペンサー思想は広く伝えられ、その優勝劣敗思想は権力に用いられたが、政府からの自由を説く側面は自由民権運動の思想的支えともなった。他方、進化はその背後に本来不可知な〈絶対者〉を垣間見させるとも主張されたが、進化しそうのこの宗教的側面は、フランスのベルクソンが引き継ぐこととなった。


ヘッケル1834‐1919……ドイツの動物学者、進化論者。ヘッケルの主な業績は3つあり、第一は動物分類学の仕事であり、第二は、進化論的な思考を生物学の広い領域に適用することによって、多くの理論的仮説を提示したことであり、第三は、進化論のドイツにおける導入普及、また世界的な進化論、のちには一元論の通俗化の仕事である。1866年の『一般生態学』で生物を統一的、回想的に把握することが目指された。やがてそこから生物発生原則が自立し「個体発生は系統発生を繰り返す」というテーゼにまとめられ生物学をはじめ広い分野に影響を与えた。

進化論・一元論に関しては、1863年にダーウィンの理論をドイツで紹介し、『自然創造史』などの著作でその普及に大きく貢献した。自然選択以外の機構も認めニーチェの力概念へ影響を与えてもいる。社会ダーウィニズム的思想を内包し、ナチズムの思想的起源であると解釈する論者もいる。


ラマルク1744‐1829……フランスのナチュラリスト、進化論者。現存する多様な生物が、自然法則に基づき単純なものから転成、進化してきたという考えをはじめて体系的科学的に論じた。『動物哲学』1809では進化の要因等の理論を詳しく展開。

 彼の進化論に関する考えは、2つの部分からなる。第一に、有機的構成としての生物は、単純な形式から、複雑化する内在的傾向に従い、重要な器官—機能を順次出現させつつ、時間の中で系列を着くる。この傾向は常に働いているので、最初期に系列を作り始めた有機的構成は現在最高次の動物になっており、最も遅く有機的構成となったものは最下等に位置する。このように系列を作る複雑化傾向が進化の主要な要因である。第二に、外部の状況の違いにより生物は、別様の多様性を得る。生物は、ある状況に遭遇すると、その状況に合わせる欲求を持ち、それが一定の行動を引き起こし、その行動が新しい形質、形態を生じさせる。逆に、欲求の喪失は行動の喪失、形質、形態の喪失ともなる(用不用説)。これによって生まれた小さな変化は生殖を通して蓄積される(獲得性質の遺伝)。


ド・フリース1848‐1935……オランダの植物学者・遺伝学者。オオマツヨイグサの栽培実験によって、1900年にメンデルの法則を再発見した。さらにその後も研究を続け、1901年には突然変異を発見した。この成果に基づいて、進化は突然変異によって起こるという「突然変異説」を提唱した。

微小な変異が蓄積して新種が生じるというチャールズ・ダーウィンの説に懐疑的にだったド・フリースは、1886年からアムステルダム近郊でオオマツヨイグサの栽培実験を始めた。彼は、この研究において生じたいくつかの変異株が常に同一形質の子を生ずることに気付いた。彼はこれをパンゲンが変化したためにそれに支配される形質だけが標準型と異なる「新種」が生まれたとして、これを突然変異と名づけた。そして進化はこのような突然変異による新種に自然選択が働いて起こると考え、結果を1901年から『突然変異論』(Die Mutationstheorie) として出版した。しかしながら後にこの植物の染色体の遺伝的構成はきわめて複雑なことが判明し、ド・フリースの観察した結果は三倍体ないし四倍体による変異であると説明されるようになった。それでも、彼の理論は現在でもある種について進化に繋がる変異がどの程度起きるかを考察するために重要なものとみなされている。(Wikipediaより)


ダーウィン主義……ワグナーの隔離説(生物の隔離を進化の重要な要因とする学説)と対比された場合には、同所的種形成を意味していた。ウィリアム・ベイトソンらのメンデル主義(不連続な非適応的進化)と対比された場合には、連続的な適応進化を意味していた。ラマルク主義(獲得形質の遺伝による進化)と対比された場合には、偶発的遺伝変異による自然選択を意味していた。(『種の起源』では獲得形質の遺伝による進化も認めれている)


生の哲学……ドイツのディルタイ、ニーチェ、ジンメル、またフランスのベルクソンなどがその代表者である。彼らはそれぞれ独自の思想を展開したが、〈生の絶えざる自己超越の運動〉という考えが彼らのひとつの中心思想になっている。


参考文献

a. 「大正生命主義」の文献

北村透谷「内部生命論」

田邊元「文化の概念」『田邊元全集第一巻』

網島梁川「見神の実験」

b. 「大正生命主義」に関する研究

宇野邦一『非有機的生』、講談社メチエ、2023。

鈴木貞美編『「大正生命主義」と現代』

鈴木貞美『〈近代の超克〉』2015

前川理子「近代の生命主義」『岩波講座宗教』第七巻

c. その他文献

アガンベン『ホモ・サケル』

——『私たちはどこにいるのか』、高桑和巳訳、青土社、2021。

アレント『人間の条件』

国分功一郎『暇と退屈の倫理学』

——『目的への抵抗』

トリスタン・ガルシア『激しい生——近代の強迫観念』

フーコー『知への意志』

※2023/07/25 冒頭にこの文章の性質についつの説明を追記。

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