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男性性批判で読むエイリアン(エイリアン感想)

『エイリアン』(1979)リドリースコット監督、改めて観たので感想を。
何回めの鑑賞か分かりませんが久々に観たらめちゃくちゃ面白かった。

冒頭、宇宙船の乗組員は冷却睡眠から目覚める。白を基調としたシンメトリーな空間はどこか神聖さをイメージさせる。また、冷却ポッドの開き方は後のエイリアンの卵の開き方に酷似する。このシーンは「誕生」を映し共にその神聖なイメージを映し出している。しかし、次のカットではタバコの煙が蔓延し、散らかった船内での食事シーンが映る。この一連のシークエンスは生まれた直後の神聖さ、後天的に身に付く汚れ(性善説的イメージを持てる)を想起させている。

船内は(特に操縦席は)一見何が何だかわからないほどに機械で埋め尽くされている。この中に映る人物は操縦している側というより、機械に飲み込まれてしまっている、制御されてしまっているようである(『ブレードランナー』でも似たような映像を見かける)。後に明かされるが、この時点で船員の行動はロボットであるアッシュに操られている。冒頭の操縦シーンでそれが示唆されているのかもしれない。
この、混沌とした部屋と比較されるように映されているものが二つある。一つは船内の中、船内に搭載された人工知能「Mother」と話せる部屋と目覚める部屋だ。シンメトリーな部屋の配置、規則的に配置された機械は、「Mother」が人知を超えた存在、神聖さ、また「Mother」に制御された冷却ポッドからの目覚めは「誕生」と強く結びつく(ここのイメージは『2001年宇宙の旅』が観てとれる)。もう一つは降り立った先、惑星内のエイリアンの卵が植え付けられている場所だ(以下エイリアン船)。エイリアン船の船内は、主人公達の船と同じように機械的なものが張り巡らされているが、様相は全く異なる。人工的でありながら、同時に性的なモチーフが含まれており、まるで生物の一部であるような描かれ方をしている。機械と生物の融合、機械と人間が独立して存在しているように見える主人公たちとはまた別次元の、より高度な存在であることが示唆されている。

キャラクターについて触れたい。エイリアンに襲われた船員をリプリーは一貫して入れようとしない。しかし、他の船員達の抵抗そして、アッシュにより開けられてしまう。後に、この扉を開けたことについてリプリーがアッシュを問い詰めるシーンがある。このシーンの画角はアッシュを映す際は斜め下から、リプリーはカメラに対して平行な位置に映し出される。これはアッシュが裏切っていることを示唆していると同時に、リプリーの道徳的イメージは強調しているシーンだろう。
この一連の流れ以外でも、明らかにリプリーは他のキャラクターと比べて規範を大事にしている。また、自分の地位よりも下であるパーカー達にも平等に接し、規範を守ろうとしない自分より立場の上の者に物申すところなど、特に道徳的女性キャラとして描かれている。また、この映画はリプリーが女性であるが故に蔑ろにされる様子が映し出される。例えば、エイリアンの抜け殻(?)をダラス、アッシュ、リプリーで見ているカット。リプリーはこの2人よりも奥に配置され、リプリーの意見は無視され、男性キャラ2人で合意する。このような要素から、この映画において主人公は「女性」であることが大事な要素であることは明らかである。(性的なモチーフの多さ、後に触れるが性暴力を想起させるような描写からもこれは確実と言える)この映画において「女性」は規範に従う主人公、また「Mother」の神聖さのイメージ、そして最終的に有害な男性性を浄化する点で、道徳的なイメージを想起させる。

この物語は、男性権威的な船内で間違った判断が繰り返されたことによってもたらされたものである。まるで自分達は規範に従っている様子でありながら感情的に動き規範を破り、下の立場の人の言うことは聞かず、むしろ反抗的であり、決定する際は男性主体で進める。その結果生まれたのがエイリアンだ。ケインからエイリアンが生まれるシーン、明らかに陰茎を想起させるような形で登場する。また、終盤、ランバートとパーカーが襲われるシーンではパーカーは即座に殺されているようだが、ランバートは足に尻尾のようなものを絡ませているショットが入り、そこから悲鳴のような、うめき声のようなものが聞こえたのち、死体全体は映されず足元だけが映される。パーカーと比較すると明らかに性的なショットが入り込んでいることから、エイリアンは男性性の象徴として見て良いだろう。
アッシュがリプリーを襲うシーンポルノ写真が壁に貼られた部屋の机の上に寝かせ口の中に丸めた冊子を無理やり突っ込む、その後破壊されたアッシュは体内から出た白い液体まみれになる。アッシュは船員よりも上の立場の人の決定を主人公達には内密にし行動したことで混乱を招く、穏健な行動をとり、権威主義の象徴の加害として描かれている。このアッシュは壊される間際エイリアンのこと「完全な生物だ。構造も攻撃本能も見事なものだ。素晴らしい純粋さだ」と語っている。彼らの、権威主義の純粋さとは排他的な攻撃本能であり、それをエイリアンに見出している(純粋というが同時にエイリアン船の文明的な様子をこの映画は描いていることから彼らが思っているように支配できないことを示唆している)。道徳的、文明的に描かれているリプリーとは対象的な存在だ。

ラストシーン、半裸のリプリーは寝ているエイリアンに対峙するために、一切ボディラインがわからない、性的なアイコンを排除するような、宇宙服を着て対峙する。このシーンでリプリーはどの性別のアイコンも持たず、全く対等な立場でエイリアンを撃退してみせた。カテゴリー的なジェンダーのイメージから脱却して一個人として権威主義に対抗する映画として受け取れる。端々に散りばめられたモチーフ、的確なフレーム、カメラワーク、ストーリーでのキャラクターの立ち位置、全てがテーマに向かい観客に訴えるための要素として機能している。そしてSFホラーとして面白い!素晴らしい映画でした。

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