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ぼくたちが選べないものとは何か

人生は『選択』『偶然』『運命』の3つで語ることができる。この中で、自分の意思でコントロールできるのは選択だけだ。

偶然や運命には何が含まれるだろうか。例えば、インドの厳格なシーク教徒の家庭では、食べ物や服装、結婚相手などは自分で自由に決められない。これは運命として受け入れるべきだろうか。

若くして告げられる末期癌はどうか。家庭や貧富の差は偶然や運命で決まっているのか。

今ならこれだけは言える。

ぼくたちの人生、ぼくたちの評価は、偶然や運命でなく、ぼくたちの選択で決まる。

今日こんな本を読んだ。

ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。

34歳、自分と同じ年齢で末期癌を宣告された幡野広志という写真家の思想本だ。著者は親も兄弟も含め家族は選ぶもの、自分で選んだパートナーこそが家族の最小単位だと言う。

家族って選べるもんだっけ。運命じゃないんだっけ?

選べない死期からみつけた「ありたい自分」になるために家族すら選ぶということ。選択肢を創造すること。それが生きることだ、とまとめている。

僕はこの本を読みながら、10年以上も前に読んだ、選択の行為について膨大な実証実験を繰り返し上梓された「選択の科学」という名著を思い出していた。

この本の中で紹介されている、高級食品店の試食コーナーに24種類のジャムを並べた時と、6種類のジャムを並べた時、品揃えが少ない方が圧倒的に売上が多くなったという実験結果がある。

選択肢は単に多ければ良いというわけではないことを示し、アカデミックの枠を飛び出し、後に多くの企業の商品開発戦略にも影響を与えた社会実験だ。

商品選択と人生を決める重大な選択を一緒に考えるべきではないという反論が聞こえてきそうだが、結果として幡野氏は余命3年の宣告があったからこそ、「あれもこれも」でなく、自分の人生にとって本当に大切なことを選択する事が出来たと思う。

わたしたちは、自分は他とは全く違う、個性的な存在なのだと、ことあるごとに自分に言い聞かせ、周りの人にもそれを分らせようとする。人はその他大勢と見られることに我慢できない。しかも、突き抜けすぎず、ちょうどイイ感じに外れてるくらいが心地良い。これを「平均以上効果」と呼ぶのだという。

ようは他人の選んだ物は選びたくないのだ。詳しくは選択の科学に譲るが人にはそんなバイアスも多数存在している。

30代になりイイ感じに選択肢が絞られてきたぼくらはどこまで本当のありたい自分を選べているだろうか。


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