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『インターステラー』のキリスト教要素を考えてみる

この間『インターステラー』を劇場で観た。公開10周年だとかでIMAXで再上映していた。Netflixでしか観たことなかったが、あの映像やハンス・ジマーの音楽は劇場で観ると暫く宇宙から帰って来れなくなる。脳内ではまだcornfield chaseが流れている。

『インターステラー』といえば、作中の宇宙の描写や物理学理論について、キップ・ソーン(後のノーベル物理学賞受賞者)率いる専門チームが監修したことも有名だ。そのこともあって、作中ではなかなか難しい物理学的概念がバンバン出てくるし、登場するブラックホールや「事象の地平線」の描写はかなり大迫力だ。
これらの専門的で難解な部分は、ストーリーの大筋ともかかわってくるので、しばしば詳しい方々が解説をしてくれている。なので、ここではもっとミクロな側面に触れたい。今回改めて観て気づいたが、本作では意外と露骨にキリスト教的モチーフが散りばめられている。西洋圏の観客に関しては改めて指摘するまでもないことなのかもしれないが、日本人が鑑賞するときはキリスト教に関する引用は若干わかりづらい部分もあるかもしれない。別に知らなくても『インターステラー』を理解するにあたって何も問題ないのだが、せっかくなので気になった点をいくつか見ていきたい。


ラザロ計画

『インターステラー』の物語の骨子となっているのは「ラザロ計画」だ。要するに、死にかけている地球を捨て、人類が移住できる惑星を探す計画である。クーパーとブランド博士は、地球を救う方法について、映画の序盤で次のような会話をしている。

ブランド博士「”ラザロ計画”だ」
クーパー「不吉な名だ」
ブランド博士「聖書では蘇った」
クーパー「一度死んでる」

クリストファー・ノーラン監督、『インターステラー』、2014年、ワーナー・ブラザース・エンターテインメント。

ここで簡潔に示されているように、「ラザロ」とは、聖書の中で一度死んだ後、キリストが蘇らせた人物として知られている。

死からの復活は、教義的に考えてもイエス・キリストの起こした奇跡の中でも最も重要なものだ。なぜなら最終的にキリストは自らの死をもって人類の罪を贖い、そして自身もまた死から復活するからである。ラザロの復活はその予兆として位置づけられている。
「ラザロ計画」の目的は、まさに病気に蝕まれる地球が一度死に(ラザロ本人も病気で死に至る)、復活することである。クーパーが不安を感じているように、この時点で若干の不穏さが見え隠れしている。ラザロ計画は「人類が居住するのに向いている環境の惑星を発見し、現在の地球を捨ててみんなで移住する」プランAと、「良環境の惑星で、受精卵を人工培養し種としての人類を存続させる」プランBの二段構えとなっている。ラザロは「一度死んでから蘇る」ので、ブランド博士は最初から人類という種は一度死ぬことを想定していたのだろうことが暗示されている。

マン博士

マット・デイモン演じるマン博士は、「ラザロ計画」で送り出された12人(奇しくもキリスト教を広めた使徒の数と同じ)の探索者のうち、最高の天才と呼ばれた人物である(余談だが先遣隊が発見した惑星は3つ、こちらもキリスト教では非常に重要な数である)。英語圏ではしばしばみられる苗字だが、明らかに人類(Man)を表象している(なお、名前の綴りはMann)。
マン博士がたどり着いた星は、過酷な極寒の地だった。期限を設定せずコールドスリープに入っていた彼をクーパーらが起こすが、その時マン博士はこのように答える。

マン博士「まさに奇跡だ。君たちが神様に見えたよ。」

同上。

マン博士は他者の手によって死から復活している(≒ラザロ)。この点において、クーパー(たち)がキリストの役割を担っていることをマン博士自身が明確に指摘している。
結局、マン博士は「神様」を裏切ることになる。この構図は極めてキリスト教的である。人は罪深き存在であり、神を幾度となく裏切ってしまう。こういった価値観は、遠藤周作の作品を原作とした映画『沈黙 -サイレンス-』で登場するキチジローなどでも描かれている。キチジローは何回も踏み絵を行い、何度も神を裏切るがそのたびに赦しを請う。そしてキリスト教の神は、赦しを請う人に対し寛容である。罪深く神を裏切る人の存在は、キリスト教的モチーフとして象徴的なものであり、彼はまさに普遍的人間そのものを表象している。マン博士は罪深き普遍的人類である。彼は「正しい」クーパーに対し、このように言葉を投げかける。

クーパー「私は卑怯者じゃない。君はまだ試されていない。私のようには」

(英語のセリフ)
Don't judge me, Cooper. You were never tested like I was. Few men have been.

同上。

ここで"judge"や"tested"といった語が使われているのも宗教的な印象を強める働きをしているように思う。
「マタイの福音書」のなかで、イエスが悪魔によって誘惑をうける場面があり、そこで彼は「あなたの神である主を試してはならない」と申命記(聖書の一部)の一節を引用して誘惑を退ける。
マン博士はイエスのように誘惑に耐えることができなかったのである。彼はクーパーに対し、こう言いたいのだ。ご高説を垂れるお前も、同じような状況になれば、誘惑に屈するに決まっている、と。罪深き人が救世主に対し迫害を行う様子は、まるでイエスの旅路そのものに思える。

クーパーの選択

燃料も尽き、ナビゲーションシステムも故障した状態で、クーパー(たち)はどのような選択をしたか。

クーパーはマン博士と違い、自身を犠牲にして人類という種を存続させることを選んだ。

つまり、アメリア博士と受精卵をエドマンズ博士の惑星に送ることによるプランBの実現を目指したのだった。常に地球に帰還する燃料を念頭に置いていたクーパーにとっては、この状況がまさにマン博士が予言していた試練であったように思えるが、彼はまさに人類の救世主たるところを見せたのだった。この一連の流れは、文字通りイエス・キリストの贖罪の再現である。自己犠牲の行為がいかに聖性を帯びているか、という点に関しては、例えば映画『コンスタンティン』のラストなどでも描写されている。

愛による救済

クーパーはガルガンチュア(ブラックホール)の内部に落ちていくが、おそらくここからが作中で最も難解なパートだと思われる。それらの物理学的な考証はひとまず置いておくとして、なんやかんやあってクーパーは娘であるマーフに重要なデータを伝達することに成功する。ここでははっきりと作品のテーマが提示される。

クーパー「ここは1人の少女の部屋だ。すべての時が無限に入り組んでる。彼らは自由に時空を超え何にも縛られない。だが特定の時間と場所でのコンタクトはできない。だから俺がここにいる。マーフに伝えるために。」
TARS「どうやって?」
クーパー「愛だよ 愛。愛が観察可能なら何かで数値化できるはずだ。」

同上。

愛はキリスト教の重要な概念の一つである。同じアブラハムの宗教であるユダヤ教と、イエスが説いた教えの違いとして、愛の重要性があげられる。「アガペー」と言われる神の愛について、ここで解説するには長くなりすぎるから割愛するが(というかよくわかってないからできない)、とにかくキリスト教における神は愛を説く神でもある。ユダヤ教が説く厳しさを持つ神とは違う側面だ。
本作では明らかに愛が世界を救うきっかけになる。厳密にキリスト教的な愛とは違うかもしれないが、比喩ではなく、親子の愛が次元を超える。

選ばれしものであるマーフ

またこれらの一連の流れでのクーパーのセリフは興味深い。

クーパー「俺じゃない。選ばれたのはマーフだ。」
TARS「何のために?」
クーパー「地球を救うためさ。」

同上。

TARSは五次元の住民のことを「彼ら」と呼んでおり、このやり取りは「彼ら」にマーフが選ばれた、という話をしている。選ばれしものが世界を救うという考え方は非常にキリスト教的な価値観に思える。最近でも、イエスを題材にしたドラマで『The Chosen』というタイトルのものがある。まさに「選ばれしもの」というわけだ。あまり日本の宗教的価値観で選ばれしものが世界を救うという感覚はないのではないだろうか(生贄はたまにある)。

面白いことに、クーパーのファーストネームは(作中であまり呼ばれない気がするが)ジョセフである。これはイエスの父(神ではない方)と同じだ。世界を救う選ばれしものは子供のほうだったわけである。このあたりは厳密に聖書をなぞっているわけではないが、クーパーのキャラクター像は、イエスの父であるジョセフの役割と、イエス本人の役割をいくらかブレンドしたもののようにみえる。

神の役割を持つ「彼ら」

世界の救世主を選ぶ超越的存在として、五次元の人々である「彼ら」はまるで神のようだ。古代から現代までの人々が神と呼んでいたのは、実は五次元人のことだった、と一瞬考えそうになるが、実は『インターステラー』の面白いところはそうは一筋縄でいかないところである。

TARS「彼らが四次元立方体を閉じ始めた。」
クーパー「まだわからないのか?彼らじゃない。俺たちだ。俺はここに導かれマーフに伝えた。人類のためだ。」
TARS「人類にこれは作れない」
クーパー「ああ。今はまだ無理だ。だが将来俺やお前じゃなく未来の人々が…。四次元を超えて進化した人類が作る。」

同上。

『インターステラー』のストーリーは回帰的である。最初の不思議な現象はクーパーが過去のマーフに向けて飛ばした重力波だった。何者かにNASAに導かれたと思っていたクーパーは、導いたのは自分自身だったことを悟る。時空に物理的に干渉したクーパーは、超越的な五次元空間に自らを導いたのもまた、未来の人類であろうことを直観している。

まとめ

クーパーを導いた超越的存在は自分自身であり、つまるところ、クーパー自身がある意味、キリスト教のモチーフでいう父なる神であり、子なる救世主であるわけだった。たしかに神話的要素を拾っていくとそうなるわけだが、同時に物語を間近で鑑賞していた我々は、クーパーが子を思う1人の父親であり、強いけれども1人の人間である(でしかない)ことをよく知っている。
クーパーは、おそらく、未来の人類が進歩を重ね、四次元立方体を形成するほどの技術力を得るようになり、人類はほかでもない人類自身の手によって救済されたのだと、予感した。ここまで散々古典的なキリスト教的要素をなぞっておきながら、救済は人類自身の手によってなされるというわけである。これは世界を救うのは、どこかの誰か(神)ではなく、現在の我々と地続きの未来の人類である、という考え方であり、まさしく現代的宗教観と言えるだろう。意識的か無意識的かはわからないが、こういった現代的宗教観が非常に明確に提示されている点も、『インターステラー』の魅力の一つである。

ちなみに…

執筆中に調べていて気付いたが、似たような話をすでに非常に端的かつ的確にまとめてくださっている記事もあった。参考までに。

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